「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

建築違反検査より犠牲者の身元探しが先決 川崎簡易宿泊所火災

2015-05-20 05:57:55 | Weblog
宿泊者8人が死亡、10数人が重軽傷を負った川崎市日進町の簡易宿泊所の火災は、不幸な日本の高齢者社会の一面を浮き彫りにした事件だ。すでに事件から4日も経っているのに8人の犠牲者のうち身元が判明したしのは僅か一人である。マスメデイアは、連日、焼失した建物が違法建築物であったかどうか、消防署の立ち入り検査を伝えているが、亡くなった方の身元探しの方が先決ではないだろうか。

東京の山谷、大阪の西成、横浜の寿町などに簡易宿泊所、ドヤ街があるのは一般にも知られているが、川崎市の日進町に40軒もの施設があったことを僕は知らなかった。若い頃、川崎には競輪、競馬や川崎球場へ何度も行き繁華街でも度々飲んだことがあったが、日進町のドヤ街の存在は知らなかった。しかも、利用者の宿泊人の大半が65歳以上の高齢者で、生活保護の受給者だとは驚きである。

しかし、200万人をこす生活保護受給者の4割は65歳以上の高齢者である。大都会で、独り暮らしの老人たちがヒッソリと生活するには、こういった簡易宿泊所が最も手とり早いのかもしれない。日進町の簡易宿泊所の犠牲者も、おそらく、こういった人たちかもしれない。しかし、僕が解からないのは、生活保護費を支給している役所での受給者との連絡対応が、どうなっているかという点である。

日進町の簡易宿泊所は京浜急行とJR南武線が交差した「八丁畷(なわて)」駅の近くにあるが、ここには江戸時代の俳聖、芭蕉の句「麦の穂をたよりにつかむ別れなり」の句碑と「八丁畷の由来と人骨」という慰霊碑が建っている。人骨は昭和の初め、開発事業のさい、江戸時代の人骨が多数発掘されたもので、おそらく川崎宿があった時代、災害で亡くなった無宿人の骨ではないかという。 因縁を感ずるが、一日も早く犠牲者の身元が判明し、成仏されることを祈っている。

民放OB会誌の政治主張と会員離れ

2015-05-19 04:48:27 | Weblog
10年間勤務した地方の民放のOB会から会報が届いた。その”後書き”にこんな記述があった。「国会の安全保障法制についての論議が始まる前に日米両国政府が、その内容を先取りしたガイドライン改定に合意してしまうとは。米国との約束を楯に論議を押しきろうという魂胆だ。憲法9条の制約など眼中にないかのような強引さが怖い」。民放のOB会誌である。代々木の政党機関誌の主張ではない。

サラリーマンの現役中、僕は四回転職している。そのうち三回は”会社の都合”、一回だけ”自分の都合”によるものだが、退職金は僅かづつだが、それぞれの会社から頂戴し、今でも四つの会社からOB会の会報が送られてくる。上記の”後書き”は、その一つ主張である。他の会社はOB会員の最新の消息(訃報が多くなってきたが)や会社の現況についての報告が多いのだが。

この民放は、まだ創設されてから50年も経たないのだが、OB会員は171人もいるという。しかし、年に一回の総会への出席者は僅か23人にすぎない。会報の一面にその写真が載っていたが、空席がめだち、まさに閑古鳥が鳴いているのだが、キャプションには”23人もの会員が参加,賑やかな会になりました”と、おざなりなことを書いている。要するに、この会報の編集子は、無神経なのである。会報におかしな政治主張を載せるのも、その無神経さによるものだろう。

この会社に限らず、どこの会社でも聞くことだが、最近は会社を”卒業”してもOB会へ入会する者が少なくなってきたそうである。年会費2千円ほど払えば会報が送られてきて会にでれば、会社からの補助もあって豪華な料理も食べられる。それより、昔の仲間と会え、歓談できると僕は思うのだが、それが若い”卒業者”にとっては、煩わいらしい。僕は総会がいつも遠隔の地で行われるので、欠席しているが、こんなおかしな政治主張をする会には、僕でも参加したいとは思わない

民のか竈(かまど)が消えないで済んだ大阪市

2015-05-18 05:48:58 | Weblog
”高津の宮の昔より栄を重ねて、民の竈に立つ煙賑わう大阪市”の大阪市歌(大正10年制定)が、昨日の住民投票で橋下徹市長掲げる「大阪都構想」が1万7千票という僅差ながら破れたことになり、廃歌にならずに済んだ。大阪市民でもないので無責任だが、僕には、今一つは橋下氏の構想には、理解でない点があった。それは、大阪市民の持つ独特の文化への無理解であった。文楽への助成金の廃止もその一つである。

