華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

いつのまにやら慣らされて

2006-02-28 02:25:19 | 雑感(貧しけれども思索の道程)
人間は「慣れる」動物である(他の動物も同じかな)。隣の娘のガングロ・メークも、向かいのジイチャンの短パン姿も、最初はギョッとしたが毎日見ているうちに見慣れた。……まあ、こういうのは別にどうでもいい。買い物したときに「1万円“から”お預かりします」と言われるのも、以前から古本屋の倉庫みたいだと言われていた住処がますますその傾向を強め、トイレに行くとき積み上げた本の山を崩さぬよう体を斜めにして歩くのにも慣れた……これらは若干問題あるかも知れないが(後者のほうは整理整頓能力の欠如した私の問題です、もちろん)、まあ大したことではない。少なくとも世界を不幸にする類のもの……ではない。

しかし、立ち止まって考えるたびにゾッとする「慣れ」もある。

逆進税である消費税に反対した。でも消費税法は成立し、いつの間にかモノの値段にそれが付いていることに慣れた。福祉の分野に受益者負担の考え方を持ち込む介護保険に反対した。しかし介護保険法は成立し、いつの間にかその存在を認めた形で喋っている自分に気づいた。慣れというのは恐ろしい……。

何かが動き出し、大勢を占めるようになると、私たちは知らず知らずのうちにそれが「当たり前」になってくる。「意識」だの「思想」だのと言えばいかにも立派なもののようだが、人間の頭や心のありようは、自分を取り巻く無数の断片――あまり神経を尖らせて注視していない日常的な断片たちによって、知らぬ間に少しずつ変容するのではあるまいか。(存在が意識を決定するとか、環境と人間の相互作用とか、そういう難しい話をしているのではない。もっと低レベルの、しかもまとまりのつかぬ話であることをご理解の上でお読み下さい)

たとえば、しばしば見られる医師のパターナリズム(※)。もちろん医師がみんなそうであるなどと乱暴なことは言わない。パターナリズムを持たない医師も大勢いるのだが、他に比べて持ちやすい、そして持つ割合の比較的高い職業であるとはいえる。これは医師自身あるいは医学界の責任――という面もむろんあると思うけれども、同時にそれを生み、助長してきた「環境」がある。医師はセンセイと呼ばれ――いや、先生でもかまわないのだけれども、病院に行くと「いまセンセイが来られますから待っててネ」などと言われることも稀ではない(先生と呼ばれる職業のひとつに弁護士もあるが、弁護士事務所に行ったときはさすがに「いま、所長が参りますのでお待ち下さい」と言われるよ……)。ここで一番偉い人なのだ!という雰囲気が漂い、患者の方はついつい「ははー。診ていただいて感謝感激、恐縮の至りでございます」とハナから低姿勢になってしまう。患者の方は病気になってある時はあわてふためき、ある時は意気消沈してやってくる。当然弱い立場であり、その点だけとっても、普通、医師と患者は対等になりにくい。そこへ持ってきて看護師や薬剤師といった人たちから「来られますので」、「診ていただきましょう」、「先生のおっしゃる通り」などと連発されれば、(むろん、すべての人がではないにせよ)多くの患者はかすかに卑屈な気分になってしまう。そして医師は肘掛け椅子にゆったり座り、患者は堅い丸椅子にちょこなんと腰掛けるという診察室のありよう(※)。受診する側がそういう雰囲気に対してさほどはっきりものを言わず(※)、診る側も何ら疑問を感じないという状況の中で、パターナリズムはある種の市民権?を獲得してきた……。

むろん、「慣れ」がよい方向に作用することもある。すぐに最適例は思いつかないが……そう、たとえば同性愛者に対する偏見は、周囲に同性愛者が何人もおり、彼らと普通に付き合っていく中で自然に消えていく(ちなみに私の周囲にも少数ではあるが同性愛やバイセクシャルの人々がいる)。異邦人に対するある種の気後れや恐怖も、国籍を異にする人々と知り合い、ごく日常的な付き合いを重ねることで次第に薄れていく。男性保育士や男性看護師などが増え、オムツを替えたり離乳食を作る男が増えていくにつれ、後天的に刷り込まれていた役割分業の感覚も薄れていくだろう……。

