「戦前責任」という言葉がある。既によく御存知の方が多いと思うが、念のため簡単に説明しておこう。(もしかするとかなり前から用いられていたのかも知れないが、私の場合は)長崎大教授・橋眞司さんの造語のように記憶している。数年前だったかなと思って一応確認してみたところ、1998年の長崎原爆忌で使ったのが最初だそうである。何ともう、一昔前ではないか……。以下、1999年に発表された橋さんの言葉を紹介する(全文を御覧になりたければ、YahooかGoogleで検索してください)。
【責任とは、道徳的人格としてのひとが自らの自由な意志決定にもとづく行為の諸結果を自らの上に引き受けることである。そして、戦争こそ人間がなし得る最大の破壊的事業であるのだから、人が担うべき責任のうちでもっとも大きく重いものは戦争責任であろう。しかし、その戦争責任というのが感じることのもっとも難しいものなのである。とくに、戦後50年以上を経過して、今日の若者が戦争責任と言ってもこころに響くものがないというのも怪しむに足りない。ところで、私は昨年夏の長崎原爆忌のラジオ放送で、戦前責任という言葉を使って、若い世代の戦争に対する責任を指摘した。そして長崎の諸大学で出会う学生たちに、君たちにも戦争責任はある、と言ってきた。私の言う意味はこうだ。今、二十歳前後の君たちには先の戦争に関する戦争責任、そして戦後責任はないと言えるであろう。だが、次の新しい戦争の準備を着々と進めさせない、さらに、新たな戦争を引き起こさせない、という戦前責任はある、というのである】(引用終わり。以下略)
最近、この「戦前責任」という言葉がひどくリアリティを持って迫ってくるようになった。21日付けのエントリ「足元が揺れている」「続・足元が揺れている」でも書いたが、私の耳には最近、とみに「足音」が聞こえてくるようになった。むろん私もまた「戦争を知らない子供達」である。戦前の日本がどんな道を辿ったのかということについては、大半が書物から得た知識であり、それにごく一部、戦争経験者の体験談が混じっているに過ぎない。しかし幸いなことに、すべての(と私はあえて言う)人間には自分が実体験していないことでも、その気になれば鮮やかに追体験できるという能力がそなわっている。
足音を聞いている人々は、決して少なくない。古い友人達からのメールも、ある種の怯えを表現する言葉が増えてきた。「現代ファシズム形成史を実体験しているような気がします」というメールをくれたのは、大学で教師の卵を育てている友人。「久しぶりに帰国してテレビで小泉首相を見た。あの論理も何もない感情的な喋り方がブッシュ大統領の演説と双子のように似ていてゾッとした。アメリカもおかしいが、日本も狂っている」と言うのは、仕事で長くアメリカに滞在していた友人。「日本には何の未練もない。国を捨てたいと真剣に思い、移住を考えている。敵前逃亡と笑わば笑え」と言ったのは美術で飯を食っている友人だ。
ごく若い頃、戦争体験を聞いて回ったことがある。その時、「なぜおかしいと思わなかったのか」「なぜ戦争を阻止できなかったのか」という類の、教条的な言葉を吐いた自分を今、恥じる。「まさかあんなことになるとは思わなかった」という言葉が、今、骨身にしみてわかるような気がする……。
だが、私達は同じ愚を繰り返すわけにはいかない。一度目は悲劇、二度目は喜劇という。何十年か後に生まれてくる人々に、「あいつらはとことん馬鹿だった」と言われたくはない……。9条をかなぐり捨てることの意味、小学生から「国を(アプリオリに)愛するよう強要される」ことの意味、報道に規制をかけられることの意味……等々を、私たちが思い知った時は既に遅いのだ。
私は自分の弱さ、卑劣さをよく知っている。挙国一致体制になって――集団自衛権ナントカとやらでよその国を傷つけに行く同胞達を激励しなければ非国民と言われ、君が代斉唱を拒否することが罪になり、テロを想定した住民訓練に参加しなければご近所から白い目で見られる……そんな時代が来たとき、私は自分の思想信条を守り通せる自信がない。私は小林多喜二のように強くないから、逮捕されて長期間拘留され、座っている椅子を蹴飛ばされるなどの脅しをかけられただけで、「へへッ」と恐れ入ってしまうだろう。言ってはならぬことを、ペラペラと喋ってしまうだろう。そう……遠藤周作の多くの小説に登場した、心弱い棄教者たちのように(※)。
※私は遠藤周作の思想的なベクトルには共鳴できないが、10代の頃に『海と毒薬』『沈黙』などいくつかの小説を読んで、心のある部分がぞくっ……としたことを覚えている。
だからこそ、手遅れにならないうちにはっきりと「NO」を表明しておきたいのである。自分が醜悪な人間にならないために……。
【責任とは、道徳的人格としてのひとが自らの自由な意志決定にもとづく行為の諸結果を自らの上に引き受けることである。そして、戦争こそ人間がなし得る最大の破壊的事業であるのだから、人が担うべき責任のうちでもっとも大きく重いものは戦争責任であろう。しかし、その戦争責任というのが感じることのもっとも難しいものなのである。とくに、戦後50年以上を経過して、今日の若者が戦争責任と言ってもこころに響くものがないというのも怪しむに足りない。ところで、私は昨年夏の長崎原爆忌のラジオ放送で、戦前責任という言葉を使って、若い世代の戦争に対する責任を指摘した。そして長崎の諸大学で出会う学生たちに、君たちにも戦争責任はある、と言ってきた。私の言う意味はこうだ。今、二十歳前後の君たちには先の戦争に関する戦争責任、そして戦後責任はないと言えるであろう。だが、次の新しい戦争の準備を着々と進めさせない、さらに、新たな戦争を引き起こさせない、という戦前責任はある、というのである】(引用終わり。以下略)
