見ないフリ

一時的な対応策にしかならない現実逃避をずっとするブログ

信濃路紅葉鬼揃(しなのじもみじのおにぞろい)

2022-01-04 | 本と漫画と映画とテレビ
人は芸術作品で装うか、あるいは芸術作品になるべきだ。
ーオスカー・ワイルド


吉田修一の小説『国宝』を読んで、歌舞伎に興味が沸き、
小説の主人公・喜久雄のような当代随一の女形というものを見てみたい!と切に願っていたら、2021年12月の歌舞伎座にて、坂東玉三郎の出る『信濃路紅葉鬼揃(しなのじもみじのおにぞろい)』という演目がかかっているではありませんか。

これはもう行くしかないでしょう。

しかも、今回は奮発して、1階1等席を予約。
1万5千円!!!
たかーい!




その前に。

小説『国宝』を読み、歌舞伎座の1等席まで予約して興奮ぎみの私に、
「歌舞伎が舞台といえば、宮尾登美子の『きのね』という小説もある」と母親が教えてくれ、さっそく読書を開始。

しかし、
主人公の性格にイライラが止まらなくなり即座に中断。



『きのね』
著者:宮尾登美子
初版発行: 1999年4月

1933年(昭和8年)、実科女学校を出たての主人公・光乃が、当代一の歌舞伎役者の家へ女中として奉公することになり…という物語。

この主人公・光乃が、当家の長男・雪雄に辛抱強く献身的に仕える姿が鼻についてしょうがない。ほんとイライラする。
従順な奉公人という割には、雪雄の結婚相手にはアドバイスのひとつもしてあげないし…

そもそも、
雪雄の「家庭内暴力」を「癇癪持ち」という言葉でフワっとさせているのも辛抱ならない。コイツ、顔がいいだけのDV男やんけ、と思う。
光乃、我慢しすぎやて…。
おまけに後半では、
光乃がひとりトイレで出産した上に助産師からも褒め称えられるもんだから、現実離れしすぎて「なんだこいつ〜?」とひとりジョイマンごちてしまう。

イライラが収まらないので、ストレス発散がてら「きのね イライラ」でネット検索をしていると大発見。

実はこの小説、
11代目の市川團十郎(現・海老蔵の祖父)とその妻をモデルに書かれた話なんだそうで。びっくり。

そうなるとこちらのテンションも、
純文学から週刊文春を読む気分に切り替わり、サクサクと読破。ワッショイ。

事実は小説よりも奇なりですな。


ついでに、
坂東玉三郎が出演している映画『夜叉ヶ池』(1979年 監督:篠田正浩)を早稲田松竹に観に行ったり、YouTubeでシネマ歌舞伎『阿古屋』の予告動画を観たりして、観劇への最終調整をする。真面目。


当日。

歌舞伎座、1階席。
前から8列目!上手寄りの竹本近くの席だったため、花道はやや遠いけれど、三味線の弦が途中で切れて素早く張り替えるところが間近でみれてもう最高。役者の身につけている小物なんかもよく見える。(花道奥の桟敷席に座るお客さんがみんなきれいな着物姿の女性で、壮観だった)

観劇した第3部は「義経千本桜 吉野山」と「信濃路紅葉鬼揃」の2本立て。

1本目の「義経千本桜 吉野山」は、満開の桜が咲く吉野の山中を、静御前(中村七之助)が恋人・義経の元へ向かう道中の話。ただそれだけ。特にドラマはない。

ただ、旅のお供としてついて来る義経の家来・佐藤忠信(尾上松緑)が、実は子狐が化けているという設定のため、ちょいちょい仕草が狐っぽくなる。これが大層かわいい。このかわいい狐忠信と静御前のかわいさを愛でる演目(知らんけど)。

M-1グランプリ2021のランジャタイの漫才に大きな衝撃を受けた直後だったせいか、子狐が化けているはずの忠信が、ニャンちゃんに操られているようにも見えてしまい、より一層かわいい。

静御前役の七之助は、映画『夜叉ヶ池』の玉三郎級に美しいし、忠信役の松緑の踊りはかわいいうまいしで、大満足。




2本目は、待ってましたの「信濃路紅葉鬼揃」

能の「紅葉狩」を題材につくられた舞踊劇。
初演が2007年で、今回は3回目の上演らしい。

信濃の戸隠山を通りかかった平維茂(中村七之助)が、美しい女官(坂東玉三郎)と侍女5人(中村芝翫の息子たち他)に紅葉狩りに誘われるが、実は、この女官と侍女は山に住む鬼だったのです!という日本昔ばなし的な物語。
途中、酒に酔ってまどろむ維茂のもとに山神(尾上松緑)が訪れ、この場からただちに逃げるよう助言してくれたりもする。山神様の踊りも大層ステキ。

能が由来の演目だからか、全員の衣装がぽってりとしていてとてもかわいい。

生の玉三郎に感動していたのも束の間、美しい女官から鬼の姿への変わりように驚愕。口を開けた時の顔が異形のそれで、子供の頃に見ていたらきっとトラウマになっていただろうと思う。

そして何より、立役の七之助の美しさに目が釘付け…!
お目当ては玉三郎さんだったのに、もはやそっちのけで七之助を凝視。

小説『国宝』で、客が主人公・喜久雄のいる舞台上に上がってしまう場面があったけれど、あの客の気持ちがよくわかる。

1本目の女方・静御前の美しさにも惚れ惚れしたけれど、いやいやいや…。
舞台上の誰よりも小さな顔面。端正な顔立ち。
ドラマ『愛の不時着』的にいうならば、顔面天才というやつ。

歌舞伎特有の、見えているのか見えていないのか分からないくらい目を細める表情。
あれなんなん?かっこよすぎません?

