44年前の1969年(昭和44年)3月30日の日曜日、パリのベトナム和平会議の会場から200m離れた路上で、フランシーヌ.コンテさんというフランス人女子学生がベトナム戦争とビアフラ(ナイジェリア)内戦に抗議してシンナーにガソリンをかけ焼身自殺した。
この焼身自殺は当時世界中に大きな衝撃を与えた。日本でもセンセーショナルに報道され、事件から僅か2か月後の6月、べ平連(ベトナム反戦平和市民運動)に共鳴していた、いずみたくが作詞し、郷伍郎が作曲した「フランシーヌの場合」が発表され、反戦歌手の新谷のりこが歌い大ヒットした。
1969年という年は1月、東大安田講堂を占拠していた学生たちが排除されるなど大学紛争が激化し、同時にベトナム反戦運動が全国的に燃え上がりをみせていた。東京では毎週週末の土曜日になると、数千人規模の学生を中心にした若者たちが新宿駅西口広場に集まって反戦フォークを歌うなど気勢をあげた。
最大の盛り上がりをみせたのは4月28日の「沖縄デー」であった。70年安保改定を前に沖縄の全面返還を求めて社会党などの左翼勢力が全国的なデモを呼びかけた。東京でも各地でデモ隊と機動隊が衝突、一時的だが電車が止まるなど、この日だけで千人に近い逮捕者を出す大騒ぎになった。
今年の4月28日、政府は1952年サンフランシスコ条約が発効し主権が回復した日を祝って政府主催の式典を行う。「3月30日の日曜日」の時代、「沖縄デー」の騒ぎを知っている世代の一人としては感無量である。
この焼身自殺は当時世界中に大きな衝撃を与えた。日本でもセンセーショナルに報道され、事件から僅か2か月後の6月、べ平連(ベトナム反戦平和市民運動)に共鳴していた、いずみたくが作詞し、郷伍郎が作曲した「フランシーヌの場合」が発表され、反戦歌手の新谷のりこが歌い大ヒットした。
1969年という年は1月、東大安田講堂を占拠していた学生たちが排除されるなど大学紛争が激化し、同時にベトナム反戦運動が全国的に燃え上がりをみせていた。東京では毎週週末の土曜日になると、数千人規模の学生を中心にした若者たちが新宿駅西口広場に集まって反戦フォークを歌うなど気勢をあげた。
最大の盛り上がりをみせたのは4月28日の「沖縄デー」であった。70年安保改定を前に沖縄の全面返還を求めて社会党などの左翼勢力が全国的なデモを呼びかけた。東京でも各地でデモ隊と機動隊が衝突、一時的だが電車が止まるなど、この日だけで千人に近い逮捕者を出す大騒ぎになった。
今年の4月28日、政府は1952年サンフランシスコ条約が発効し主権が回復した日を祝って政府主催の式典を行う。「3月30日の日曜日」の時代、「沖縄デー」の騒ぎを知っている世代の一人としては感無量である。
左翼は沖縄返還を誘導していましたが、今は沖縄独立をけしかけています。左翼の言動は理解不能です。
確かに時代の転換期だったのですね。4月28日は「沖縄デー」でしたが、当時誰もこの日が”屈辱の日”だなどいった者はいません。全面返還を求めて本土も沖縄も共闘していましたが。
当時僕は38歳、父が亡くなったり、職が変わったりして大変な年でした。アポロの月着陸もこの年でした。
1948年の教育復興闘争を経由して、60年安保闘争で最盛期を学生運動は迎え、たが、全学連運動は離合集散、分裂抗争で低迷。最後の学生運動の幕引き役となったのが、石油ショック直前の時期、68-69年の、いわば、「学生運動バブル」だったのではと思います。
昔の同僚に火炎瓶時代の全学連の幹部(数人)いましたが、僕の記憶では70年安保期までには皆”転向“していました。60年安保後、社内で”残酷物語”パージがあり、これが影響したのかもしれない。この時期、すでに僕は38歳、転職もあり、べ平連の運動などに全く無関心、カネ儲けに一生懸命でした。(笑)