「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

        日本の将来、代表選びゴッコでよいのか

2011-08-22 06:28:58 | Weblog
8月もあと10日足らず、民主党の岡田幹事長によると、代表選挙は29日に行我、30日には新しい首班が選ばれる運びだという。もし、そうならば今週はわが国にとって重要な1週間となるが、民主党のお歴々には、その意識があるのかどうか。先週一時ではあるが、ニューヨーク市場では、円は1㌦75円93銭という歴史的高値をつけたが、今週のその動向はどうなのか。菅総理は官邸からの引越し身支度で忙しそうだし、野田財務相は代表立候補の票数えで、これまた多忙に見える。

くだらないとは思うが、日本の将来を決める与党の代表を選ぶ選挙だけにマスコミの報道を見たり、聞いたりしてしまうが、ある現職大臣の言葉を借りれば、まるで小学校の運動会である。それも告示まであと10日と迫っているのに、レースに出るのかどうか態度を決めかねている候補さえいる。そして、その応援団はといえば、かってレースに出て勝つには勝ったが失格した総理とかそれを担いだ代表である。

国民は民主党政権になって以来この2年間の鳩山、菅二代の失政続きにもううんざりしている。それに野党自民党のそれに対する対応の甘さにも困り果てている。国民は政治に対する不信で満ちている。正直言って、今の民主党の現状をみれば、申し訳ないが誰が代表となっても変わりはしない。党員資格を失っている"一兵卒"が、依然としてキングメーカー然としている政党に将来を託するわけにはいかない。

このままでは日本沈没である。無責任な発言かも知れないが、この国難に対処するには解散総選挙して、新しい政府を選び、くすんでいる日本の空気を一新するしかないと思うのだが、どうだろうか。とにかく、子どもじみた代表選びゴッコは止めて欲しい。

       ”フラ・バーバ”の年に一度の晴れ舞台

2011-08-21 06:00:45 | Weblog
今日は老妻が日頃レッスンを受けているフラダンスの年に一度の発表会である。僕も娘夫婦の運転する車で都心の会場へ見学に出かけた。発表会は習っている先生が首都圏に持つフラスクールの合同発表会だが、老妻たち7人は70歳から80歳が中心の"フラ・バーバ”のグループである。"馬子にも衣装”なんて絶対にいわないが、みごとな踊りぶりで会場から拍手を受けた。

戦後まだ都会に焼け跡が残っていた頃、なぜか「ハワイアン」がブームだった。バッキー白方のバンドが”小さな竹の橋の下”でデビューしたのは昭和22年、「ハワイアン」ではないが、岡晴夫が”憧れのハワイ航路”を歌って一世を風靡したのも23年であった。
       ♯ 憧れのハワイ航路 (作詞石本美由紀 作曲江口夜詩)
         晴れた空そよぐ風 港出船だドラの音(ね)愉し(たのし)   
         別れテープを笑顔で切れば 希望はてなく 張るかな汐路  
         ああ憧れのハワイ航路

”フラ・バーバ”の面々は、その時代はまさに20歳前後の娘盛りであった。戦争中のモンペからやっと解放されたばかりの頃だ。その頃「ハワイ」の地は、彼女らにとって、歌詞のように希望はてない憧れのものだったに違いない。

老妻はまだ一度もハワイへ出かけていない。僕の仕事の関係で東南アジアばかりである。数年前、海賊が出没していた頃、僕ら夫婦はマレーシアのペナンから、インドネシアのメダンまでフェリーで航海したことがある。これが僕ら老夫婦の"憧れ”ではないが、唯一の船旅だ。あと4年で"ダイヤモンド婚"(60年)である。その時までには一度は"憧れ”のハワイへも行ってみたいものだ。

          津波警報に工夫は出来ないか

2011-08-20 06:01:22 | Weblog
昨日テレビで高校野球の準決勝戦、日大三高と関西高戦を見ていたら東京でも揺れは小さかったが3月の大震災の時のような地震があった。テレビの画面は野球中継から地震津波警報に切り替わったが、今ひとつ情報に物足りなさを感じた。これでは震度5弱と揺れの強かった地域の人たちは、いっそう、そうだっただろう。それは津波警報だ。すでに到達時間のすぎていた警報もあったが、3月のこともあり避難された方もあったに違いない。
 
