己が或る「刹那」に「まあ、まて、お前は実に美しいから」と云ったら、
君は縛り上げてくれても好い。己はそれ切滅びても好い。
―森鴎外訳 ゲーテ『ファウスト』
ゲーテに問う。
この翻訳でいいの?
あなたの『ファウスト』は、彼の訳でOKですかー?
ずっと疑問に思っているのよ。文学の翻訳。
作家は、自分の書いた作品が
他人に翻訳されるってことを、どう思っているのだろう。
しかも、それが評価されるってどういう気分?
教えて、村上春樹。 教えて、大江健三郎。 教えて、アルムのモミの木よー
翻訳された作品も、100%自分の作品なの?
自分の作品には違いないけど・・・うーん、微妙だよね・・・
っていう原作がアニメ化された漫画家のような心境?
それとも、
自分の作品と、ストーリー展開・内容等は相違ないけれど、
作家の意図してない姿で表現しているという点で、
原作と翻訳本は全く別物ととらえているの?
音楽が、指揮者や奏者によって雰囲気がガラッと変わってしまうように、
翻訳というのも、そういうものだと考えていい?
むしろ、楽曲のカバーやリミックスみたいなものなのか?
・・・などなど。
翻訳のことが無性に気になる。
考えだすと止まらないの。ハートオンウェーブなわけ。
思うんです。
文学ってのは言語のみで表現される芸術作品なわけで、
その唯一の表現方法が変わるってのは、
かなり作品に大きな影響が出るんでないか、と。
翻訳された本からも、
作者の言いたいことや、ストーリー展開は読者に伝わるけれど、
文章の姿とか、その原作特有の空気感みたいなものは、
翻訳によって変わるでしょ。きっと。
だもんで、
言語Aで書かれた文学を、言語Bに翻訳する翻訳家という人は、
とっても重要な役割を担っているんだと思う。
言語Aで書かれた文学が、
言語B圏において名作になるか否かは
翻訳家の腕次第、といっても過言ではない!
(そりゃ、もともとの作品の中身が良いことが大前提よ、もちろん。)
だから、
翻訳という行為を作家本人が行う分には、
ぜんぜんそれは100%作家の作品だけど、
翻訳を作家本人ではなく、別の人が行った作品は、
30%くらい翻訳した人の作品になるんじゃないの?と思う。 私は。
もう、いっそ、
翻訳されることで、(翻訳家の原作理解力とか言葉センスが抜群で)
原作を超えてしまう翻訳作品も大いに存在することでしょう。
井伏鱒二のさよならだけが人生だ、的な。
ま、あくまで想像ですが。
つうか、私そもそも
日本語しか知らないので、あーだこーだ言えない。
翻訳があるから
多くの外国作品に触れられるのです。
ありがとう、翻訳してくれる人びと。
ただ、小説家ってのは
言葉の魔術師、芸術家だと思うので
自分の作品に手を加えられる、ということを
どう思っているのかしらん?という単純な疑問なのです。
映画はまだ、音と映像が補ってくれるけどさー、文学はさー、ってこと。
てか、もうね、
言語1こでいいよね。
訛りはまだいいけど、言葉の構造まで違うっていうのはよー!
なんで人間、言葉が違うんだー!
なんでバベルの塔なんか作ったんだ!バカ!
最後は作り話に八つ当りだよ。