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華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

国家の殺人――死刑に関する覚え書き

2006-06-25 23:25:22 | 死刑廃止/刑罰

 光市母子殺害事件の無期判決を最高裁が破棄したことに絡んで、このところブログ上で死刑に関する議論が目立つ。本当はきっちりと考えて書くべきテーマなのだが、「これから考えていくための覚え書き」として一応文字にしておきたいと思う(最近忙しいせいで、メモばっかりである……)。なお、 「とりあえず」のluxemburgさん、「愚樵空論」の愚樵さん、「徒然気儘な綴り方帳」のMcRashさんその他、私がよく訪れるブログで死刑廃止論が展開されている。私のメモよりはるかに緻密に書かれているので、そちらをご参照いただきたい。

 結論から先に書くと、私は死刑は廃止すべきだと思っている。たとえ対象者が「極悪非道な人間」であっても、死刑という方法で抹殺してはならないと。その理由を簡単に書き並べておこう。(死刑廃止論については多くの著書が刊行されている。法理論や諸外国の事情、死刑の歴史などをお知りになりたい方はそれぞれの本をお読みください。以下は私のごく個人的かつ素朴な考えに過ぎません)

〈殺人と復讐の正当化、および命の交換〉

 あたりまえの話だが、死刑というのは「人を殺すこと」、国家の手を借りた殺人である。どれほど言葉を飾っても、人殺しの正当化にほかならない。また、死刑というのは「国家の手による仇討ちの代行」の意味合いがある。「個人で復讐してはいけませんよ。代わりに国が復讐してあげますからね」というわけだ。つまり復讐の正当化という価値観に支えられた刑罰なのである。それは違う、と言う人もおられるかも知れないが、この手の議論ではすぐに「被害者遺族の感情」うんぬん、という話が出てくる。死刑は復讐代行の面もある、とみなされている証拠であろう。

 また、「人を殺せば(殺した人数や殺し方によって)死刑」という考え方は、裏返せば「自分の命と引き替えならば人を殺してもいい」という価値観につながる。実際、それを崇高なもののようにみなす考え方も昔からあるようだ。たとえば生還の可能性ゼロの刺客などは、「自分の命を投げ出して」という1点で美化されてきた。私は暗殺を全否定はしないけれども(時代や状況によって、それ以外に方法がないところまで追いつめられたケースもあったと思う)、人間は命の抹殺という手段の不要な社会を目指してきたのではないか。

〈遺族の感情について〉

 光市母子殺害事件は確かに残虐な犯罪であった。遺族が犯人を憎悪し、自分の手で殺してやりたいと絶叫するのは、ある意味で当然のことだと思う。ただ、殺害の方法や殺された人数にかかわらず、「身内を(あるいは近しい人間を)殺された人達」は同じような憎悪を抱くのも、また事実であると思う。車にはねられて亡くなった子供。無理心中させられた女性。医療過誤で亡くなった老人。……彼らの遺族は、加害者を殺してやりたいと泣き叫ぶ。そんなものは光市母子殺害事件の遺族・本村氏の絶望と比べれば大したことはない、と誰が言えるだろう?

 遺族の感情を思いやるならば殺人者は死刑にするべきだ――というならば、「殺した相手が1人だけであろうと」「いかなる殺害方法であろうと」そして「犯人に明確な犯意があろうとあるまいと」、人を殺せば死刑という単純明快な法律を作らざるを得ないのではないか。薬害エイズ事件の安部氏らも、有罪判決であったならば当然、死刑であろう(そう言えば川田龍平氏に、「私と一緒に死んでください」という言葉があった)。

 こんな言い方をすると語弊があるが、「誰に」「どのように」殺されようとも、死は死である。直接的であれ間接的であれ、また犯意があろうとなかろうと、人を死なせれば死刑になってもやむを得ない、と言える人はどれだけいるだろうか。

〈嗜虐心というもの〉

 人間の心の奥には、サディスティックな感覚や凶暴な衝動が潜んでいる(自分はそんなものはナイ、と断言できる人はおられるだろうか?)。人類はそれをよく自覚した上で、必死でそれを飼い慣らし、昇華させようともがいてきたはずだ。だが、私達はまだ存在として発展途上であるらしく、ともすれば悪魔的な歓びに身を任せてしまう。……と言ってしまうと大げさだが、要するに加害の楽しみについ浮かれるのである。むろん多くの人々は「善良な市民」であるから「犯罪行為」にまでは手を染めないが、正当な理由?があればたやすく浮かれてしまう。「正義の旗のもと」であればなおのことで、とどまるところを知らずエスカレートしていくのだ。泥棒を捕まえた村人達が「あいつを吊せ!」と叫んだ時。関東大震災の時(※1)に朝鮮人を囲んだ自警団が「あいつらを殺せ!」と叫んだ時。あるいは王城に乱入した反乱軍の兵士達が逃げまどう女を捕らえて輪姦した時。自分達は正しいことをしているのだという表の顔の陰に、嗜虐心がねっとりと滲み出ていなかっただろうか。死刑や拷問やリンチは、人間の心の奥に潜むサディスティックな感覚を刺激する。