”紫にほひしし武蔵の野辺に日本の文化の華咲みだれ”は、昭和18年、東京都が制定され、東京市が廃止されるまで、市民の間で愛唱されていた東京市歌である。 72年経った今でも僕はこの歌を憶えている。結果的には東京府と東京市が一本化されことによって、行政のムダが省かれ、よかったのだが、想い出として、この歌が廃止されたのは残念だ。

橋下氏の「大阪都構想」も、東京都にならって行政のムダをなくそうという点は、よく理解できるのだが、彼の持つ政治的なスタンドプレーが障害になっていたのではないだろうか。大阪市長なのに、国政にも口をだし、反面、文楽にみられるような地元文化への無理解で、それがマスコミを賑わいしすぎてきた。この数年間、彼の都構想で大阪市民は引っ張りまわされ、何回かもそのための選挙をさせられた。

橋下氏は、住民投票に敗れた事により、政治から手を引くという。個人的にはそれでよいかもしれないが「維新」とは何だったのか。「維新」を冠にした政党はどうなるのか。「日本維新の会」の江田憲司代表も辞任の方向だというが、「維新」の言葉が色褪せてしまった今、立て直しは大変だ。政治には個人のスタンドプレーは禁物だという教訓が残ったが、高津の宮以来の大阪の竈の賑わいが保たれてよかったのではないだろうかー。

ヨーロッパの「和食」ブーム

2015-05-17 06:06:20 | Weblog
昨日久しぶりに日本スペイン協会の文化の集い「ドンキホーテの会」に参加した。年齢と共に社会の接点が減り、ボケの原因にもなるので、会の主宰者の旧友に頼み、スペインには無関係なのに特別に参加させて貰っている。昨日の会では、最近、スペインの国際食品商談会に参加した方と、ベネルックス三国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ)へ観光旅行へ出かけられてきた方の帰国よもやま話があって面白かった。

一昨年12月、和食文化がユネスコの無形文化財に認定されて以来、世界で日本食がブームになっているそうだが、具体的なことは知らない。その意味でお二人の話は興味深かった。スペインの食品商談会のパーテイ会場には、おかしらつきの”生き造りが披露されたが、会場に集まったスペイン人は、何の抵抗もなく上手に箸を使って食べていたそうだ。昔から、スペイン人の間には、生のサーモンを食べる習慣はあったそうだが、この方の泊まったホテルを初め寿司店が市内に数軒はあるという。平成2年(1990年)老妻とマドリッドへ観光に行ったときには、在留邦人相手の日本料理店が一軒しかなかった記憶だが。

一見、日本とは無関係に思われるベネルックスの国でも、スーパーの食品売り場にはお寿司が”市民権”をえて堂々と売られていたそうである。オランダは旧植民地蘭印時代の関係から、ナシ.ゴレン(焼き飯)ミ.ゴレン(焼きそば)の食伝統はあるが、街中には”ラーメン”の看板もあったという。やはり、和食文化のユネスコ無形文化財登録がきっかけとなって、日本食への関心が強まってきた証拠なのかもしれない。日本食を通じて、いっそうの日本理解が深まれば、こんな良いことはない。

”認知症カフェ” 福祉介護は老人の視線から

2015-05-16 05:35:52 | Weblog
東京の地域(区)広報誌を見たら「認知症カフェー(D)」の紹介があった。記事の紹介によると、”認知症患者や介護の方を中心にコーヒを飲みながら医療、介護の専門家と話し合う”集まりだという。大変有意義な試みで、それにケチをつけるつもりはないが、問題はその名前である。80歳代の僕でも最近、若い人たちの間で「カフェ」という言葉が流行していることは知っているが、一方、同時に老人にとって”カフェ”は戦前は風俗営業で、売春の温床だった記憶も残っている。

地域包括センターという役所?がある。Wikpediaによると”地域住民の保健福祉、医療の向上をマネージメントを総合的に行う”機関である。しかし、一般の認識では、老人介護支援が主な仕事と理解されている。役所的な目では”包括”かも知れないが、利用者にとっては、もっとわかりやすい名前のほうがよい。例えば「お年寄り相談所」の方が解かりやすく、親しみやすい。「認知症カフェ」もそうである。「お年寄りお茶のみ会」で十分だ。

アニメの人気声優だった女性が、認知症だと、マスコミが大騒ぎしている。個人の尊厳にかかわることまで面白おかしくあばいている。いやな社会現象である。その原因の一つは、いまだかって、経験したことがない超高齢者時代に対して、日本人全体が対応できていないからだと僕は思う。例えば「包括センター」である。何故正面から、老人福祉支援を打ち出さないのか。高齢者対策をみると、どうも若い人の視線で行われているように思えてならない。高齢者の考え方、意見ももっと施策に反映すべきである。

