華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

「再チャレンジ」などいたしません

2006-06-30 02:43:18 | 格差社会/分断・対立の連鎖

 ポスト小泉の本命などと持ち上げられている安倍官房長官についてハムニダ薫さんが火を付けられた「《安倍晋三、統一協会合同結婚式に祝電》をネット上に広げようキャンペーン」がブロガーの間で盛り上がり、現在も「あんな男が首相になったらオシマイだ」という声が相次いでいる。

 私も「いよいよこの国も末期症状を呈してきたか」と開いた口がふさがらない一人。上記のキャンペーンも尻馬に乗って、じゃなかった微力ながら応援しているのだが、ここではそれと別の話を書いておきたい。「再チャレンジ」の問題である。

 そのことは6月12日のエントリの中で少しばかり触れたので、まずは(さぼって)それを再録しておく。UTSの素楽さんのコラムをまねたリサイクルである(笑。猫に喋らせた体裁になっているので、言葉が汚いのは御容赦のほど)。

【「再チャレンジできる社会」だの何だのって言ってるけどさ、あの人が考えてる再チャレンジって、要するに「何度でも競争しろ」っていうだけじゃん。「イチ、抜~けた」ってのはダメ。負けても負けても、立ち上がれって。スポ根ドラマじゃねえ、っつーの。で、「チャレンジし続けている限り、あんたは負け組ではないのですよ~オーホホホ」なんて、適当にひとをなだめようとしてるんだよな。こんなイヤったらしい飼い慣らしを嬉しがるなんて、人間てほんとバカだよな。】

 チャレンジということそのものには、何の罪もない。 結構なことである。だが本来は(たぶん)権利を主張するとか課題に取り組むとかいう意味だったはずのチャレンジという言葉が、いつのまにやら椅子取りゲームで勝つことという薄汚い意味にすり替えられてしまった。言葉が奪われていくさまを、まざまざと見せつけられた思いがする。かなしく、そして悔しい。

 スミレほどに小さい存在でありたい、という意味のことを漱石は呟いた(正確な言葉は忘れた)。富国強兵にひた走る当時の社会においてタワゴトに過ぎなかったその呟きは、今もなお――いや、一層にタワゴトとして嗤い飛ばされている。競争から降り、風や水の吐息と自分の息をひとつに合わせて、ささやかに生きることは悪なのだろうか。駆り立てられるままに眦を決して戦いの太鼓に昂揚しなければ、生きていくことを許されないのだろうか。

 チャレンジというのは私にとっては、自分の中で自分の命と言葉を探るためだけに使う言葉である。官房長官殿、そして何度でも武器を執って戦えとけしかける人々よ。あなたがたのいうチャレンジの貧しさに、私はたとえ殺されても(なんて言うのは、いくじなしの私には卒倒するほど勇気がいるのだけれども)組みしない……。

◇◇◇

ついで……と言うのは変だけれども、同じ6月12日のエントリで「言葉」についてもちょっと書いていたので、それも再録しておく(リサイクルもいいところだ……恥)。再チャレンジ、再チャレンジとのたまう安倍官房長官が、いかに言葉を薄汚いものにしているかという部分である。

【(中略)教育基本法改正案を「21世紀にふさわしい、日本の香りがする改正案」とかさ(※)。どーっこが、日本の香りなのかね~。中身のからっぽな、キレイキレイな言葉をずらずら並べただけじゃん。漂ってくるのは嘘っぽい香りだけ。

(中略)どれも言葉だけ聞けば、別に文句のつけようはないことじゃん。ま、オイラなんざ「郷土や国を愛する気持ち」とか「道徳心」とかのあたりは、ちょいとゲゲゲだけどね。まあ、ごく素直に「いいんじゃないすか?」と思う人は多いだろうし、それはそれでかまわないと思うんだよねっ。でもさ、こういうキレイな言葉ほど、中に汚いものを詰め込めるんだよな~。汚いものを隠せる、っつうか。たとえばさ、「愛する」なんてすっごくキレイな言葉でしょ。でも、そういう言葉で嗜虐心とか支配欲とか、その他いろんなものにフタしちまう奴が世の中、いっぱいいるじゃん。バラの花には棘がある、じゃないや、桜の樹の下には死体が、でもない……ええい、何でもいいや。ともかくキレイな言葉ほど気をつけた方がいい、とオイラは思ってんの。腐りかけた食べ物をそのまま出されたら誰でも眉ひそめるけど、いっぱい香料ふりかけて、豪華な皿に盛って、ついでに綺麗なトッピングでもされて出されたらさ、わかんなかったりするじゃん。

※「(現行法との)最も大きな違いは、現行法では抜け落ちていた、『公共の精神を尊ぶ』『伝統・文化の尊重』『郷土や国を愛する気持ち』『生命や自然の尊重』『道徳心』『自律の精神』などを書き込んだこと。21世紀にふさわしい、日本の香りがする改正案だと思う」(夕刊フジ・6月2日インタビュー記事より)】

ああ、言葉、言葉! 私達はここまで言葉を奪われてしまったのか。

仁義礼知信忠孝悌、『南総里見八犬伝』の霊玉の刻まれていた文字は(私の個人的感覚では忠だけは例外だが、その他は)もともと人間の基本的なモラルと深くかかわっていたはずなのに、権力者の側に奪われた途端に地獄に堕ちた。私達がそれを奪い返せるのは、いつの日のことだろうか…。

 

コメント
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