小説『きのね』の主人公が、初めて雪雄の舞台を見た時に、
「煌々たるライトに映えてその白い顔は水もしたたる美しさ、端麗この上ないものに見える」
「初めて見る押し絵の羽子板の絵」
と息を呑んでいたけれど、まさにそんな感じ。

この七之助になら、どんなに殴られても許す!というダブルスタンダードも発出。
(いや、七之助は警察官以外は殴ったことないだろうけども)

さらに、美しい七之助と鬼の玉三郎の立ちまわりが、もはや国宝絵画。重要文化財。
あれ?この錦絵、どこぞの博物館に飾ってありませんでしたか?金の屏風から飛び出して来たんですか?と何度も思う。

おまけに、この荘厳な芸術品の周りを、5人(5匹?)の鬼たちがものすごいジャンプ力でぐるぐる回るもんだからもう迫力満点で失禁寸前。なんじゃこりゃ〜!

す、す、すごいものを見てしまった




今なら(3/13まで?)国立博物館で、9代目市川團十郎と5代目&6代目尾上菊五郎の「紅葉狩」の映像が観られる。(1899年に撮られたそうで、現存する最古の日本映画。重要文化財らしい。途中で、團十郎が普通に扇子を落としてたりしてた。多分ネットでも観れる。)

文楽『仮名手本忠臣蔵』

2022-01-04 | 本と漫画と映画とテレビ
映画『モダン・タイムス』でチャップリンは、ルネ・クレールの『自由を我等に』で描かれた流れ作業の様子を真似していたから、僕はルネ・クレールに会った時に「チャップリンはあなたの真似してますね」って聞いてみたんです。そしたらクレールは「そうじゃない。私がいつもチャップリンの映画を真似している。さまよったり、幸福を求めたりする愛情を、いつも真似してますよ。それは芸術家同士がキャッチボールをしているようなものです」なんて言ってた。そういう考え方も面白いね。
ー雑誌『20世紀映画のすべて 淀川長治の証言』より


2021年11月の話。

吉田修一の小説『国宝』を図書館で借りて読み始めたら、
そりゃどうしたってぇ歌舞伎が観たくなる物語だったので、
取るものも取りあえず、歌舞伎座でかかっていた『花競忠臣顔見勢(はなくらべぎしのかおみせ)』という演目の3階席を予約。



歌舞伎の三大名作の一つ『仮名手本忠臣蔵』の外伝?なのかな?

人生初歌舞伎。

コロナ禍につき、「高麗屋!」「澤瀉屋!」などの大向うはなく、内容もかなり短縮されていたようだけれど、イヤホンガイドのおかげで初心者でも非常にわかりやすいうえ、歌舞伎という芸能を初めて目の当たりにして、それはそれは驚きとワクワクの連続で。

「心」というでっかい看板が上から降りてきたかと思えば、それが「夢」という意味だとか。
立役(男役)と女形(女役)、意外とみんな両方するんだ〜とか。
馬の動きが、人間が入っている被り物なのにめちゃくちゃ馬や!とか。
定式幕の開け閉め、超絶かっこいいな!!とか。
黒子は見えないという暗黙の了解があるのな!!とか。

なにより、序幕「第一場 鶴ヶ岡八幡社頭の場」の始まりが大層よく、
元々は人形浄瑠璃(文楽)の演目だったものが歌舞伎化されたという流れを汲んで、幕開けの舞台の役者たちは人形のようにうつむき無表情。
そして、太夫と三味線の浄瑠璃で紹介されると、命が吹き込まれたように役者が動き出すという演出。

幕前にはマスクをつけた口上人形が出てきたりと、序盤にほとばしる人形浄瑠璃リスペクト。



役者の所作や殺陣、伴奏、効果音なんかにもいちいち驚嘆しつつ、
次は、小説『国宝』の主人公のような当代随一の女形(坂東玉三郎とか?)みるー!と心に誓って歌舞伎座を後にする。


そして12月。
歌舞伎のおもしろさにホクホクしていたのも束の間、
皇居周辺を散策中、国立劇場の前に文楽『仮名手本忠臣蔵』の掲示があるのを発見し、興味本位で席を予約。

勢いで席をとったものの、人形は小さいから話がよくわからないだろうな…という不安もあり、今回は鑑賞前に文楽『仮名手本忠臣蔵』をしっかりと予習。



初演:1748(寛延元)年8月、大坂竹本座
作者:二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作
概要:1701(元禄14)年に起きた赤穂事件(※)をベースに創作された全11段からなる人形浄瑠璃。

