「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

「サンマー麺」と「ザンギ」  日中の食文化

2006-08-11 06:10:37 | Weblog
猛暑のときに熱い食べ物の話でもないが、昨日、娘が横浜でサンマー麺を
食べてきた。サンマー麺は前から気になっていた麺の一つだ。いまはラー
メン一辺倒のご時勢だが、むかし、ぼくは長野の権堂の中華料理店でこの
麺にはまり込んだことがある。モヤシなど野菜をたっぷり使い、片栗粉で
どろりとさせた細い麺であった。半世紀以上前の話である。その後あまり
サンマー麺にお目にかかる機会がなかったが、最近、横浜の中華街を中心に
静かなブームになっていると聞いた。

ものの本にはサンマー麺は横浜生まれ、と書いてあった。しかしこれは
誤りである。サンマー麺は生馬麺と書くれっきとした中国生まれである。
同じような例にザンギがある。北海道では鶏のから揚げのことをザンギと呼び
北海道(道東)の郷土食としているが、これもザンは火偏に乍を書きギは
鶏と書く中国料理の一つである。チャンポンもそうだ。元はといえば長崎の
南方華僑がいろんな食材をCampur(マレー語の混ぜる)した麺のことだ。

辛亥革命(1895年)前後、孫文が日本に亡命していたころ、約1万人の留学生
が日本で勉強していた。戦前までは彼らが勉学した東京の神田界隈には、中国
料理店が多かった。つい最近まで神保町のすずらん通りに、当時の店のいくつかが
残っていた。戦争中には中国大陸から徴用された大勢の中国人が全国各地で
働いていた。喜多方ラーメンのルーツは、当時働きにきた中国人が戦後駅前に
開いた店だという説がある。日中食文化の歴史は長くて深い。








テレビも見捨てた巨人戦

2006-08-10 06:02:36 | Weblog
神宮球場での巨人・ヤクルトとの三連戦、テレビ放送がなかった。昨夜は
サッカーのオシム監督第一戦があったからわかるが、一昨日と今日は何故
ないのかー。一昨日は幸か不幸か台風の影響で試合はなかったが、TV局も
巨人戦の視聴率が今のように7%と低迷していてはカネ儲けが至上、高い
放映料を支払ってまでオンエアーしない。低視聴率ではスポット料金にまで
影響し大損害だからだ。

確実に巨人の人気は下降している。チームが勝てないのが第一の原因だが、
ファン層の高齢化も原因しているのではないか?かって巨人 大鵬 玉子
焼という時代もあった。また首都圏では「紅梅キャラメル」のノベルテイ
(巨人選手の写真カード)でジャイアンツ・ブームが過熱し、社会問題化
したこともあった。昭和20年代後半から30年代にかけてである。幾星霜、
当時の野球少年は、いまや定年を迎え孫まである。

昔は巨人軍の帽子をかぶった少年たちが多かったが、最近はあまりみかけ
ない。我が家の二人の孫も週末にはサッカーの試合で忙しく、野球は見向
きもしない。かってのスポーツといえば野球、野球といえば巨人軍といった
時代は終焉した。すべてに多様化の時代である。

孫の土産はズッキーニー

2006-08-09 06:34:59 | Weblog
小5の男の孫が昨夕、無事2泊3日の林間学校から帰ってきた。そして
わが家にも彼が収穫体験で掘ってきた馬鈴薯、玉蜀黍、ズッキーニーの
お裾分けがあった。北軽井沢の自然の中で,朝とりしてきたもの、早速、
老妻が料理してくれたが、新鮮でおいしかった。何より産地がはっきり
していて孫の手によるものがよい。

僕の手元に「昭和19年5月,於多摩川農場」という一枚の集合写真がある。
戦闘帽にゲートル巻き、上着は脱いでいるが、当時の中学生の制服姿で
ある。中2の時、学校農場に作業に出かけた際のものだ。
この年の6月、サイパン島が米軍に落ち、この頃から国内の食糧事情は
逼迫してきた。僕らの農園通いも多くなった。肥料は”田舎の香水”で、
これを撒くのも僕らの仕事であった。玉蜀黍、そば、サツマイモなどを
つくった記憶があるが、なぜか収穫時の記憶がない。

敗戦時は、本当に食べるものがなくなった。衾(ふすま)まで食べた。
道の野アザミなど食べられる雑草はなんでも口にした。いま思えばよく
この時代を生きられたものだ。食糧の買い出しに駈けずりまわった亡き
母親に改めて感謝する。孫のズッキーニーから平和の喜びを感じとった。












高校野球と市町村合併

2006-08-08 06:26:55 | Weblog
平成の市町村合併でなじみのあった名前の町や村の名前が消え、聞きなれない
市の名前が増えている。今回の合併が始まった平成11年には1,994あった町が
現在は844に、564あった村が196に急減、市の数だけが670から779に増えた。
先日プール事故で有名になった「ふじみ野市」(埼玉県)みたいに名前だけ聞いて
もどこにあるのかわからない市が多くなった。

