「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

遊就舘 デープの罪意識

2006-08-21 05:32:04 | Weblog
きのうTBSの最低の「サンデー・ジャポン」という番組でタレントの
デープ・スペクターが遊就舘についておかしな発言をしていた。
そこで彼の考え方に反論したい。その前に僕の遊就舘についての考え
は8月16日のブログで一端は述べたが、靖国神社の境内にあるのは
ふさわしくない。移転すべきだーというのである。

デープは番組で、遊就舘という名は出さなかったが、明らかに遊就舘
を指して”戦争を美化した、罪意識のない”建物と批判していた。
彼がどの展示物について”罪意識がない”といっているのか知らないが
多分「戦場に架ける橋」のあのC-56機関車をいっているのだろう。
僕は前のブログで展示の方法を変えたらどうかと靖国神社に提案したが、
それはデープのような戦争を知らない人間が変に誤解するからである。

米国バージニア州に「スミソニアン航空宇宙博物館」がある。この展示室に
広島に投下した原爆を搭載した「エノラ・ゲイ」B-29が常設展示されて
いる。原爆投下で14万人もの無実な市民が一瞬にして殺されたのに一切
この事実には触れていない。アメリカ人に罪意識があるのだろうかー。
犠牲者の数でとやかく言うのは適当ではないが、泰緬鉄道での犠牲者はせい
ぜい4万人である。
米国こそいぜん戦争を美化し、罪の意識がないのではないかー。デープ君、
どうですかー。






スシアテイ・タノウエからの贈物。

2006-08-20 06:03:24 | Weblog
宅急便でスシアテイ・タノウエから果物ゼリーの贈物が届いた。スシアテイは
戦後インドネシアに残留した元近衛第二師団対空無線部隊の兵士,田上憲喜氏の
孫で、現在小牧市で夫と共稼ぎで働いている。数えてみたら僕とはもう10数
年来の知り合いである。

田上憲喜氏は故人だが、戦後彼が日本の軍隊から離脱、インドネシアの独立戦争
に参加した当時の彼の生きざまが「福祉友の会」(ジャカルタに本部のある元日
本軍残留者相互福祉団体)出版の本に載っている。田上氏は北スマトラのカロ高
原の部隊から離脱,主に西スマトラとアチェのインドネシア独立部隊と行動を共に
して転戦、昭和25年戦争(独立)終結時は現地婦人と結婚アチェにいた。当時の
インドネシア国内事情からアチェに残留した日本人約80人はインドネシア軍に逮捕
されメダンの収容所に入れられた。昭和27年日本政府と連絡がとれ、彼らのうち希
望者は政府負担で帰国の道が開かれた。しかし当時田上氏の奥さんは妊娠中で、イ
スラム法は妊娠中の妻との離婚を禁じていた。田上氏は”やむなく帰国を断念
した”と本の中で書いている。熊本の実家では母親が一人息子の帰国を毎日陰膳で
待っていたのだがー。

僕が田上氏の孫、スシアテイ嬢(当時)と初めて知り合ったのは平成5年初冬、
JR信越線上田駅前だった。イランからの不法就労者が各地で問題となっていた
頃であった。上田周辺にはブローカーの斡旋で北スマトラから日系と称する
インドネシア人が大挙来日、地元社会との間で摩擦を生じていた。
ボランテイアでこの問題に取り組んでいた僕は、父親と一緒に来日した彼女が
祖父の故郷を是非訪ねたい、というのを知り一家を熊本へ案内した。熊本には
田上氏の一人の姉さんがおり、涙の対面となった。その後スシアテイは帰国、地元
青年と結婚,二児をもうけたが、子育ても一段落、夫と一緒に再来日二人だけで働いている。
彼女からの贈物に感謝、遠く離れて暮らす彼女の子供用の衣類を送った。



「カツオ」と「ワカメ」がいなくなった!

