「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

スシアテイ・タノウエからの贈物。

2006-08-20 06:03:24 | Weblog
宅急便でスシアテイ・タノウエから果物ゼリーの贈物が届いた。スシアテイは
戦後インドネシアに残留した元近衛第二師団対空無線部隊の兵士,田上憲喜氏の
孫で、現在小牧市で夫と共稼ぎで働いている。数えてみたら僕とはもう10数
年来の知り合いである。

田上憲喜氏は故人だが、戦後彼が日本の軍隊から離脱、インドネシアの独立戦争
に参加した当時の彼の生きざまが「福祉友の会」(ジャカルタに本部のある元日
本軍残留者相互福祉団体)出版の本に載っている。田上氏は北スマトラのカロ高
原の部隊から離脱,主に西スマトラとアチェのインドネシア独立部隊と行動を共に
して転戦、昭和25年戦争(独立)終結時は現地婦人と結婚アチェにいた。当時の
インドネシア国内事情からアチェに残留した日本人約80人はインドネシア軍に逮捕
されメダンの収容所に入れられた。昭和27年日本政府と連絡がとれ、彼らのうち希
望者は政府負担で帰国の道が開かれた。しかし当時田上氏の奥さんは妊娠中で、イ
スラム法は妊娠中の妻との離婚を禁じていた。田上氏は”やむなく帰国を断念
した”と本の中で書いている。熊本の実家では母親が一人息子の帰国を毎日陰膳で
待っていたのだがー。

僕が田上氏の孫、スシアテイ嬢(当時)と初めて知り合ったのは平成5年初冬、
JR信越線上田駅前だった。イランからの不法就労者が各地で問題となっていた
頃であった。上田周辺にはブローカーの斡旋で北スマトラから日系と称する
インドネシア人が大挙来日、地元社会との間で摩擦を生じていた。
ボランテイアでこの問題に取り組んでいた僕は、父親と一緒に来日した彼女が
祖父の故郷を是非訪ねたい、というのを知り一家を熊本へ案内した。熊本には
田上氏の一人の姉さんがおり、涙の対面となった。その後スシアテイは帰国、地元
青年と結婚,二児をもうけたが、子育ても一段落、夫と一緒に再来日二人だけで働いている。
彼女からの贈物に感謝、遠く離れて暮らす彼女の子供用の衣類を送った。