華氏451度

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「格差社会」に対する素朴な違和感

2006-02-14 04:06:23 | 格差社会/分断・対立の連鎖
これは私のごく素朴な感覚である――。

「私は格差が出ることは悪いこととは思っていない」という小泉首相の発言(1日午後の参院予算委員会における答弁)に対して、多くの批判の声が上がっている。怒り、あきれ、激しく批判したブログも枚挙にいとまがない。

その一方で、「格差がつくのは当然ではないか」という意見も少なくないようだ。もしかすると、「格差は努力による競争の結果である。全く格差がつかないのであれば、人間、努力する甲斐がない。ただ、格差が固定するのはよくないし、セーフティーネットもきちんと整備すべきである」というのが、最も多数を占める常識的?な意見であるかも知れない(アンケートをとったわけではないので、実際のところはわからないが)。

だが、私は――固定しようとすまいと(むろん、固定しないより固定する方がはるかに問題なのだけれども)基本的に、「格差が出るのは悪いこと」だと思っている。10日ほど前にブログで書いた文章を、もう一度載せておくと……

【能力のある人間、あるいは競争の勝者は金も力も手に入れることができ、能力のない人間、あるいは敗者は地べたをはいずり回っていろ、という考え方には組みしない。「少数の年収ン千万円(ン億円?)の人間と、多数の食うや食わずの人間がいる社会」よりも、「みんながそこそこに食べていける社会」の方が私にとっては居心地がいい。「年をとって介護が必要になった時、自費で最高の手厚いケアを受けられる人がいる一方で、介護保険の自己負担分が払えないためろくにサービスを利用できない人もいる社会」よりも、「みんながほぼ平等なケアを受けられる社会」を選びたい】

努力すれば「それなりの報い」を受け取れるはず、というのは本当に正しいのだろうか。報いがなければ誰も努力しなくなる、というのは本当だろうか。人間は、そんな安っぽいものだろうか。

私は長年働いてきたけれども、「流した汗」及び「自分自身の満足」と、受け取った対価とは必ずしも比例していない。むしろ反比例したことの方が多いかも知れない。これはどうしてもやっておきたいと思えば「手弁当」で働いたような気がするし、それによって金を儲けて美味しいもん食べようとか、喝采してもらおうともあまり思わなかった(むろん思いがけずお金が入れば嬉しいし、褒めてもらえれば嬉しくて単純に舞い上がってしまうけれども、それはいわば偶然にもらってしまったオマケのようなものだ)。

食べるために、気乗りのしない仕事はたくさんやってきた。著名人のゴースト・ライターをしたことも何度もある。ちなみにゴースト・ライターというのは、貧乏なフリー・ジャーナリストの貴重な収入源のひとつなのである。古典芸能や伝統工芸関係の方などの自伝を書いたり、忙しい評論家の本を代筆したり……。もちろん、いくら何でも自分の思想信条に反する仕事はしないが、財布の軽い時は「ま、いいか」程度のものを引き受けてきた(たとえば海外で長く生活した方の体験談とか、金魚の上手な飼い方、程度のもの――もちろんこれは適当な例であって、金魚の飼い方などはゴーストしたことない)。そういった場合は、せちがらいほどビジネスライクにお金を戴くが、自分から望んだ仕事については「最悪、持ち出しになってもかまわない」と思っている。ついでに言うとゴースト・ライターであっても、「これは記録に残しておくべきだ」と思う内容であれば、報酬は二の次である。

私は二流の(厳密には三流以下かも。笑)、そして無名&貧乏なジャーナリストのままで終わるだろうが、それでも一向にかまわない。恥ずかしいことはしなかったよな、時々自己嫌悪に陥ったりしたけれども、言いたいことは言ったしやりたいことも(自分の能力の範囲で)やったよな、と思えれば充分だし、金も食っていくだけあれば充分である(飢え死にはイヤだけれども)。だから……私はつい、疑ってしまう。「努力や能力に応じて格差が生まれるのは当然」という人は、実は自分のやっていること(仕事)が後ろめたいのではないか、と。

脈絡のない話になってきた。ついでに脈絡ないまま続けるが、少し前に一人の友人と激しく論争したことを思い出す。彼は国立大学の教官なのだが、給与の安さをぼやくものだから、「贅沢言うな」と難詰したのだ。君は自分が望んだ職業に就き、コツコツと自分が望む研究を続けている。そして君は食うに困っているわけでもなく、必要な本を買うのに躊躇するわけでもなく、さらに言えば君の収入は、同じ年齢の人々の平均収入よりも多い。それで何が不満なのか――と。

彼は、自分の能力と業績に対して、報酬が少なすぎると思っているようだった。確かに彼は昔から私など足元にも及ばない秀才だったし、その研究の成果によって社会に貢献していると思う。……それでなぜ不満なのだろうと、鈍才の私は思ってしまうのである(彼との論争は、まだしつこく続いている……。古い友人で、お互いわかっているところが多いので、決定的な決裂には至っていないけれども)。

むろん私は(自信を持って言うが)凡人だから、「金なんていらねーよ。ペッ」と澄ましているわけではない。物質的な欲望はたっぷりある。衣食住にはあまり金のかからない人間だけれども、買いたい本はいっぱいあるし(前出の友人に、おまえさんの生き方を全うするなら図書館で読むべきだと言われてしまった。苦笑)、劇を見たり、たまには旅行にも行きたい。1年ぐらい働かないで暮らせるといいなあ、などと思ったりもする。だからしっかり宝くじを買ったりもしているのだ。しかし……これだけは確かに言えるのだけれども、必死で生きている隣人たちの何ものかをかすめ取ってまで、いい思いをしたいとは思わない。そんなことは――ごく単純な感覚として――気分が悪いではないか。
「金が欲しい、女が欲しい。ただそれだけで人を殺した」(ルネ・クレマン監督『太陽がいっぱい』。封切り時に観たわけではないので、念のため。笑)みたいな走り方はしたくない。

いい加減に、余談はやめよう。……
ひとはなぜ、「どちらが優れているか」という競争をし、「これだけ成果をあげたのだから、いい思いをして当然」と思うのだろう。生きても、たかだか百年に過ぎないのに。起きて半畳、寝て一畳なのに。「能力のある人間」がその能力を「自分のもの」と思わず、「たまたま人より勝っているところがあるのは天恵(私は確信犯的無神論者なので神の恵みとは言わない。天恵というのも本当は変かも知れないが、仮の言い方として使っておく)。明日を夢見るために、気前よく提供します」と言える世界……はユートピアなのだろうか。
コメント (26)
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