先日、小ブログで「皇紀二千六百一年の年賀状」を紹介したところ”イノサンサン”というコメンテ―ターから、前に僕が同じこの小ブログ「で書いた紘原神社(ひろはら.じんじゃ)」を想い出され、神社の写真があったら紹介してくれと所望があった。(写真上)
そこで改めて紘原神社について簡単に紹介すると、この神社は昭和17年、スマトラ(インドネシア)のメダンに駐屯していた旧日本軍、近衛第二師団が、州庁舎の近くに建立したもので、75年過ぎた今でもその一部の建物が現存している。紘原の紘は大東亜戦争の理念であった「八紘一宇」の紘、原はインドネシア語”Medan"(野原)から取ったものだ。
20年前、僕はメダンに長期滞在し、日本語を教えていた時、北スマトラ大学の歴史の講師で、メダン史の著書があるルクマン氏と知り合いになり、今はメダンクラブという名前の会員制社交クラブになっている紘原神社跡のレストランに招待され、メダンを中心にした北スマトラと日本との関係史について話を聞いた。ルクマン氏は、和蘭植民地時代、メダン郊外にあったセルダン首長国のサルタンの後裔であった。この時、僕は初めてルクマン氏から父親のスレイマン氏が明治時代の初め、日本を訪れ明治天皇に謁見された話を聞いた。(残念ながら、謁見は日本では確認されていない)
ルクマン氏の話のように、日本とメダンとの歴史は古く、明治から大正時代の初期にかけては、いわゆる〝カラ行きさん”で賑わい、昭和の初めメダンを訪れた詩人の金子光晴は著書「マレー蘭印紀行」の中で”新市街だけで40数軒も日本人経営の旅館があった”と書いている。それを裏付けるように、写真下は当時の繁栄ぶりがうかがえる。写真は平成16年7月号の「友愛だより」(戦前の蘭印時代、インドネシアにいた人の集まりの機関誌)からの転載だが、その当時の日本人学校の建物が今なお、残っており使用されているとは驚きだ。
メダンでも古い由緒ある建物が最近壊されているようだ、数年前、インドネシアの建築家の友人が古くからある格式あるメダン駅が味気のない新駅に変ってしまったと嘆いていた。紘原神社や旧日本人学校建物など、出来れば歴史遺産として残して貰いたいものだ。台湾では最近、日本統治時代の建物が観光遺産として脚光を浴びてきた。旧日本軍が大東亜共栄圏各地に建てた神社建物が現存するのはメダンだけである。(写真下の下は昭和7年のメダン日本人小学校の卒業式写真)
つい先日、メダン紘原神社のことでお願いしたところ、早速その写真を紹介していただき感謝申し上げます。
現在ではメダンクラブに改装されているとのことですが、父の知人がお参りをしたという昭和19年か昭和20年ごろ神社は、たぶんもっと大きなものだったのでしょうか。
さすがにその当時の写真かスケッチはないでしょうね?もしございましたら都合のつく時にご紹介いただけますよう重ねてお願い申し上げます。お願いばかりで恐縮です。
日本とメダンとの歴史は古く、明治から大正時代の初期~金子光晴~終戦まで多くの日本人が足跡を残していたことを改めて知りました。また貴殿自身が20年ほど前にメダンに長期滞在されていたとのこと、色々なつながりがあることがわかりました。
年末年始のご多忙の中でしょうが、ますますの御健筆を期待させていただきます。
メダンに戦後残留した石黒さん(故人)の話では、建物は昔の社務所で、本殿や鳥居などは撤去されてしまったそうです。最近、この10年ほどメダンへ行っていませんので現状は知りません。
ご存知のように、戦時中はカメラは貴重で、一般の兵隊はスナップなど取っていません。その中で絵心のあった近衛輜重兵だった斉藤三郎氏(二科展)が「戦場の青春」という画集のなかで、メダン市内やベラワンなどをスケッチしていますが、紘原神社はありません。
小生の別のブログ「1000都物語」で数年前、紘原神社について書いたことがります。検索できると思います。当時の近衛兵の方が老人施設におられますが、最近消息がなく心配しています。
さっそく「1000都物語」を拝読いたしました。
紘原神社の由来もわかりました。
メダンはかって繁栄の中にあり近衛師団~日本人小学校~紘原神社、しかし歴史の裏ではディリ・トウア墓地~戦犯刑死者を祀る慰霊塔など悲しいストーリーがあるのですね。
それにしましても、二つのブログを作成できるほどの貴殿の知識と情熱には敬服です。通り一遍の話だけでなく歴史的背景や世の流れにも敏感であるブログと思います。
戦後が遠くなり資料が散逸しているでしょうが、バタビア、スラバヤ、バンドン、パレンバンなどの戦争遺産についても、時々でもご紹介をお願い申し上げます。
興味本位や懐古趣味ばかりではなく、歴史や歴史遺産から物事の見方や真実を知りたいからです。