3月11日の大震災の時も僕はテレビで衆院決算委の国会中継を見ていた。菅総理の在日韓国人からの政治献金問題についての中継だったが、画面は即時大地震と巨大津波に切り替わった。それから深夜まで僕はテレビの前にクギつけにされたが、今でも覚えている。地震直後の津波警報はは、あまりにも正確さにこだわったためか、第一報の津波の高さは低かった。これでは警報を軽視して犠牲になった方もあったと思う。1年前のチリ沖津波のさい、警報によって大勢の人たちが避難したが、何事もなかったばかりだ。


政府が大震災の被災者について直接面接調査した結果が新聞に出ていたが、地震発生直後に津波を警戒して避難した人は57%にすぎず、大津波警報を実際に見聞きしたの人も58㌫だけだった。半分ちかい人たちが津波警報を知らなかったし、避難しなかったわけだ。昨日の地震では、どうだっただろうか。多分、ほとんどの人が避難しなかったに違いない。


余震がこの程度ならよいが、将来震度7-8の強震が起き巨大津波の再襲があるとも限らない。津波警報が”おおかみ少年”にならないよう、工夫が欲しい。


          慰霊碑の維持は心がなければ

2011-08-19 06:44:31 | Weblog
中国国竜省方正県の中日友好園の中に7月建てたばかりの旧満州開拓団員の慰霊碑が反日団体の手で破壊されたという。この慰霊碑は方正県が日本からの投資を期待して建立したもので、日本政府も友好民間団体も建立費は出していないというが、慰霊碑の裏面には亡くなられた開拓団員の方の名前が書かれてある。

このニュースを知って僕は多少事情は違うが、インドネシアのスラウエシ島マナド(メナド)の市民墓地にあった堀内豊秋・落下傘部隊長の慰霊碑「霊魂」のことを想起した。堀内隊長は日本初の落下傘部隊の隊長で、占領後の善政で住民に慕われていた。戦後だいぶ経ち、落下傘部隊の戦友たちが大勢同地を訪れることが可能になった頃、マナドの一旅行社が戦友会に申し出てこの慰霊碑を建てた。平成13年、僕が訪れた際には慰霊碑はまだあったが、周囲は雑草が茂り荒れていた。しかし、最近現地からの情報では「霊魂」の慰霊碑は撤去されてしまったようである。

インドネシア・カリマンタン島のバリックパパン郊外のマンガル海岸に「南方方面戦没者慰霊碑」がある。この地は戦後、いわゆるBC級裁判で犠牲者が処刑された所で、復員までの収容所もあった。最初、カリマンタン戦友会の有志はここに資金を出し合って小さな慰霊碑を建てたが、いつかその慰霊碑は撤去されて今ある大きな慰霊碑にとって換わられた。この慰霊碑の建立者は「鎮魂の国奉賛会」という団体で、東カリマンタンの戦友会や遺族とは関係がない。建立の意図もはっきりいないし、きちんと維持されていない。

昭和30年1月から3月にかけて政府の遺骨収集船「大成丸」が南太平洋のラバウルなどの激戦地を回り、5000体以上の遺骨を収集、そのあと簡単な仮の慰霊碑を建てた。しかし、今この慰霊碑のほとんどは忘れられて朽ちたものもある。ある程度遠隔の地であり、英霊には申し訳ないが仕方がないとも思う。しかし、マレーシア・サバ州のラブハン平和公園の中にある政府の建てた慰霊碑はどうだろうか。ラブハンは免税の観光地であるが、ここを訪れる日本人は過去の戦争のことを知らない。維持はきちんと行われているのだろうか心配だ。

        インドネシア従軍体験者の強い思いと現実

2011-08-18 06:30:44 | Weblog
昨日のインドネシア独立記念日に参席した従軍体験者は僅か二人であった。91歳のY氏と90歳のI氏だけである。インドネシア関係の催しには必ず顔を出し、写真を撮っている、日イ関係者の間では”超有名人”の別のI氏も今年は顔を見せなかった。やはり歳月の流れである。従軍経験者の大半は、明治大正生まれだが、大正15年生まれでも、もう85歳の高齢である。

今回の記念日の招待について、在日インドネシア大使館では事務的なことから招待状の発送が遅れ、1週間前になって、僕が大使館に提出した名簿に基づき連絡をとった。大使館では時間が迫っているので、電話連絡したが、何分超高齢者ばかりである。耳が遠くて話が通じない人、大使館ではFAXで発送したかったが、FAXを持ってる人は少なく苦労されたようだ。

僕は名簿を提出するに当たって、ご本人が元気な方だけを選んだ。が、ご本人が元気でもご夫婦が元気でない限り、超高齢者の場合,もう外出はよほどのことがない限り困難になってきている。僕が記念式典に出席して留守の間、毎年元気に式典に顔を出していたS氏からわが家に電話してきて応対に出た老妻に対し、出席できない理由として奥さんが4か月前から入院、ご本人は元気なのだが、家族がs氏が勝手に外出するのを心配して外出着をどこかに隠していまったという。