※赤穂事件:将軍・綱吉の時代、江戸城・松の廊下で赤穂藩主・浅野内匠頭が高家の吉良上野介に斬りつけたことで、切腹に処せられたことを不服とした浅野の家臣・大石内蔵助以下47人が吉良邸に討ち入り、吉良上野介を討った事件。(浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつけた理由は不明)

初演当時は、実在の事件を芝居にすることが幕府から禁じられていたため、時代設定が軍記物語『太平記』の室町時代に変えられている(服装などは江戸時代そのままっぽい)。
登場人物の名前も塩谷判官(=浅野内匠頭)、高師直(=吉良上野介)、大星由良助(=大石蔵之介)という風に微妙に変更されている。

こういう江戸時代の禁止令を庶民がぬるっとかわす手法と、最近のナインティナインのオールナイトニッポンのジャネットネタの進化とには共通するものを感じる…。

(天保の改革により歌舞伎役者を浮世絵に描くことが禁止になったので、役者の顔を猫にした歌川国芳の「猫の百面相」↓)



実際の事件をベースにそれに関わる人物たちの群像劇という型は、日本版レ・ミゼラブルともいえる(違うか)。吉田修一の小説『怒り』とかもそう?(なんか違う)

ざっくり相関図。



(塩谷家の腰元・おかるが事件の発端にされがちだけれど、元凶は桃井家の当主の短気だと思う…)

今回上演されるのは、2段目の松切りの段と、3段目の進物の段、殿中刃傷の段、4段目の判官切腹の段、城明け渡しの段、8段目の道行旅路の嫁入のみ。11段全て上演すると丸一日かかるところを、今回は約3時間のコロナ禍仕立て。

人形の見えづらさを心配していたものの、国立劇場の小劇場はかなりこじんまりとしていて、後ろから2列目だったにもかかわらずよく見えた。
歌舞伎座の3階席からみる歌舞伎役者よりは大きい。

あと、開演の15分くらい前に
二人遣いの可愛い人形が踊ってくれる(幕開き三番叟というらしい)。
見られてちょっと得した気分になる感じが大相撲の弓取式っぽい。

歌舞伎同様、緞帳(どんちょう)の紹介もあった。

感想。

『仮名手本忠臣蔵』という物語自体のおもしろさはイマイチよくわからなかったけれど、文楽はめちゃくちゃ面白かった。あと、情報過多で忙しい。

イヤホンガイドを借りたので左耳からはイヤホンガイドの解説、
右耳からは太夫と三味線の浄瑠璃、正面上部では太夫の語りの現代語訳の字幕が流れ、そして正面では人形の演技、その後ろには人形1体につき人形遣いが3人。

人形遣いには、頭・胴体・右手を操る主遣いと、左手を操る左遣い、足を操る足遣いがいるんだけれど、主遣いのみが顔を出しているというのも情報過多の一因だと思う…

さらに、殿中刃傷の段では斬られる人斬る人、それを止める人多数で小さな舞台がわちゃわちゃ。
人形だけ見ていると気にならないが、ちょっと俯瞰してみると、小さな舞台に人間がいっぱいいることに驚く。

ただもう、人形たちのかわいいことかわいいこと。
これに尽きます。

人形の首(かしら)にも役名とは別にそれぞれに名前がついているし、眉毛が上げ下げできる仕掛けがある子がいたり、ツメ人形といわれる一人遣いの子がいたりといちいちかわいい。ツメ人形の顔がこれまたかわいい。衣装も普通に脱ぎ着できるし、動くだけで本当にかわいい。江戸版「ひょっこりひょうたん島」。

それだけに、判官切腹の段で塩谷判官が事切れると、人形だけを舞台に残して人形遣いがいなくなるので、ああ死んじゃったんだなっていうのがダイレクトに伝わり本当に悲しい。。。

初文楽、人形ばかりに注目してしまったけれど、太夫と三味線も歌舞伎のそれとは少し違って興味深かった。というか、歌舞伎はなんだかんだで「歌舞伎役者が主役でぇ!」という感じが満載だけれど、文楽は太夫と三味線も主役だった…さすがに人形はしゃべらないから、代わりに太夫が語る語る。

昔は歌舞伎専門の太夫のことを差別的に「おちょぼさん」と呼んだそうで、文楽での太夫の活躍ぶりを鑑みるに、そう呼んでしまう気持ちもわからんではない…と思ってしまった。活躍の割には、客入りは歌舞伎の方が上なんだろうし、文楽側からの僻みや嫉妬も含まれた呼び名なのでは。なんて。

ついでに、
文楽発祥の演し物だとはいえ、歌舞伎と文楽とがお互いにパクリあって?切磋琢磨して?今の形になっているのがおもしろい!
と、落語「中村仲蔵」を聴きながら思う今日この頃(6代目圓生バージョンがいい)。

(口上の際の決まり文句「東西東西」は、欧米の「レディース&ジェントルメン」より俄然今風でよい言葉と思う)