2006-08-19 06:01:57 | Weblog
きのう床屋へ髪を刈りに行った。もう刈るせきもない頭だが、やはり月に一回
ぐらい行かないと鬱陶しい。それに床屋の主人との会話が楽しいので、わざわざ
自転車に乗って遠くまで出かける。20数年通いなれた店だ。そこでの「床屋談義」です。

「サザエさんの海野カツオやワカメのような髪の子供がいなくなったですね」
「もう20年以上前からです。カツオの坊主刈り(後に坊ちゃん刈り)やワカメの
オカッパ髪はいなくなりました。子供が床屋へこなくなってからです」
床屋の主人の説明によると、床屋は髪を”理える”つまり理髪が仕事、ところが
戦後昭和40年ごろから、長髪が流行、髪を"理える”のを嫌い、男性まで
美容院へ行きだし、それが子供の世界にまで及んできたのではないかという。
確かに家の孫も理髪店を嫌い、美容院で何とかいうサッカー選手みたいな
髪型をして得意がっている。

もう一つ主人の談義。家庭でのクーラーの普及が理髪店の売上げに響いていると
いう。むかし扇風機の時代は、髪を刈らないとムシムシしてたまらなっかた。
そこで床屋へ通う回数も多かったが、最近はクーラーの”お蔭”で、客の来る
数がめっきり減ったという。
主人の話では、店の客の年齢層は店の主人の年齢と正比例するという。客の
ほうで、会話が合う店を選ぶからではないかという。そういえば、僕の行く
店の主人は戦前生まれ、客も戦前生ればかり。主人も多分”坊ちゃん刈り”は
できても”ベッカム刈り”は出来ないかも。

遊就舘とC-56機関車

2006-08-18 06:44:06 | Weblog
靖国神社境内にある遊就舘を入ると正面にC-56機関車が展示してある。
映画「戦場に架ける橋」、あるいは「クワイ河マーチ」のメロデイで知られる
泰緬鉄道で使用されていた蒸気機関車だ。タイからビルマ(当時)への
補給路確保のため昭和18年、日本の陸軍鉄道聯隊が、ジャングルを伐り
拓きわずか1年3か月の突貫工事で鉄道は完成した。全長415キロ。C-56 は
その開通式に使われた記念のSLである。

昭和54年、鉄道聯隊戦友会がタイの国鉄から使われなくなった、このSLを
買い上げ靖国神社に奉献した。戦友会にとっては、かってお国のために
多大の犠牲者を出して働いた記念物である。遊就館の展示目的は「戦没者
顕彰」と「近代史の真実の明示」であり問題はない。しかし、一方において、
この工事では、連合軍捕虜を中心に推定4万人の犠牲者を出し、戦後のBC級
裁判でも日本側に32人の刑死者を出している。

泰緬鉄道関係者が書いた本を読んだ。書かれているように捕虜への虐待
行為はなかったと思う。しかし、工事の能率をあげるために結果的には
捕虜を酷使し、言葉の障壁から殴ったのも事実である。多分、犠牲者の
大半は食糧不足とマラリアなど病気によるものだと思う。ところが外国
映画では鉄道聯隊は極悪非道の軍隊のように描かれている。無念のお気持
は判るのだがー。

先日の「産経新聞」は遊就館訪問記の中で「戦争美化感ぜず」と書いていた。
よほどの者でない限り”美化”など感じないだろう。だが、C-56を見て
”嫌悪感”を持つ入館者は多いと思う。泰麺鉄道工事で捕虜を始め
沢山の現地人の犠牲者が出ているのは厳然たる事実である。そして残念ながら
一般には泰緬鉄道工事は大東亜戦争の恥部のようにいわれている。
遊就館に館を中国の博物館化する意図があるのなら別だが、誤解を呼ぶ
展示にならないよう、もっと気を配って貰いたい。


17-8-05 インドネシア独立記念日

2006-08-17 06:09:39 | Weblog
東京のインドネシア大使公邸で行われた同国の61回目の独立式典に
招かれ出席した。式典は61年前、ジャカルタのスカルノ(初代大統領)
邸での独立宣言当日を再現、開始時間まで午前10時とこだわっている。
式典は国旗掲揚、国歌斉唱に始まり、式典長が独立宣言を読み上げる。
"気をつけ、"休め””敬礼”昔の日本の軍隊式の式典である。
在京のインドネシア人に混じってインドネシアに従軍、ムルデカ(独立)を
共に祝った日本軍関係者も招かれていた。みな80歳を超えている。


独立宣言文には17-8-05という数字がみられる。宣言署名の1945年
8月17日のこと、05は日本軍政下使用されていた皇紀2605年の05の
略である。数年前、日本で製作、上映された映画「ムルデカ」の宣伝文
には「スカルノ、ハッタが日本に敬意を表して皇紀を使用した」と書いてあった。
果たしてそうであろうかー。