戦争中、スカルノ(初代大統領)の長男、グントゥールを抱っこしたのを自慢しているOさん90歳も式典への参加を楽しんでいたが、当日になって出席できないと断りの電話をしてきた。はっきり言わなかったが、ご家族の反対があった模様である。西カリマンタンのポンティアックの虐殺事件に関与したとして、まったく無関係なのに戦後オランダによって1年間も未決のまま刑務所に入れられ、暴行を受けたM氏、96歳も出席を希望されていたが、こちらから事前に丁重にお断りした。これほどまでに従軍体験者が独立インドネシアに思いを寄せる理由は何なのか。ここに当時の若者たちが抱いていた大東亜戦戦争への大義があると僕はみた。

       66回目のインドネシア独立式典に参加

2011-08-17 05:52:25 | Weblog
今日8月17日はインドネシアの66回目の独立記念日である。今年も招待をうけて早朝8時から東京目黒の大使公邸庭で開催される式典に参加するため7時に家をでた。66年前の1945年8月17日午前8時、ジャカルタのスカルノ(初代大統領)邸前で、独立宣言は発表になった。これを模して、東京でも同じ時間に式典は始まった。

インドネシアの独立宣言の起草は発表の前夜の17日、ジャカルタの前田精・海軍武官府邸で行われ、宣言文の起草には西嶋氏重忠通訳らが立ち会ったのは、スパルジョ初代外相らの書簡からも明らかである、しかし、これをもって、インドネシアのの独立が日本の完全支配下で行われたとするのは間違いである。

日本は敗戦を予期せず、南方総軍はジャワの第16軍司令部に対して8月19日に独立準備委員会を結成させ、9月7日に独立させる準備をしていた。しかし、インドネシアの独立宣言は、これとは別であって、インドネシア人による、インドネシアのための独立宣言である。

僕はここ数年、毎年東京の独立式典に参加しているが、かっては数十人も招かれていた日本人の数が例年減り、今年は僅か10人ぐらいになった。しかもインドネシアでの従軍経験者は僅か二人である。僕も従軍経験者ではないが、独立宣言を起草した西嶋重忠氏とは生前親しくさせて頂いていた一人である。西嶋氏の著書「インドネシアの独立革命」(昭和52年 新人物往来社)には、インドネシアの独立前夜の真実が詳述されている。スパルジョ初代外相は、独立の真実を知っているのは、西嶋氏ほか数名しかいないと述べている。

日本では数年前製作された映画「ムルデカ」などで意図的にインドネシアの独立に日本が関与していることを強調しているが、これは両国間の友情を損なうだけである。インドネシアでも誤まった説が学校で教えられているそうだ。両国の友好のために正しい史実を伝えるべきである。


         これでは英霊は静かに眠れない

2011-08-16 06:01:29 | Weblog
「終戦記念日」の昨日、老妻と一緒に九段の靖国神社を参拝した。僕も老妻も親しい親族に戦没者は出ておらず、長く東京にいてもこれまで終戦記念日に詣でる機会がなかった。

66年前の、あの日と同じように東京の空は晴れており暑かった。地下鉄の九段下駅から外に出ると、靖国神社周辺は、僕らが想像していた以上のものすごい人出である。入り口の大鳥居前には、政治団体ののぼりが立ち並び、ビラを配布する人々で一杯。これを取り囲むように警察官が警備の輪を固めている。

本殿までの参道の両側には日の丸と軍艦旗があちこちにはためき、軍服まがいの制服を着た若者の行列姿も目立つ。本殿横の参道横では、靖国神社奉賛会とおぼしき団体が、参拝をまるで阻むように大観衆を集めて演説会を開催している。僕ら夫婦は参道脇の横道を通り本殿前にたどり着いたが、行列で前へ進まず、止むをえずここで頭をさげ引上げた。

ちょうど「玉音放送」のあった正午近くであったこともあろう。こんな騒然とした空気の中では、戦争で国家のために亡くなられた英霊に対して、静かに二拝二拍一拝して感謝する雰囲気ではない。

新聞によると、民主党は菅総理以下全閣僚が参拝拒否を公言、一方自民党は総理時代には8月15日に参拝しなかった阿倍氏が参拝、2006年の総裁選挙では三つの公約にしていた谷垣氏が、公約を破って参拝していた。8月15日に靖国神社を参拝すべし、と憲法に規定があるわけではない。参拝するかどうかは個人の問題である。政治家たちが政争の具にするから、本来は静かに英霊を想う日の靖国神社が、騒然とした場になってしまっている。。これでは英霊は静かに眠れない。

       「靖国」は国民を戦争に駆り立てたか?