5月の猛暑日と"スーパー.クールビズ"

2015-05-15 05:03:38 | Weblog
5月半ばというのに昨日東京では気温がぐんぐん上がり、早くも30℃を超す真夏日となった。日記を調べてみたら、昨年も5月31日に都心で31℃06を記録しており、珍しい現象ではなくなってきたようだ。戦前、東京では30℃を超す真夏日は、7月末から8月末の数日だったという記憶がある。昭和20年は、気象も異常年だったらしく、亡父の5月13日の日記には”気温上がらず、まだ綿入れ、冬シャツである”とある。

戦前から戦後昭和30年代頃まで、わが国は6月Ⅰ日の衣替えの日が徹底していた。軍人、警察官などの制服の公務員から学生、生徒まで、一斉に冬服から夏服に替えた。戦前、小学生だった僕も戦争が激化する16年までは、この風習に従い6月Ⅰ日になると、黒の学生服を霜降りの夏服に替え、帽子の上に白布ののキャップをかぶせたものだった。

この衣替えの習慣もクールビズ制度の導入で事実上なくなってきた。環境省の呼びかけで始まったこの制度は早くも10年になり、社会に定着してきたようだ。環境省は、さらに制度の徹底化を図るため、今年から”スーパー.クールビズ”制度を打ち出した。従来のクールビズでは禁止されていた、アロハシャツやポロシャツでの通勤はOK,Tシャツ、ジーンズもTPOも配慮すれば問題ないという。

「安保法案」が昨日の閣議で決定を見た。そのあと記者会見に臨んだ安倍総理は、きちんとスーツにネクタイをしていた。しかし、この法案作成に当たった自民党の高村副総裁と公明党の北側副代表は、ノータイのクールビズ姿であった。大げさに言えば、国の将来にかかわる重要法案である。猛暑日であったとはいえ、古いTPO観の僕の目には、いかにもだらしなくうつった




文化革命と中国人のマナーの悪さ

2015-05-14 05:12:10 | Weblog
中国の国家観光局が悪質なマナー違反者に対して、ブラックリストに載せ、ネット上で実名を公表する、というネット情報を見た。ネットには男が、中国共産党革命の拠点、延安市にある紅軍(共産党軍)の記念像に登ってVサインをしている写真が紹介されていた。

春節で日本を訪れた”爆買い”の中国人のマナーの悪さが当時話題になった。銀座の大通りの横丁で、母親が幼児におしっこをさせている写真もネットにあった。戦前の日本では、よくあった姿なので、この程度では驚かないが、2010年、台湾の故宮博物館を観光で訪れた際、僕は大陸から来た中国人団体観光客のマナーの悪さに辟易(へきえき)した。撮影禁止なのに館内で写真を撮りまくり、他の観光客にお構いなく大声を上げている。

中国人のマナーの悪さは今や、世界的である。その原因は何なのか。中国通の友人(複数)に聞いてみたが、文化革命時(1966-79年)の政治の混乱から、親も社会も子供にマナーを教えるどころでは、なかったからだという。果たして、そうなのか解からないが、日本でも、敗戦直後の混乱に育った世代は僕ら戦前、”修身”教育を受けた世代に比べ、マナーを知らない。

何度も小ブログでも文句を書いたが、公共交通機関(近距離)の中で飲食したり、お化粧したりしているのは、この世代に多い。僕ら修身世代は”長幼序あり”で育ってきたが、この世代にはそれがないから余計に腹が立つ。都大路を口をモグモグさせながら歩く初老の日本人を見ると、中国人だけをマナ―が悪いと笑うわけにはいかない。



大病院の老老介護の現実から思う

2015-05-13 05:41:36 | Weblog
昨日、大腸ガンの腹腔手術から半月後、初めてのCT検査を受けに老妻に伴われて出かけた。独りでも通院できるのだが、心配して同伴してくれた。幸い、手術を受けた国立病院は、自宅からバスで10分ほどの距離である。CT検査は午前9時半だったが、9時のバスで十分間に合い、待たずにCTと血液検査を終え、会計で30分待たされたが、11時半には帰宅できた。よく地方に住む友人から病院通いは一日がかりだという話を聞くが、その点東京は恵まれている。

一昨年、膝の人工関節手術を受け、身障者4級の指定を受けるまで、後期高齢者でも窓口負担が3割だったが、昨年から1割になって助かった。それでも画像診療(CT)が3,415円、検査料(血液)が568円、合計4,380円もする。しかし、領収書をみると、実際の診察料は保険料負担が、採血料5,12円、CT料金30,736円という巨額である。改めて、この国(日本)の老人福祉制度に感謝した。