独立宣言の起草はジャカルタの前田精・海軍少将邸で行われ、西嶋重忠
通訳ほか数名が起草に参画している。スカルノがサイゴンの南方軍から
日本主唱の独立日程表(8月19日独立準備委員会発足、9月7日独立)を携行
ジャカルタに帰ったのは、敗戦前日の8月14日午後。独立宣言の起草は
このような未曾有な難しい時期に始まったが、日本の存在を極力排除したい
青年グループとスカルノ、ハッタとが対立、途中スカルノらが拉致、監禁
される事件もあり難航した。しかも青年グループが突きつけた時間制限の
中での話し合いだった。


起草文起草に立ち会った西嶋重忠氏は著書「インドネシア独立革命」の中で
独立宣言前夜のことを"人生で最も長かった日”と記している、心血を
注いでの宣言文起草だったようだ。そして西嶋氏は「17-8-05」に触れ
「私を含めて誰もそれに気がつかずにいたことは逆に会議の空気を示すもの
かも知れない」と述べている。僕も西嶋氏の意見のほうがが素直に思える。
日本の軍政下、ジャカルタでは日本時間を使用していた。午前10時は、
現地時間8時である。スカルノ,ハッタは日本に敬意を表して時間まで10時に
あわせ独立宣言を発表したのであろうかー。負けたといえ日本の軍政の
秩序下にインドネシアはあったのである。






お可哀そうに!捕虜の犠牲者

2006-08-16 06:06:06 | Weblog
小学生のころ家の横の道を日本の兵隊に連れられてノロノロ歩いて行く
連合軍の捕虜の姿を見た。東京の平和島(現在)にあった収容所から
僕の家の近くの青果市場へ野菜の買出しに来ていていたのだ。
そのころ有閑夫人が捕虜が労働している姿を見て"お可哀そうに”と、
同情したという新聞記事が出た。そして「"お可哀そうに”とは何事だ」
と問題になった。

戦争中日本に連行された連合軍の捕虜は約8万人といわれ、全国各地の
収容所に入れられ炭鉱などで労働に従事させられた。捕虜の大半は、
緒戦で勝利したマレー、シンガポール、旧蘭印にいた連合軍兵士で、欧米系
だけでなく当時の植民地の兵隊(現地人)もかなりいた。

毎年8月、横浜市保土ヶ谷にある英連邦軍捕虜墓地と福岡県水巻町の
「十字架の塔」(オランダ軍捕虜慰霊碑)へも関係者の参拝が多い。英連邦
軍捕虜墓地は昭和25年、わが国が当時進駐していた連合軍当局へ土地を
永久貸与して造成されたもので、1,873人の捕虜の墓がある。一方、
水巻の「十字架の塔」は、戦後まもなく町民が建てたものだが、今は町が
管理し、清掃などはボランテイアが行っているが、慰霊塔には日本で
死んだ816人全員の名前が刻まれた銅版のプレートも収められている。
両方の墓地とも日本人がきちんと管理し雑草もはえていない。


戦後、旧満州その他からシベリア各地に連行され強制労働で死亡した
日本軍捕虜の数は今もって正確にはわからない。ロシア側の推定でも
37万人という数字がある。その数は保土ヶ谷、水巻の比ではない。
シベリア各地の墓地、慰霊碑のほとんどは日本側が造成したものだが、
ハバロフスクの「平和記念公苑」の慰霊碑は過去に2回も地元民によって
壊されたと聞く。
シンガポールほか南方各地では戦後、1年もの間、捕虜でもないのに
捕虜みたいに働かされ死亡した日本人の数は泰緬鉄道の連合軍犠牲者数
よりも多いという説もある。当時の歴史を精査しなければ「南京事件}
のようになってしまう。








61年目、あの頃のこと

2006-08-15 06:35:47 | Weblog
61年目の終戦記念日である。暑い日であった。電休日で動員先の工場が
休みだった僕は家の庭先にあった防空壕で天皇陛下の”玉音”を聞いた。
聞き取りにくい放送を、真空管ラジオの箱を叩きながら意味の理解に努め
たが結局よくわからなかった。ただ僕の場合、数日前から敗戦の情報を得て
いたので、格別な驚きも感激もなかった。”これで工場へ行かずにすむ”
という単純な喜びだけだった。