2011-08-15 05:29:38 | Weblog
66回目の終戦記念日だが、また例によって総理や閣僚が靖国神社を参拝したかどうかが、かってほどではないが新聞紙上で話題になっている。菅内閣は昨年についで全閣僚が参拝しないそうだ。僕はこれにあえて賛意を示すわけではないが、終戦記念日には国民あげての「全国戦没者追悼式典」が毎年行われており、公式行事として総理や閣僚がこの日に靖国神社を参拝する必要はないと前から思っている。

8月15日は靖国神社の祭日でもなんでもない。昔から例大祭は春と秋の二回で、春は4月30日、秋は10月23日と日にちまで決まっていて、東京の小学校では学校が休みだった。僕の記憶の中にも例大祭の日の靖国神社の賑わいがある。境内には所せましと見世物小屋が出ていた。僕が毎年見たのは、大きな円筒の建物の中をオートバイが猛烈なスピードで上り下りする曲芸だった。

戦後、終戦記念日に総理が参拝することが当然視され、行かないとまるで非国民のようにいわれ、一方参拝すると、近隣諸国から”袋叩き”されるようになったのはいつ頃からであろうか。中曽根総理の頃からであった気がする。中曽根さんは従軍世代であり、多分戦争で亡くなられた戦友のことを想い、一方、敗戦から立ち直った国の現状を終戦記念日に報告したい気持ちがあったのであろう。どうも、これを一部のマスコミが”政局”に利用し、さらに中国がこれを反日の具に使用したようだ。中曽根以前の総理で8月15日に靖国神社に参拝しない人は沢山いる。

江田五月法務大臣が靖国神社に参拝しない理由として”靖国神社は国民精神を戦争に駆り立てた役目をしていた”と言っていた。昭和16年生まれの、ほとんど戦争の記憶のない人である。果たして靖国神社は、国民を戦争に駆り立てただろうか。昭和16年選定の小学校唱歌に「靖国神社」という歌があるそうだが、僕はならった記憶がない。たとえ習ったとしても靖国神社に祀られたいと思っただろうか。

当時の歌には”靖国の宮で逢おうを合言葉”(「靖国神社の歌」)といった類の歌がたしかにあったが、果たして、靖国神社によって国民は進んで戦争へ行きたいと駆り立てられただろうかー。

    

         子どものネグレクトと麻の葉模様の産着

2011-08-14 05:39:33 | Weblog
NHKの朝のドラマ「おひさま」でヒロインの赤ん坊が赤い麻の葉模様の着物を着て出演している。昔は赤ん坊の産着といえば麻の葉模様が定番だったが、今はどうなのだろうか。麻は生長が早く丈夫だということから、赤ん坊が生まれると、祖父母から縁起をかついで 孫に麻の葉模様の産着が贈られたものだ。

老妻の話によると、50年前長女が産まれたとき、僕の亡母も初孫用にと手縫いで青と赤の二着の産着を用意してくれた。その産着がまだ家のどこかに残っているという。昔は生前に性別が判定できなかったから男用には青、女用には赤の二着を用意したのだろう。

戦前のわが国では、ほとんどの日本人は親と同居していた。そのため出産前後のしきたりや育児はきちんと昔からのものが守られていた。例えば出産前には安全を祈願して戌(いぬ)の日に帯を貰いに水天宮に参拝するとか、出産百日目には”お食い初め”の儀式をするとか子ども(孫)の無事成長を祈って産土神にお宮参りをした。

戦後の高度成長時代の頃からだろうか、親との同居を嫌う風潮が出てきた。いわゆる”核家族”化である。それとともに昔からの日本人の家族関係にも変化が出てきて弊害も目立ちはじめてきた。千葉県柏で39歳と27歳の夫婦が2歳10か月の長男にじゅうぶん食事を与えず餓死させた、と新聞に出ていた。昔のように親との同居の生活だったら考えられないことだ。この夫婦に限らず、最近はこういった子どもの監護育児を放棄する親が多くなってきたという。”ネグレクト夫婦”というのだそうだが、かって子どもの無事成長を祈って麻の葉模様の産着を赤ん坊に着せた日本人の優しい心はどこへ行ってしまったのだろうか。