朝早くから、広い病院は患者で一杯である。僕の診療受付番号はすでに500番台であった。しかも通院患者の大半は、僕らと同年代のお年寄りで、一人が車イスに乗り、一人がこれを押している老夫婦が多い。まさに”老老介護”である。その点、僕ら夫婦はまだ幸せである。しかし、いつまで、こういう状態でおられるだろうかー。ここ一、二年90歳代の先輩がめっきり老人施設に入居するケースが多くなってきた。

経験したことがない”超高齢化”時代である。高齢者医療福祉は世界でも恵まれている。しかし、財政的にいつまでこれが維持できるのであろうか。病院でのお互いに支えあう、車イスの老夫婦の多いのを見て、改めて僕はそう思った。

”酎ハイ”の値上がり ビールの値下げ

2015-05-12 05:35:07 | Weblog
2016年度の税制改革で「酎ハイ」の酒税が検討されているという。「酎ハイ」は焼酎ハイボールの略で、税制上は発泡酒の部類に入り、一缶当たりの税率は47円で、ビールの114円、”第3のビール”(ビール風味の発泡アルコール)の112円より安い。年齢と共に外でサケを飲む機会が少なくなってきて、たまに酒店で”缶入りビール”を買おうとしても、僕には種類が多くて、どれがどれだか判らず、ついつい安い「酎ハイ」を買ってしまう。

もともと焼酎は貧乏人の飲み物だった。戦後すぐの時代、まだサケが街に出回らなかった頃、安月給取りの僕はもっぱら焼酎党であった。グラスと、その受け皿になみなみと焼酎を注いでもらい、さらにその上に”ぶどう”や”梅”風味のシロップをかけて割った。一杯30円で、当時週刊誌と同じ値段だったような記憶がある。その後昭和30年代に入って、”トリスバー”全盛時代に入り、やがて経済成長とともに焼酎は一時忘れられたが、平成になってまた焼酎は復活してきた。

いつの時代も“飲んベー”は、ケチで安酒を好むものだ。僕らの時代と違って今、若い世代は健康志向からあまりサケを飲むまなくなった。缶入りアルコールに限っていえば、ビールが50パーセント、第三のビールが36.5パーセント、発泡酒は13,5パーセントのシェアーにすぎないが、最近は全体の傾向として焼酎が好まれ、「酎ハイ」もその余恵に預かっているようだ。政府税制は、「酎ハイ」の税制を値上げし、ビールは値下げするそうだが、果たして結果がどうでるかだ。最近、晩酌を中止している僕には、あまりサケの事を語る資格はないのだがー。

「事件記者」の死と昔の取材合戦

2015-05-11 06:43:36 | Weblog
テレビ草創期であった昭和32年から41年にかけてNHKの人気番組「事件記者」で”伊那ちゃん”役をしていた俳優の滝田裕介さんがなくなった。僕と同じ84歳である。「事件記者」は警視庁の記者クラブ「桜田クラブ」と、夜の記者たちの溜まり場の居酒屋「ひさご」を舞台に、記者たちの取材合戦を描いたドラマで、常時視聴率が30パーセントを超す人気ドラマであった。

僕はこのドラマのすこし前の30年から約1年間、警視庁詰めの事件記者をしていた。当時警視庁の記者倶楽部は二つあって、一つは「七社会」といって古い新聞社(朝日、毎日、読売、日経,東京、共同通信)六社で構成されていた。六社なのに「七社会」といったのは、加盟社の一つ、時事新報が産経新聞と合併して「産経時事」と改名したが、会社が違うという理由から加盟を認められなかったからだ。僕はNHKや他の民放と一緒に「警視庁クラブ」に属していた。確か、二つとも警視庁から一室を提供され、四六時中記者が詰めており畳敷きの寝室もあった。

まだ警視庁の広報活動は十分ではなく、殺人事件が発生しても連絡がなく、僕らは日課として鑑識課の部屋を訪れ、事件に出動していないかどうかをチェックしたものだ。捜査本部ができるほどの大事件では、捜査一課長から事件の経緯の発表があったが、通り一遍のものが多く、僕らはまるで刑事のように直接、現場へ行き、取材したものだ。

警視庁は当時七方面に別れていたが、新聞社は各方面の警察に二名から三名の”サツまわり”記者を配置していた。淀橋(新宿}、渋谷、池袋、上野、丸の内、愛宕、大崎などの盛り場を持つ警察にも記者クラブがあった。僕らはここを拠点に取材合戦を展開したが、夜は夜で警察の近くに、事件記者の「ひさご」のようなたまり場があった。取材のため”夜討朝かけ”とびまっわていたが、今考えると過勤料は貰っていたのかどうか。滅茶苦茶の時代だったが、楽しい時代でもあった。