市町村合併には直接関係ないが、甲子園の高校名もそうである。きのう長崎清
峰に大敗した福島光南もそうである。35年前、磐城高校が夏の大会で準優勝
した時郡山で勤務していた僕でさえ、光南の名前をしらなかった。10年ほど前に西
白河郡矢吹町に、創設された県下初の「総合学科」高校だそうだ。
「総合学科」と引き換えに由緒ある矢吹の町名を冠せられなかったのであろうか。
元巨人軍の中畑選手はこの町の生まれである。

今年の甲子園には長野県から松代高校が初出場している。松代は真田十万石の
城下町で名が通っている。今は善光寺のある長野市と町村合併して長野市の
一町になっているが、松代はやはり歴史的には”一城”の主で、善光寺の松代
ではない。ところが来年、この松代高校の名前が「長野南」という変哲のない
名前にかわるという。もったいない話である。

かっての大型合併で、小倉、八幡、若松、戸畑,門司という歴史的な名前が
「北九州」の名のもとにそれぞれの独自性を失ってしまった。平成市町村
合併で地元は頭をしぼって新しい市名を作ったのだろうが、経済性、合理性
だけで市や町は発展しない。歴史や伝統は一朝一夕には生まれない。郷土愛
も生まれない。





蝉の鳴き声と東京の町

2006-08-07 05:56:20 | Weblog
東京で一番住みたい町は自由が丘だそうだ。その町周辺から最近
めっきり蝉の声が聞けなくなった。そして、かっては夏の風物詩
だった網を手にした麦わら帽子の少年たちの姿も消えた。いつ頃
からの現象だろうかー。

昭和の10年代、皇后陛下の実家のあった池田山は、僕らの蝉、
トンボ取りの宝庫であった。家のあった目黒川添いでも油蝉やムギ
ワラ,シオカラ・トンボはいたが、稀少価値のミンミン蝉,オーヒー
ツク、オニヤンマ,ギン、チャンを求めて遠征したものだ。近くの
駄菓子屋でモチと竿を買い、竿の先にモチを塗りつけ、屋敷町を
”渉猟”した。

池田山にはまだ”原っぱ”もあって、殿様バッタ(雌雄の色の区別で
僕らは”源氏””平家”と呼んでいた)やショウリョウ・バッタ(
チキチキ・バッタ)カマキリもいた。野生のブドウの木にはカナブンが
飛来し、時にはタマムシが取れることもあった。トカゲのしっぽ切りは
悪童たちの日常の遊びであった。

かっては子供の”遊び仲間”だった蝉もトンボもバッタもいつか東京
から姿を消そうとしている。わずか半世紀ちょっとの間にである。まだ
緑が残る地方ではどうなのであろうかー。開発による自然破壊の結果で
ある。人間の有史にこのような現象はあったことはない。エコロジー
全体に影響がなければよいのだがー。






”六十歳になりました” 団塊世代

2006-08-06 05:56:49 | Weblog
一枚の転居通知がが届いた。東京支社から東北に本社がある民放勤務の
かっての部下からのものだ。葉書の左隅には”私も六十歳になりました。
早いものです”と添書されていた。本当に早いものだ。彼が新人として
開局したばかりのTV局に入社してきたのは昭和45年、三島由紀夫が自
殺した年だった。あの彼がもう六十歳である!

僕は昭和45年と47年の二回、地方の民放(UHF)の開局を手伝った。
開局時の新人の大半は”団塊の世代”である。僕らの世代とは、好きにつ
け、悪しきにつけ価値観がちがい、考え方も異なって刺激にもなったが、
時には手を焼いたことが多かった。あれから30数年経って、彼らも定
年の年齢を迎えている。

来年は、いわゆる「2007年問題」の本番。各企業とも彼らの一斉
退社に備えて対策に取り組んでいるが、その経済効果はどうなのだろうか。
生まれた時から”ベビー・ブーム”で、競争を強いられてきた世代である。
僕が関係した局では、僅か50名ほどの当時の新人(団塊世代)のうち、
すでに3人が早逝、直接僕の部下だった3人のうち2人までが途中退社し
ている。

転居通知をくれた彼の葉書には「定年」とは書いてなかった。おそらく
六十歳以後も企業に残れるのだろう。いずれにせよ、団塊世代の”第二
の人生”が始まろうとしている。


"靖国”報道のナンセンス

2006-08-05 06:18:47 | Weblog
安部晋三官房長官が4月に靖国神社を参拝した、とまたまたマスコミが
騒いでいる。もういい加減にしてくれ、である。小池百合子・環境相の
言葉を借りれば、まったくナンセンスである。”参拝したか、しないか
申し上げるつもりはありません”-長官のいうとおりである。”靖国”
は、小泉首相のいうように”心の問題”である。自分の心で参拝するのに
いちいち事前に公表する必要はない。とくに”靖国”が外交、政治問題化
している現在、前もってマスコミにいえば、どのような騒ぎになるかー賢
明な政治家ならしっている。

