
飯田さんは昭和18年、20歳の時志願して海軍民政部の軍属となり、当時の蘭領西ニューギニア資源調査班に配属された。南溟の未開のジャングルの地に眠る資源を調査するのが任務だったが、19年、米軍の上陸によって、日本軍は補給路をたたれ、食糧難に陥り、さらにはマラリアなどの病魔から倒れる兵士が続出した。そんな環境のなかで、戦争末期には原住民が、米軍に寝返り、日本軍を襲撃するようになった。飯田さんの”住民虐殺”容疑は、この戦闘の一つであった。新穂智.神機関長への容疑も同じであった。
蘭領印度と言われた、今のインドネシアの地では、戦後、戦勝国和蘭による軍事法廷がバタビア(ジャカルタ)など12か所で開かれ、448件、1038人が逮捕され226人が死刑に処せられたが、僻地、ホーランディア法廷の件数は53件、57人(死刑9)と、ジャカルタ、マカッサル、メダンに次いで”戦犯”が多かった。戦後70余年たち、かって、このような昭和の殉難者がいたことが忘れられていくのは残念である。
(写真はバタビア法廷で15年の判決を受けた谷口武次憲兵大尉、ゼッケン2 日蘭戦時資料として谷口氏(故人)から提供)
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