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「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

「万朶(ばんだ)の桜か襟(えり)の色」

2016-04-01 05:47:59 | 2012・1・1

昭和18年4月、旧制中学に入学した近所に住む旧友と昨日桜満開の駒沢公園でお花見してきた。あまり好い想い出ではないが、戦争中に少年時代を送った僕ら世代には、この花の季節になると軍歌「歩兵の本領」を想い出す
♯ 「歩兵の本領」(加藤明勝作詞 永井建子作曲 明治40年)
   万朶(ばんだ)の桜か 襟(えりの色) 花は吉野に嵐吹く
   大和男子(やまとおのこ)と生まれなば 散兵戦の花と散れ

蛇足かもしれないが、少し説明すると、「万朶」の「朶」は垂れ下がった枝の意。「襟の色」は旧陸軍軍服の襟の色は兵科によって分かれ、歩兵は緋色(桜色)であった。散兵戦とは、敵と対峙し一斉攻撃の号令一下、各兵が散りじりに敵に向かって攻撃をかけることである。

71年前の昭和20年4月Ⅰ日、連合軍が沖縄本土に上陸してきた。激戦が伝わり、やがて九十九里浜に上陸する日も近いということで、中学3年生だった僕らも家を離れ、千葉県の江戸川運河の拡幅工事に動員された。地上戦を想定して舟艇を自由に航行させるのが目的だった。連日モッコを担いで運河の底の泥を運び出す作業が続いた。そして夕食後には「軍歌演習」で、この「歩兵本領」をがめいた。

敵が九十九里浜に上陸したら、多分江戸川運河付近は戦場になり、僕らも散兵戦に参加花と散っていたかもしれない。80歳半ばの僕ら二人は万朶の桜の下で弁当を開き、平和の喜びをかみしめて味あった。

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7 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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侍魂 (chobimame)
2016-04-02 14:20:44
軍隊における桜は、侍魂などを表しているのだと思っていました。
ぱっと咲いて、ぱっと散る。
そんな意味も隠されていたとは、悲しい話です。
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潔く散れ (kakek)
2016-04-02 18:09:00
chobimame さん
サムライは桜の花のように、ぱっと咲き、ぱっと潔く散れというのが主意です。戦時中の若者は皆、そう教育されていました。吉野山にl籠って修行した西行の桜を歌った和歌が戦争中好まれました。怖い時代でしたね。
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Unknown (エド津村 (在米))
2020-08-05 08:27:47
私は昭和17年4月大阪府立岸和田中学に入学しました。昭和18年秋から19年初め頃にかけて戦況が思わしくない中、英語の教師の中に若くてロイド眼鏡をかけたダンディなのがおられて、授業などはいい加減にしてロミオとジュリエットを演じて見せたりしてクラスを喜ばせましたが、案の定当局に睨まれたのかニューギニア行きの軍属として徴集されました。その壮行会が全校の生徒が集まった講堂で行われましたが、彼は「万朶の桜と散る」と台詞を残してゆかれました。
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撃ちてし止まん (kakek)
2020-08-05 16:08:36
エド津村 様
遠方よりコメント有難うございました。一学年先輩の方ですね。当方、東京の私立攻玉中社中学(軍神広瀬中佐先輩)海軍予備校と呼ばれていただけに、学徒動員中も英語を勉強していました。三省堂の英和辞典(昭和19年)には”撃ちてし止まん”と書いてありました。上司に岸和田中学卒業の先輩がおりました。
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Unknown (エド津村 (在米))
2020-08-05 22:53:07
回答のコメント有難うございました。広瀬中佐の名前は子供の頃から聞いています。
しかしながらブログですからプライバシーを考えると今後コメントする場合は偽名を使わさせて頂きます。ご了承のほどを。
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Unknown (redzone-b16b)
2020-09-14 19:36:38
はじめまして。
この歌は自衛官の教育隊の時によく皆で斉唱してました。
親父も兄も私ももと自衛官です。
懐かしいです。
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大場栄陸軍大尉も好きだった (日本ミツバチ28号)
2020-10-25 18:07:07
『歩兵の本領』(明治44年)は大東亜戦争の中でも悲惨を極めたといわれる、サイパンのタッポーチョ山で部下(部隊)をよく指揮してアメリカ軍と戦い、そして民間人を保護した、大場栄陸軍大尉もこの歌が好きで、よく歌ったとノンフィクション小説『タッポーチョ 太平洋の奇跡』(祥伝社黄金文庫 平成23年)にあります。
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