僕個人は、小泉首相の最初の靖国参拝のように紋付袴、近隣諸国に誤解を
与えるような形での参拝には反対である。いわんや”総理と一緒に靖国参拝”
(新聞への意見広告)には絶対反対である。しかし、
「思えば今日の戦闘に朱に染まって、にっこりと笑って死んだ戦友の
 ”天皇陛下万歳”と残した声が忘らりょうか」(露営の歌)
ーと国のために数百万人の方が亡くなっていった。彼らの多くが靖国社頭
での再会を誓ったのも事実である。後世の指導者が戦没者を追悼するのは
当然である。


問題は個人の”心の問題”である”靖国”を「総理になったら絶対参拝しない」
と公言して、これを政治問題化しようという”おろかな”政治家がいて、
それをさらに煽る”おろかな”マスコミ”が存在していることである。
ことの本質がどこにあるのか冷静に考え、靖国を政治問題化してはいけない。
わが国にはもっと大切な問題が山積しているではないか。





ふじみ野プール事故に想う。

2006-08-04 05:55:12 | Weblog
盛夏。毎年のことながら各地で水の事故が伝えられる。しかし、先日の
ふじみ野(埼玉)市営プールで起きた事故ほど痛ましいものはない。吸
水口の格子のバルブが故障していたために小2の少女が、吸い込まれて
死亡したという常識では考えられない事故だ。
人為事故である。案の定、管理会社は水の怖さについて無知で、人命を
一顧だにせぬ会社のようだ。泳げない監視員がいたとは、何をかいわん
やである。

昔のことで恐縮だが、大學の水泳部員だったころ、保田(千葉県)の海
で一夏、臨海学校の監視員のアルバイトをしたことがある。当時のこと
だから日赤の資格がなくとも出来たが、事前に講習を受けて海岸の水域
から潮の変化まで学んだ。危険な岩場へ近ずけば、先生といえども怒鳴
って注意したものだ。人命を預かっている以上、多少うるさいと思われ
ても、そのぐらいの配慮が必要なのだ。

水を馬鹿にしてはいけない。毎年飲酒して水死する人があとを立たない。
もってのほかである。水泳はスポーツである。泳ぐ前には準備体操が
必要である。知らない海で泳ぐ時には、土地の人に前もって海の状況
を尋ねたほうがよい。川口は潮の流れが微妙に変化していている。
”老爺心”ながら、くれぐれも水を馬鹿にしてはいけない。おさおさ
注意を怠りなく。

進駐軍に占拠された逗子の浜

2006-08-03 06:18:42 | Weblog
夏の海水浴のシーズンになると、首都圏の住人は湘南の海が恋しくなる。
”太陽の季節”で、この地が有名になる前からである。昭和21年(1946)
8月、旧制中学4年(現在の高校1年)のとき、僕は友人4人と逗子へ3泊
4日で海水浴へ行った。食糧難で国民生活は最低、天皇陛下が”乏しきは
わかちあい”と異例のラジオ放送をした年である。

僕らは米、味噌、醤油、小麦粉それに薪まで背負って知り合いの家の三畳
にお世話になった。葉山寄りの川の近くであった。僕らはコンロを借り、
道路で煮炊きした。交通量が少なかったので出来たのだ。毎日朝早くから
日が暮れるまで泳いでも疲れなかった。若かったのだ。

その頃、逗子の海岸の半分、駅から浜に向かって右側、浪子不動側は、進駐
軍が占拠していて日本人は遊泳禁止だった。砂浜は自由に行き来できたが,
海岸から海に向かってロープが張りめぐらされていた。養神亭に泊まる進駐
軍の”プライベート・ビーチ”となっていた。
しかし、一般日本人にはまだ海水浴を楽しむ余裕はなかった。半分の浜でも
十分泳げた。

この年の日本映画のヒット作は「我が青春に悔いなし」(黒澤明・監督 原
節子主演)であった。困窮の中での青春だったが、やはり青春は青春、二度と
帰ってこない。もって良しとすべきなのだろう。



孫たちのビッグな拾い物

2006-08-02 05:36:41 | Weblog
男の小学校5年の孫がきのう友達二人と自転車で”冒険旅行”に
でかけた帰途、道に落ちていた缶ビール2ダース入りの箱を拾い
駅前の交番に届けた。お巡りさんから書いてもらった拾得物証明
書を手にかざし、爛爛とした目で僕に報告にきた。「6か月14日
すぎても落とし主が現れなかったら、僕たちが貰えるのだ。一人
8本ずつだ」。

夏休みの子供ならではの貴重な体験だ。三人は今は暗渠になっている
近くの小川の水源がどこか自転車で”冒険”に行った帰り道、ビール
箱を拾い、荷台に載せて駅前交番に運んだのだという。多分、だれか
車で運搬の途中、落としたものだろう。交番からも連絡があったので
娘は「お忙しいのに、有難うございます」と若いお巡りさんに礼を言
っておいたという。

三人とも塾に行っていない。それぞれの家庭の方針だろうが、娘の家で
は、小学生のときは奔放に遊ばせようという考えだ。きのうの思わぬビ
ール箱の拾得は、彼らにとって思わぬ社会勉強になった。学校や塾では
学べない実体験である。おそらく大人になっても、このときのことは忘
れないだろう。彼らにとってはビッグな拾い物になった。