「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

前田精将軍を知らなかった国際交流基金理事長

2014-08-16 05:30:28 | Weblog
知人から国際交流基金理事長、安藤裕康氏が日経新聞夕刊に書いた「明日の話題 残留日本兵」という記事を頂戴した。理事長はこの記事の中で、インドネシアの高校生から前田精将軍について質問されたが、恥ずかしながら自分は知らなかったと書いている。理事長は外務省の出身だが、経歴を見ると中近東アフリカ局長やイタリア大使を経験されており、インドネシアに専門家ではない。しかし、交流基金は今年4月から「アジアセンター」を設けるなどアジアに重点を置いている、そのトップの発言としては心もとない。

前田精少将はさきの大戦中、ジャカルタにあった海軍武官府(陸軍との連絡事務所)の長だった人物で、昭和20年8月17日のインドネシア独立の際、自宅公邸をスカルノ、ハッタ(のちの大統領、副大統領)らのために提供、ここで独立宣言が起草されている。また日本の敗戦という混乱の時期にも拘らず、独立に慎重だった陸軍との調整に努めた。後年、インドネシア政府は前田将軍に、最高の勲章「建国功労賞」を授与している。前田将軍の事はインドネシアの教科書にも出ている。

古い話を持ち出して恐縮だが、1992年3月、日本軍のジャワ”侵攻”50周年を記念して、当時ジャカルタの日本大使館の専門委員だったI・Kさん(女性)や後にインドネシア政府から追放処分を受けた日本の通信社記者らが中心となってジャカルタでシンポジュームを開いた。この資金は国際交流基金から出ている。シンポジュームは当初公開で行われる予定であったが、駐ジャカルタ日本大使館が、その内容や講師などから判断して非公開に変更させた。シンポジュームの目的は戦争中の日本軍政についての一方的な批判であった。

今、僕の知り合いの若いインドネシア研究グループがジャカルタの独立式典に参加したあと、カリジャテイの歴史博物館と日本兵慰霊碑を参拝している。カリジャテイは緒戦時、ジャワに上陸した日本軍の前に蘭印軍が僅か数日で敗走、この地で蘭印総督と司令官が降伏文書に調印している。。このことはインドネシア教科書にも明記されているが、何故か現地の日本大使館は、戦友会の要請にもかかわらず、インドネシア空軍が管理しる慰霊碑参拝に訪れたことがない。まさかカリジャティが日本帝国主義の侵略の拠点とでも思っているのであろうか。すべて、きちんとした史実に基づく歴史検証が必用である。安藤理事長は、原稿の中で戦後インドネシアの残留した日本兵が1万人に及ぶというある本を引用して書いているが、ジャカルタの残留者組織「福祉友の会」の文書によれば、「帰らなかった日本兵」は903人である。念のため。