最近、この「戦前責任」という言葉がひどくリアリティを持って迫ってくるようになった。21日付けのエントリ「足元が揺れている」「続・足元が揺れている」でも書いたが、私の耳には最近、とみに「足音」が聞こえてくるようになった。むろん私もまた「戦争を知らない子供達」である。戦前の日本がどんな道を辿ったのかということについては、大半が書物から得た知識であり、それにごく一部、戦争経験者の体験談が混じっているに過ぎない。しかし幸いなことに、すべての(と私はあえて言う)人間には自分が実体験していないことでも、その気になれば鮮やかに追体験できるという能力がそなわっている。
足音を聞いている人々は、決して少なくない。古い友人達からのメールも、ある種の怯えを表現する言葉が増えてきた。「現代ファシズム形成史を実体験しているような気がします」というメールをくれたのは、大学で教師の卵を育てている友人。「久しぶりに帰国してテレビで小泉首相を見た。あの論理も何もない感情的な喋り方がブッシュ大統領の演説と双子のように似ていてゾッとした。アメリカもおかしいが、日本も狂っている」と言うのは、仕事で長くアメリカに滞在していた友人。「日本には何の未練もない。国を捨てたいと真剣に思い、移住を考えている。敵前逃亡と笑わば笑え」と言ったのは美術で飯を食っている友人だ。
ごく若い頃、戦争体験を聞いて回ったことがある。その時、「なぜおかしいと思わなかったのか」「なぜ戦争を阻止できなかったのか」という類の、教条的な言葉を吐いた自分を今、恥じる。「まさかあんなことになるとは思わなかった」という言葉が、今、骨身にしみてわかるような気がする……。
だが、私達は同じ愚を繰り返すわけにはいかない。一度目は悲劇、二度目は喜劇という。何十年か後に生まれてくる人々に、「あいつらはとことん馬鹿だった」と言われたくはない……。9条をかなぐり捨てることの意味、小学生から「国を(アプリオリに)愛するよう強要される」ことの意味、報道に規制をかけられることの意味……等々を、私たちが思い知った時は既に遅いのだ。
私は自分の弱さ、卑劣さをよく知っている。挙国一致体制になって――集団自衛権ナントカとやらでよその国を傷つけに行く同胞達を激励しなければ非国民と言われ、君が代斉唱を拒否することが罪になり、テロを想定した住民訓練に参加しなければご近所から白い目で見られる……そんな時代が来たとき、私は自分の思想信条を守り通せる自信がない。私は小林多喜二のように強くないから、逮捕されて長期間拘留され、座っている椅子を蹴飛ばされるなどの脅しをかけられただけで、「へへッ」と恐れ入ってしまうだろう。言ってはならぬことを、ペラペラと喋ってしまうだろう。そう……遠藤周作の多くの小説に登場した、心弱い棄教者たちのように(※)。
※私は遠藤周作の思想的なベクトルには共鳴できないが、10代の頃に『海と毒薬』『沈黙』などいくつかの小説を読んで、心のある部分がぞくっ……としたことを覚えている。
だからこそ、手遅れにならないうちにはっきりと「NO」を表明しておきたいのである。自分が醜悪な人間にならないために……。
友人達にイラク派兵や憲法の話を向けても「今、子育てが忙しいから、落ち着いてから考える」とか「TVが間違ったこと言うわけない」とかね。
う~ん。その気持ちも分かりますが、それも戦前責任の放棄につながっちゃうと思うんですよね。
自分の戦前責任、考えないといけないです。絶対。
それと、TBがうまくいきません。妙な神話について書いています。
「戦前責任」、重い言葉です。
「沈黙」については、ぜひ一度一席設けたいですね。
これは違う。私たち団塊の世代の責任が大きいような気がする。もちろん優劣をいっているのではない。
確かホリエモンが登場したとき、団塊の世代の支持率が高かったような気がしている。居酒屋での話でも「小泉劇場」を容認し、(客観的ではないが)第三者的に楽しんでいたものも多かった。
厳しい環境で「沈黙」を余儀なくされているのならば、「沈黙」を破る時ですよといいたい。「沈黙」の責任は大きいのですから。
よ~く分かってはいるんですが、だから余計に生き難い。
「戦前責任」確かに重く受け止めなければいけないと思います。
http://www.edu.nagasaki-u.ac.jp/private/philnaga/sekininn.html
「歌わせたい男たち」の記事へのTB,コメントありがとうございました.
pikoさん;「知ろうとしない罪」「自分ひとりで考えない罪」……そうですね……私たちは確かに日々の生活に追われていて、何もかも知り尽くすことはできないと思います。ただ何と言うのかなあ、「最も大切な部分」を判断するための眼、は持っておきたいですね。
(URL違ってましたね。お訪ねしようとしたら、「ページが見つかりません」でした……)
yamamotoさん;高橋さんのページのご紹介、ありがとうございました(記事書いた人間がちゃんと明示すべきなのに、さぼっておりました……すみません)。
私もおぼろげながら感じていたことに「戦前責任」という名前が与えられたことにはっとしました。国家や権力者やマスメディアなどの有形無形の圧力に屈して、自分の良心や思想を曲げなければならない社会をいつのまにか作りつつある私たち日本人。それは民主主義とは程遠い、「圧政」とでも呼ばれるものなのに。北朝鮮やひところのソ連の体制にそっくりになりつつあるのに。それを日本人は本当に望んでいるのでしょうか。
それに気付くのにまだ遅くない、と信じたいけれど...。
良い記事をありがとうございました。