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「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

幻の1940年東京五輪のレガシ―(遺産)砧(きぬた)公園

2016-10-19 06:22:44 | 2012・1・1
70年来の竹馬の友二人と久しぶりに都立砧(きぬた)公園に弁当持参で出かけてきた。砧公園は広さ391,000平方キロ、東京ディズニーランドの510,000平方キロと比べても、いかに広いかがわかるが、その割にはあまり都民には知られていない。公園として整備されたのは昭和31年(1956年)で、60年だが、もともとは幻の東京五輪計画として昭和13年に造成れた六大緑地(砧、神代、小金井、舎人、水元、篠崎)の一つであった。

昭和10年初めはどんな時代だったか。大正12年(1823年)9月1日の関東大震災からの「帝都復興祝典}が催されたのは震災から7年目の昭和5年であった。時代は復興にピリオドが打たれ、都民(当時は府民)は、次の国家目標である、五輪開催について明るい夢を抱いていたが、一方では、中国大陸での”事変”が次第に戦争へと変容してきた。

東京の大緑地計画も、五輪が中止となり、16年12月、大東亜戦争に戦火が拡大されると、緑地計画の防空用の緑地となり、学徒動員により、敷地内に防空壕が掘られたり、食糧増産のため農地となったり、牧畜地にされた。そして、戦後は一時ゴルフ場として使用されていたが、31年、今のような公園として開放された。“レバ””タラ”はいけないが、40年五輪が開催されていたならば、レガシーはどうなっていただろうか。

写真左から右に①かってゴルフ場であった芝生で遊ぶ保育園児②秋咲きのコブクロ桜③落葉が舞い始めた古木④木登り禁止の古木