華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

「紅旗征戎はわがことにあらず」……そりゃ言ってみたいよアタシも

2007-04-11 23:31:39 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

 本日の寝言。もし読んでくださる方がおられたら、なにとぞ寝言とご承知の上で。

 タイトルは御存知、藤原定家の言葉。そりゃ言ってみたいですよ私も。……というか、そう吐き捨てられたらどんなにいいかと常に思う。もともと本読んでフィクションの世界を漂ってりゃハッピーで、できれば山頭火みたいに生きられたらどんなにいいだろうと思い、そのくせ山頭火になれなかった自分のヘタレがよくよくわかっているから、それならば自分のアホさ加減と向き合ってボチボチ生きていくしかないかと泣き泣き断念した。査証なき惑星になりきれない以上、日常のことどもに真面目に向き合うしかないのだと、あるとき芯から思い知った。随分昔……のことだけれども。ある「なし崩しの敗北」に打ちのめされた時、私は自分が「なんぼのものでもない」存在であり、だからこそ愛しいのだということを思い知った。私はアホや、だからアホの気持ちは泣けるほどわかるんや。でもなんぼアホでも生きていていたいんや、明日を夢見たいんや……と、これだけは掛け値なく思い知った。

 これもかなり前のことだが、難民キャンプで何かできることがあればやりたい、とかなり真剣に思ったことがある(私は家族というしがらみから逃げ続けてきた人間なので、その意味では身軽なのだ)。だが仲間や知人達にその相談した時……「あんたが行っても邪魔なだけ」と言われてしまった。医師や看護師であれば働く場があるし、それ以外でも何らかの専門的な技術や知識を持っていれば役に立つ。神父などの宗教者も、有用である。でも何もない人間に来て貰っても、正直なところ足手まといなのだと。

 それらの返事を聞いて落胆する一方で――自分の卑劣さにひそかに涙が出るのだけれども――ある一面、ホッとしたことも歴然とした事実。私はいわゆる自由業、と言えば聞こえはいいけれども「飢え死ぬのも自由だぜ」と言われている人間だけれども、それでもこの日本で生きている限り、何とか食べては行ける。そのヌクヌクした場をすべて放擲できるかと真っ正面から問われれば、私は言葉を失って立ち尽くしただろう。危うい砂上の楼閣であっても、失うのはやはり怖かったのだ。

 そう……覚悟も何もなく、ただ単に卑怯者と言われたくなく、自分も少しは他者の役に立ったと思いたく、それだけの思いに突き動かされていただけなのだ。そんな自分を、私は自らが生きていたということ自体が壮大な恥辱であると思わざるを得ないほど恥ずかしい。どうせポーズだろ、安逸な場にいて綺麗なことを言ってるだけだろ、という声が今も私を責め続ける。

 ブログなどという柄にもないものを始め、さらに柄にもなく「しゃかいじょうせい」に対する意見など書き込みながら、常に私は引き裂かれている。あたしゃそんなえらそうなこと言える人間ではないのです、ほんと、いつも逃げ出すことばかり考えているのだから。ゴメンナサイ、カンベンしてください。でもそうやって見えない相手にヘコヘコ頭下げながら、私は私だと囁くものが確かに私の奥底に棲む。

 円心に向かって収束していこうとする感覚と外に向かおうとする感覚の間で引き裂かれながら、どちらにも全身を委ねることが出来ず、しじゅう軸足がブレ続けた私への、これは罰だろうか。未来永劫おまえは許されないのだという緋文字だろうか。

 ネットというある意味でのイリュージョンの世界で、寝言を吐き続ける自分を嫌悪する自分がある。

【飢えて泣く子の前で、文学は何の役に立つか】

 という言葉がある。10代の私はこれに衝撃を受けて、「本読んでりゃ幸せ」の自分を絞め殺してやりたいほど恥じた。そしてそれが、私を(薄っぺらであるかも知れないけれども)政治運動に駆り立てた。柄にもないことはするな、と友人達にあるいは冷笑され、あるいは必死の形相で引きとめられつつ……。

 この問いに対する答えは、まだ見付けることが出来ない。そして「引き裂かれ」に対する答えも、また。

 酔いながら、不意に寺山修司の短歌を思い出した。

【吸ひさしの煙草で北を指すときの 北暗ければ 望郷ならず】

 私は寺山の作品が好きで、特に短歌が好きで、それについては1年以上も前に「好きだった本を思い出してみる・2」というメモ的な文章を書いたこともある。これは私の原点のひとつ(あくまでも、「ひとつ」に過ぎないのだが)である。(注)

 望郷ならず。

注/何年か前、新宿のゴールデン街(すんません、地域限定的な話で。……飲み屋街、と単純に解釈してください)で友人と飲んでいて、何となく寺山修司の話になった。私もその友人も寺山修司に幾分かずつのシンパシィがあり、ああでもない、こうでもないとグシャグシャ話をしてたのだが、その途中を突然、店のマスターに遮られた。マスターは若い頃、寺山と一緒に活動していたらしい。で、「おまえらみたいな若僧に寺山の神髄がわかるかッ」と叱られてしまった。いや、若僧、なんて言われる年じゃあないんやけどね。一緒に飲んでた友人なんか、子供二人の教育費でアップアップしている、押しも押されもせぬ中年おやぢだったのですが。でもまあ彼から見れば年下のヒヨッコだったのだろう。……で、その時に思ったことがひとつ。「おまえらにわかるか」という言葉が錦の御旗になるとき、どれだけひとを離反させるか。リアルに体験できていなくても、人間はイマジネーションによってそれをまざまざと追体験することができる。それが嘘だというならば小説や物語などには何の値打ちもない。

(自分でも怖いほど酔っております。脈絡のないところは、いずれぼちぼちメモ書きするということでお許しを)

 

 

コメント (3)
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