ほとんどの絵の中には人物が登場しますが、背景にはいろいろな風景が描かれ、屋外であれば例えば月や星空、また太陽や風などの自然や天候が描き込まれることも多いです。
そして面白いことにその「絵の登場人物の内面の感情と天候とが一致している」というか、かなり関連が深い気がします。
例えばずっと昔のことですが、洞窟の中に居る人物(男性)を描いている時、なぜかその洞窟にひびや割れ目が生じ始めました。
「もしかしたらこの人は心にひびが入っているのかもしれない」と感じながら描き続けていたら、いきなりグラグラと揺れて、ほんとの地震だったりしたこともありました。
また、描いているうちに最初はいいお天気で、気分よく絵筆が進んでいたのに、どういうわけかどんどん絵が暗くなっていき、風雨や雷まで、、と思っていると、実際に窓の外の天候が急変し、いきなり雷が鳴り出してびっくり!したことも。
もちろんその逆の場合もあり、例えば描き始めは真っ暗闇の絵が、そのうち満点の星空になったり、満月が煌煌と照るということもあります。
これは描き手(私)を通して、描かれる側(絵を申し込まれた人)の内面と外側の天候とが繋がっていることを現しているのかもしれません。
古代中国から伝わったといわれている「もの凄くよく当たる占い」(詳細は森田健さんのHPをご覧ください)によると、これらのことは「外応」という現象でもあり、また(前回のブログにも書きましたが)宇宙の「相似象」=フラクタルによっても説明出来るかもしれません。
「晴れ女」とか「雨男」というようなジンクス?もあるようですが、テレパスアートでは大体画面右方を過去、左方を未来というふうに描き分けられていることが多く、過去の方角では雨が降っていても、未来の方角には太陽が照っているというふうに、一枚の画紙の上に過去、現在、未来が同時に存在していたり、正反対の天候が一つの場面の中に描き込まれていたりすることも多いです。
(画面の上下の関係や斜めその他についてはまた別の機会に詳述します)
そして例えば「傘」でも、いまどき珍しい和傘が出てきたり、楊貴妃の使っていたような傘だったり、あるいは天候とは関係の無い二人の「相合い傘」の場合もあって、途中でどんなふうに変化するかわからないので、描いていて最後まで興味が尽きません。
昨年の東日本大震災の前の絵はどうだったのか?そしてその後一年経ってみて最近の絵はどうなのか?
そのあたりのことはまだ十分に分析検証出来ていません。
こういう絵が研究材料としていつか何かのお役に立ったりすることもあるのでしょうか?(もしそうであれば大変光栄です)
描き終えた絵はお客様にお送りしてしまうと、(手元にはコピーなどは保存していませんので)「まとめてこれまでの絵を全部を観る」という機会も無いため、(個人的に印象に残る絵はたくさんあっても)全体として見た時にそれがどういう意味を持つのか?ということまで俯瞰するのは少々難しいのです。
ただ、これまで15年こういう絵を描き続けてきて思うことは、(天候の話題とは少しずれますが)人は誰もこの世に一人だけぽつんと存在するのでは無く、「みんな繋がって関連している」ということです。
それも生まれる前からまるで約束していたかのように、グル-プソウルやツインソウルと共に(「集団意識」として?)生きているという気がします。また人類だけでは無く、身近なペットや植物たちなどとも結ばれていると感じます。
(例えば絵に具体的にそういうことが出てくる例や不思議な「エピソード」などについてもまたいつかご紹介したいと思います)
私の感じるのは、一つの身体に一つの魂が宿っているというよりも、全体として大きなお餅のような魂(集団意識?)の一部分が自分であり、しかもそれは「固体」というよりもむしろ透明な「分御霊」?が幾つも重なっているというようなイメージです。
ですから誰も自分は「一個人」(一固体)と思っているかもしれないけれど、ほんとうはもっとたくさんの人が重なっていて、その中の例えば色の濃いい部分とか、突出した部分が自分だと感じているに過ぎないのでは?というような感覚を私は持っています。
例えば掌を眺めると分かれたところがあり、それが指となっていて、その「指先」が自分!?と思っているかもしれないけれど、ほんとうの自分とは実は掌全体というよりも、からだ全体さらにはそれよりももっと大きい(からだの外に広がっている)無限の空間(宇宙)とも連なって「分ち難く存在している」ものなのかもしれません。
科学的知識に弱く言葉ではうまく説明出来ませんが、大概の人がかなり自分を「過少評価」しがちであり、それはたぶん自分というものの「認識範囲が狭い」せいで、そのために孤独を感じたり、「孤立感」を抱きがちなのではないでしょうか。
けれども人は決して永遠に切り離された(分けられた)別個の存在では無く、いろんなもの全てと分ち難く結びついて存在しているとしたら、別れも(分かれも)一時的なもの(そう見えるだけ)なのかもしれません。
私の好きな川柳にこういう句があります。
(『 徳永政二フォト句集 1 カーブ 』より引用 )
悲しみはつながっているカーブする 徳永 政二
前回の「フィードバック」の一文を通して私がお伝えしたかったこともそういうことです。
ところで、ある方がさっそくにメールで近況を知らせてくださいました。
ありがとうございます!!