翌16日、矢口渡(多摩川河畔)にあった工場へ行った。最初の工場が
空襲で焼失したため二度目の動員先だった。なんでも機銃弾を製造して
いるとのことだったが”開店休業”で、僕ら技能をもたない新入りは、
することもなく”厄介者”扱いであった。出勤すると、すでに隣の工場は
大変な騒ぎになっていた。”マンセイ、マンセイ”という声で沸立って
いた。そのとき初めて僕は彼らが朝鮮からの徴用工であるのを知った。

学校の授業が再開されたのは、8月27日であった。敗戦から10日以上
たっていた。学校も5月の空襲で戦災にあったが、コンクリート建ての
校舎だけが焼失をまぬかれた。学校のまわりは焼野原。焼け出された人が
校舎内に同居していた。窓が壊れ雨がとびこむ校舎の中で、9か月ぶりに
僕らは学ぶ喜びをしった。
それからまもなく教練の先生や神がかった教育をしていた教師が”追放”
され学校を去っていった。

中曽根元首相のボケた「靖国」発言

2006-08-14 06:02:24 | Weblog
きのうNHKのテレビ番組「戦後61年中曽根元首相に問う」を視聴した。そして
僕は7月21日のブログで書いた「富田朝彦 後藤田正晴 中曽根康弘」での
僕の推測、つまり、自民党総裁選前のこの時期に誰が、突如「富田メモ」を
タイミングを図るかのように出したのかーの正しさを確認した。


中曽根元首相は番組の中で小泉首相の名前は出さなかったが「現在の総理は
行ったり来たりして(靖国参拝について)思慮がない。靖国の神主が決定
(A級戦犯分祀を)すれば5分で問題は解決する。総理が必要なことは天皇
が靖国神社へ参拝できる環境をつくることだ」-要旨このような発言をした。
中曽根元首相は今年86歳、失礼だが、物忘れが激しすぎるのではないか。

中曽根元首相は総理時代(昭和57年ー62年)後藤田官房長官を長にいわゆる
「靖国懇」をつくり、政治家の靖国参拝を検討、この報告を受けて昭和60年
靖国神社を参拝したが”中国の内政を考慮して”一度で中止した。しかし、
「靖国懇」は、すでにこの時点で靖国神社のA級戦犯合祀(53年)と天皇の
参拝中止(50年来)を指摘していた。中曽根元首相は、この事実を知り
ながらも参拝していた。お忘れになってしまったのであろうか。

7月21日のブログで僕は富田、後藤田、中曽根三人の人的つながりだけを
書いた。富田と後藤田は警察庁の上司と部下。後藤田は中曽根内閣の官房
長官で同じ旧内務省の出身、最後に富田は、中曽根と同じ海軍短期現役
(短現)出身の”戦友”。富田は昭和53年から60年まで宮内庁長官で、
後藤田の「靖国懇」の時も諮問をうけている。

僕が判らないのは「富田メモ」の日付けが63年9月ということだ。これが
確かなら、中曽根首相も総理の座を去り、富田氏も宮内庁長官を辞任した
あとのメモであることだ。老獪な政治家のフィックスがなければよいのだが。

庶民の敗戦日記(2)

2006-08-13 06:07:58 | Weblog
亡父の敗戦当日の日記には”記憶せよ!この日よ!”と赤い字で
特筆され始まっている。

8月15日(水)空襲警報解除後、まず氷川神社に月参,帰って神仏に
月礼祈願。朝食。午前7時20分の放送にて本日正午畏くも天皇陛下
御親ら勅語御放送ある旨の発表あり恐く(きょうく)に堪えず。
午前9時半出勤正午より勅語拝聴式あり一同最敬礼裡に朗々たる玉
音に接し粛然襟を正し嗚咽各所に起こる感無量なり3時半帰宅夕食
8時就寝。

16日(金)気重き日、前途に不安を覚える。出勤後品川区役所へ家屋
強制疎開補償問題で行く。鈴木内閣総辞職東久邇内閣組閣。

17日ー18日(金ー土)息子動員解除20日まで休(17日)午前10:45-
11;00警戒警報。午後4時渋谷ミュヘーンで生ビール(18日)。

19日(日)戦争終了後最初の公休日。外見的にはまだ世相に変化は
ないが自分の気分は相当変わったものがある。すでに防空頭巾と巻き
ゲートルは廃止した。防空態勢から再起建設への第一歩のつもりである。
よく気をつけると街頭人の服装も国防色が次第に減りつつある。ただ
困るのは都民のつまらぬデマ流布である。今日は床屋も湯屋も休み。