そして――「慣れ」を形作っていくものは無論多くの場合は漠然とした「世の中の雰囲気」や「世の中の好み」であるのだけれども、法律や条令の類もまた大きな力を持つ。冒頭に書いた消費税や介護保険に関する法律は私の中ではマイナスのイメージがあるが、今の憲法や民法や教育基本法は、我々の日常感覚の平衡を保つ上でプラスに働いたと私は思う(民法については部分的に疑義もあるが、それはまた別の話なのでカット)。

法律の網をかけられれば、私たちは初めは「ん?」と違和感を持つかも知れない。しかし、やがて慣れる。「そういうものだ」と思い始める。一例を挙げると婚姻に関して。戦前は家長の同意が必要であったが、戦後は家長制度が廃止され、「同性の合意のみ」で結婚できるようになった。もちろん、世の中には「許さ~ん! 勘当する!」などと落語の世界でしか聞けないような言葉を口にする人も絶無ではないらしいが、周囲から「あの人、頭が古いから」と苦笑されておしまい。おおかたの親は「両性の合意のみに基づいて」という考え方を自然に受け入れている(おまえの相手は気にくわん、オレは断固反対だと言う人はいるけれども、これはいわば“意見”である。親も子も意見を言うのは自由であり、考え方を強制されることはない。第一、勘当法などというものはなく、どれほど怒り狂っても効果ないのである――少なくとも、失うものの少ない庶民の場合には。だから訳知りの親戚などが出てきてまあまあとなだめ、最終的には何とか丸くおさまる)。

やや意図的に、憲法9条や教育基本法とはやや離れた話をグダグダと書いた。私たちの「ものの見方」は、法律や制度を基盤とする「世の中の色合い」によって少しずつ変わる、と言いたいがためであるが、さてそれを巧く語れたかどうか?

法律が改変され、世の中が少しずつ「ある方向」に動き始めれば。……おそらく私たちは「慣れる」だろう。学校で愛国心を教えられ始めると、最初のうち、親たちは(親たちの何割かは、と言ってもよい)「何か、気分悪い」と思うかも知れない。しかし10年20年経つうちに……「まあ、そんなもの」になってしまうだろう。自衛軍なるものが創られた場合も同様で、やがて「あるのが当然なもの」になるだろう。私たちの日常感覚は、かすかな違和感にひとつひとつ神経を尖らせておれるほど鋭敏ではないのだから(鋭敏な方もおられるに違いないが、私は自分がそうだと言い切る自信はない)。

今夜も独り酔っている。酔いながら書いたものを推敲もせずさらけ出す愚はまあ思い切り嗤ってもらうとして、万が一にも「慣れることの怖さ」を共に考えていただける人がおられればこれに勝る歓びはない。私もこれから繰り返し、しつこく考えていくことにする。

※蛇足※
1)パターナリズム=父親的温情主義、などと訳される。相手に対して「おまえはナーンもわからないんだからね。黙ってオレの言うことを聞いてりゃ、間違いないんだ。オレはおまえのこと考えて言ってるんだからね」という態度で接すること(華氏的説明)。
2)医師―患者関係に関する批判的な言辞/いささか乱暴な言い方だ、と非難されるのは承知の上である。しかし、私の知り合いの医師もこんなことを言っていた。「自分が患者や患者の家族の立場になると、知らず知らず、相手の医者に対してペコペコしてしまうんですよね……ほんと、受診する側に回れば弱い立場だから」。
3)むろん、患者の権利や自己決定権の問題に取り組んできた(そして今も取り組んでいる)人々は医療者側・患者側を問わず大勢いる。ただ、それがやはり圧倒的な力を持たずに今に至っていることも事実であると私は思う。


コメント (2)
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