 死刑はある意味で、いい「見せ物」である。対象となる人間は「極悪人、人」だから、安心して「処刑しろ」と叫ぶことが出来る。キリスト教徒がコロシアムでライオンの餌になるのを見るように、頬を紅潮させ、目を輝かせて見物する(実際に自分の目で見るわけではないが)ことができる。私達は私達の中に、「正義の名のもとに、人間を抹殺する楽しみ」を育ててはならないと思う。

※1/蛇足的註=関東大震災の混乱の中で軍が「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「放火した」などのデマを流し、それに踊らされた自警団など(軍や警察も関与)の手で朝鮮人6000人以上が虐殺された。

〈犯罪者は癌細胞か〉

 犯罪者は、癌や畑の害虫にたとえられることがある。放っておくと大変なことになるから、除去してしまおうというわけだ。しかし癌でさえ、人によっては「それも自分の一部。なだめながら共生していこう」と考える。害虫の方は、害と思っているのは人間の一方的な価値観で、虫にとっては「なんで?」の話だろう(むろん害虫とも共生しましょう、と言っているわけではない。私も蚊は叩きつぶすし、家にはゴキブリ捕りを置いているが)。ましてや犯罪者は人間である。人間社会の中で「害」があるからといって、腫瘍のようにバッサリ切り取ればよいものではあるまい。

 犯罪は「なぜ起きるのか」「なぜ起きたのか」を分析し、起きないような社会を形成していくことが最も重要。それ抜きで「癌細胞」の排除にやっきになっている限り、無くなることはむろん、減ることもないだろう。

〈国家に人を殺す権利はない〉

 この項目は、異論のある方も多いかも知れないが……私は国家というものに懐疑的である(と言うとカッコ良すぎる。ありていに言えば、国家なんぞというわけのわからぬものが怖いのだ。※2)。できれば無くなるのが最もよく、しかし明日無くすわけにもいかず、今のところ生活していくために便利だからという理由で認めている「必要悪」に過ぎない。ところがこの必要悪は――実態のない砂上の楼閣ゆえだろうか、妙に意気込んでくれるから困るのだ。頼みもしないことに手を出し、虚の世界のくせに実の世界の住人達を締め上げようとする。そんな「国家という怪物」に、私は「人間を抹殺する権利」を与えるべきではない、と思っている。必要悪だからこそ、権利は最低限に抑えるべき。ヒトの生き死にの問題に口を出させるべきではない。

※2/私は「国家」が嫌い、というよりどうしても肌に合わない。それでブログでも国家なるものへの嫌悪を始終吐き散らしてきた。万一ご興味を持ってくださった方がありましたら、下記がその一例。

2.23「私も国家を否認する」、3.24「国家に恩はない」、4.22「芸は売っても身は売らぬ、もちろん心も売りませぬ」、5.14「芸は売っても……(3)」

◇◇◇◇◇

【山口県光市の母子殺人事件の最高裁判決に関連して、死刑廃止論バッシングのような世論が形成されつつあるようだ】とMcRashさんが書いておられた。

いわゆる「凶悪事件」が起きたり、その判決が出ると、にわかに死刑擁護論が勢いづく。むろん私は死刑擁護論をヒステリックにしりぞける気はないが、葵の印籠かざした「世論」とは厳しく一線を画したい。尻馬に乗るのではなく、どうか「自分の頭」で考え、「自分の言葉」で語って欲しい。どれほど拙くても知識不足でも、世界に拮抗しうるのは「自分の言葉」だけである。(自分の言葉、という話はUTSのコラムに少し書いた。ドサクサ紛れに宣伝しておきます)

(ブロガーの中には……というより、もしかするとほとんどのブロガーは、だろうか? 下書きをし、推敲し、これでOKとなってからエントリをアップしておられるようだ。私は推敲どころかまともに誤字のチェックすらせず、メモ感覚で書き流しているので、そういう方達のブログと比べるとほんとに恥ずかしい限り。しかしまあ……これもブログ、と最近は開き直ってもいる……スミマセン)

 

コメント (12)
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