20日ー22日(月ー水)妻、元住吉へ買出し、息子登校来週から授業
再開(20日)退職申し出 ラジオ気象通報開始(22日)。

23日ー25日(木ー土)浪人生活なんとなく力抜ける(23日)停電ラジオ
聞けず,蚊に攻められ寝られず(24日)敵機進駐を前に低空哨戒飛行。

28日(火)苦心惨憺の折衝のすえ強制疎開の補償金、半年ぶりに受取る。
9,020円也。夕食に臨時配給の酒、嬉しいことばかりなり。

31日(金)防空壕の中のものを取り出し,壕の埋立、久しぶりに庭が
すっきりする。息子学校農園行き。

(注1) 戦前まで毎月1日、15日(戦争中は8日=大詔奉戴日)に神仏に
   詣でる習慣があった。
(注2) 亡父の日記によれば、8月15日午前5時40分警報発令同8時50分
    解除、同9時半発令同正午解除とある。多分、天皇の放送を
    めぐる混乱を避けるための予防措置ではないだろうか。







庶民の敗戦日記から(1)

2006-08-12 06:06:42 | Weblog
亡父(1884-1968年)の戦前から戦後までの日記48冊を保存している。
うち45冊は立派な装丁の博文舘の当用日記だが、昭和19年から21年
の3年間は粗末なセンカ紙の備忘録。当用日記の愛用者だったが、
戦争で買えなかったのだ。3年間の日記は横12cm、縦20cm、180㌻の小冊子。
1㌻を半分に区切り1日に当てている。6行なので必要なことしか書いてない。
それでも当時の庶民が何を考え、どんな生きざまだったのか、かいま見る
事が出来る。敗戦から61年、以下は昭和20年8月の亡父の日記の一部。
当時父は61歳。定年後、大東亜省外郭団体の嘱託をしていた。

8月1日(水)陽気も回復して夏らしくなった。神仏に月礼,皇軍完勝と
一家の無事祈願。空襲警報(8:20-11:50)。午後虎ノ門「源来軒」で
ビール。八王子、水戸空襲。息子、電休日で工場動員休み。

2日ー4日(木ー土)(警戒警報、空襲警報発令、解除時が欄外に刻銘に
赤字で書いてある)仕事後京橋際の酒場で酒(2日)「源来軒」でビール
(3日)元住吉(東横線沿線)へ妻夕刻から野菜買出し(4日)

5日(日)公休。妻外出。町会事務所へ配給の味噌取りに行く。2週間
ぶりの入浴(銭湯)(注 行水はしていた)蚊とシラミで寝られず
(蚊帳を吊っていたがアナがあいていた)

6日ー8日(月ー水)(警戒警報、空襲警報の記述)「源来軒」のビール
籤ではずれ。家に焼酎の配給あり。(広島新型爆弾=原爆の記述なし)

9日ー10日(木ー金)岡崎勝男氏(注 戦後外相)の講演会で日ソ開戦
知る。容易ならざる事態発生。憂鬱の気に閉ざされる。夕食後行水。
(9日)出勤直前空襲警報。地下鉄不通のため渋谷から都電(10日)

11日(土)(長崎原爆投下の記述ないが)昨日に続き不快な情報を聞く。
第一ホテルで昼食。夜、妻元住吉に野菜の買い出し。

12日(日)午前省電(JR)で逗子へ。駅前の食堂で昼食。午後友人と
葉山の造船所に行き遊泳。今年の初泳ぎ。妻、町会の常会(会合)へ
出席

13日ー14(月ー火)警報に脅されて5時半起床、朝食後再度の空襲警報、
遅れて11時出勤、3時半終了、夕食後過労のため7時就寝(13日)午前
10時出勤、第一ホテルで昼餐、終業後渋谷でウイスキーを一杯して6
時帰宅、夜9時半の報道放送で明日正午重大発表ある旨の予告あり、
愈愈重大終局の近きを思わしめる。