華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

ジョークは武器になりうるか(メモ)

2006-06-21 02:30:03 | 雑感(貧しけれども思索の道程)
(これは備忘録的なメモです。覗いて下さった方、すみません)

もしかすると同類の人が多いかも知れないが、子どもの頃、試験の前になるとやたらに本を読みたくなった。その妙な癖は今でも治らず、忙しければいそがしいほど常にも増して本に淫してしまう(要するに、片付けねばならない目の前の課題から逃げているのである……なさけない)。ここ2~3週間やたらに多忙で(今日から2泊3日予定の出張で、朝早い飛飛行機に乗らねばならないし)「忙しい忙しい」と愚痴を言いながら、振り返ってみると結構本を読んでしまった。

読み散らすだけの読書はあまりよいことではないので、簡単なメモぐらいは残しておこう――

昨日電車の中で、『ナチ・ドイツと言語』(宮田光雄著、岩波新書)を読んだ。ナチ・ドイツ社会を材料として、政治の世界における「武器としての言語」について書いた本である。新書だから細かな分析は割愛されているが、問題提起という意味では非常におもしろかった。同書は言語を「民衆にナチスのイデオロギーを刷り込むための上からの言語」「民衆の抵抗の道具としての言語」および「深層意識における言語」に分けて考察しており、いずれも私の頭を刺激してくれたが、今日は2番目の「抵抗の道具としての言語」についてメモしておきたい。

ナチス政権下では、洪水のようにジョークが生まれ、ひそかに伝達され国中に広がった。さまざまなところで紹介されているので既に御存知の方が多いと思うが、同所でも紹介されているジョークの中から1つ2つ紹介しておこう(むろん同書に掲載されている通りの文章ではないが、大意は同じ)。

【1936年にジュネーヴで国際外科学会が開かれ、晩餐会で出席者が自国の医学的成果について語り合った。アメリカの医師は「腸の大部分をプラスティックの管に取り替えることに成功した」と言い、スウェーデンの医師は「我々は既に止まった心臓を手術で再び動かす方法を開発した」と言った。これを聞いたドイツの医師は、負けずとこう言った――「そんなことはものの数ではありませんね。我が国では国民の大部分が脳みそを摘出されても、誰もそれに気づいていないんですからね」!】

【ヒトラーが100歳になった老婦人を尋ね、1つだけ何でも希望をかなえてあげようと言った。老婦人は地上のことには何の関心もないが、自分が死んだときに美しい新聞広告を出して欲しいと言う。それに対してヒトラーが『フェルキッシャー・ベオバハター』に半ページ大の広告を載せようと約束すると、老婦人はこう答えた。「それはイヤです。フェルキッシャー・ベオバハターでは、誰も信用してくれませんから」】
(蛇足的な註:フェルキッシャー・ベオバハター=当時の御用新聞)

こういった「政治的ジョーク」のプラス面とマイナス面があるようで、著者の宮田氏は双方を冷静に提示している。プラス面は【ヒトラーに対する反対派を結び合わせる目に見えない共同体を想像したこと】であり、それ自体が【抵抗運動の一種である、という意見もある】(同署・154ページ)
だが、同時に政治的ジョークは、【不愉快な現状に対する激しい不満と怒りのはけ口を提供する〈通風弁〉にすぎなかったのではないか、結果的には〈体制安定化的〉な働きをしたのではないか、という醒めた解釈も出てくる】(155ページ)

どちらかが絶対的に正しい――とは言えない、と私は思う。権力者に対するからかいや政治的ジョークは、「それを作り、伝達し、ひそかにささやくこと」でガス抜きの役割を果たすこともままある。「思い切り悪口を言ったら、スッキリしちゃった」というやつである。古今東西、庶民は自分達を抑圧する権力に対して落書きや歌などを通して舌を出してきた。日本の場合で言えば、たとえば後醍醐天皇の時代に書かれた「このごろ都にはやるもの……」の落書や、江戸時代の狂歌や川柳等々。

むろん、それら自体が世の中を覆す力を持った、とは私は思わない。場合によっては、確かにガス抜きの役割も果たしてしまっただろう。だが、そういったジョークを作り続け、しつこく繰り返す情念は、決してばかにできるものではない。違和感を言葉に出して確認し続け、他者と共有するという意味があるからだ。昨日(6月20日)のエントリで、私は次のような文を書いた。

【我々の戦いには、シンボルもカリスマもいらない。シンボルやカリスマを求めた瞬間に、運動はピラミッドへの媚態を示して身をくねらせ始める。名もない庶民(私もそのひとりであると、誇りを持って宣言する)が権力側の攻勢を「へへっ」と鼻で嗤い、個々の感性に導かれてゲリラ戦を展開すること――かすかな希望はその一点にだけにつながれていると思うのは、私の妄想だろうか】

政治的ジョークは、ゲリラ戦のひとつの武器ではないだろうか。私はそういうセンスも才能も皆無なので作ろうと思っても作れないが、滾々と言葉の沸く人は何人もおられるはず。誰か作ってくれないものだろうか。

尻切れトンボのエントリになったが、出張から戻ってきて後、また続きを考えてみることにする。

コメント (2)
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