(とてもいいご報告でしたので、またいつか機会があればブログでもぜひご紹介させていただきたいと思っています)
下記はアズミックアートの宇宙画『メディテーション』です。
そして面白いことにその「絵の登場人物の内面の感情と天候とが一致している」というか、かなり関連が深い気がします。
例えばずっと昔のことですが、洞窟の中に居る人物(男性)を描いている時、なぜかその洞窟にひびや割れ目が生じ始めました。
「もしかしたらこの人は心にひびが入っているのかもしれない」と感じながら描き続けていたら、いきなりグラグラと揺れて、ほんとの地震だったりしたこともありました。
また、描いているうちに最初はいいお天気で、気分よく絵筆が進んでいたのに、どういうわけかどんどん絵が暗くなっていき、風雨や雷まで、、と思っていると、実際に窓の外の天候が急変し、いきなり雷が鳴り出してびっくり!したことも。
もちろんその逆の場合もあり、例えば描き始めは真っ暗闇の絵が、そのうち満点の星空になったり、満月が煌煌と照るということもあります。
これは描き手(私)を通して、描かれる側(絵を申し込まれた人)の内面と外側の天候とが繋がっていることを現しているのかもしれません。
古代中国から伝わったといわれている「もの凄くよく当たる占い」(詳細は森田健さんのHPをご覧ください)によると、これらのことは「外応」という現象でもあり、また(前回のブログにも書きましたが)宇宙の「相似象」=フラクタルによっても説明出来るかもしれません。
「晴れ女」とか「雨男」というようなジンクス?もあるようですが、テレパスアートでは大体画面右方を過去、左方を未来というふうに描き分けられていることが多く、過去の方角では雨が降っていても、未来の方角には太陽が照っているというふうに、一枚の画紙の上に過去、現在、未来が同時に存在していたり、正反対の天候が一つの場面の中に描き込まれていたりすることも多いです。
(画面の上下の関係や斜めその他についてはまた別の機会に詳述します)
そして例えば「傘」でも、いまどき珍しい和傘が出てきたり、楊貴妃の使っていたような傘だったり、あるいは天候とは関係の無い二人の「相合い傘」の場合もあって、途中でどんなふうに変化するかわからないので、描いていて最後まで興味が尽きません。
昨年の東日本大震災の前の絵はどうだったのか?そしてその後一年経ってみて最近の絵はどうなのか?
そのあたりのことはまだ十分に分析検証出来ていません。
こういう絵が研究材料としていつか何かのお役に立ったりすることもあるのでしょうか?(もしそうであれば大変光栄です)
描き終えた絵はお客様にお送りしてしまうと、(手元にはコピーなどは保存していませんので)「まとめてこれまでの絵を全部を観る」という機会も無いため、(個人的に印象に残る絵はたくさんあっても)全体として見た時にそれがどういう意味を持つのか?ということまで俯瞰するのは少々難しいのです。
ただ、これまで15年こういう絵を描き続けてきて思うことは、(天候の話題とは少しずれますが)人は誰もこの世に一人だけぽつんと存在するのでは無く、「みんな繋がって関連している」ということです。
それも生まれる前からまるで約束していたかのように、グル-プソウルやツインソウルと共に(「集団意識」として?)生きているという気がします。また人類だけでは無く、身近なペットや植物たちなどとも結ばれていると感じます。
(例えば絵に具体的にそういうことが出てくる例や不思議な「エピソード」などについてもまたいつかご紹介したいと思います)
私の感じるのは、一つの身体に一つの魂が宿っているというよりも、全体として大きなお餅のような魂(集団意識?)の一部分が自分であり、しかもそれは「固体」というよりもむしろ透明な「分御霊」?が幾つも重なっているというようなイメージです。
ですから誰も自分は「一個人」(一固体)と思っているかもしれないけれど、ほんとうはもっとたくさんの人が重なっていて、その中の例えば色の濃いい部分とか、突出した部分が自分だと感じているに過ぎないのでは?というような感覚を私は持っています。
例えば掌を眺めると分かれたところがあり、それが指となっていて、その「指先」が自分!?と思っているかもしれないけれど、ほんとうの自分とは実は掌全体というよりも、からだ全体さらにはそれよりももっと大きい(からだの外に広がっている)無限の空間(宇宙)とも連なって「分ち難く存在している」ものなのかもしれません。
科学的知識に弱く言葉ではうまく説明出来ませんが、大概の人がかなり自分を「過少評価」しがちであり、それはたぶん自分というものの「認識範囲が狭い」せいで、そのために孤独を感じたり、「孤立感」を抱きがちなのではないでしょうか。
けれども人は決して永遠に切り離された(分けられた)別個の存在では無く、いろんなもの全てと分ち難く結びついて存在しているとしたら、別れも(分かれも)一時的なもの(そう見えるだけ)なのかもしれません。
私の好きな川柳にこういう句があります。
(『 徳永政二フォト句集 1 カーブ 』より引用 )
悲しみはつながっているカーブする 徳永 政二
前回の「フィードバック」の一文を通して私がお伝えしたかったこともそういうことです。
ところで、ある方がさっそくにメールで近況を知らせてくださいました。
ありがとうございます!!
(とてもいいご報告でしたので、またいつか機会があればブログでもぜひご紹介させていただきたいと思っています)
下記はアズミックアートの宇宙画『メディテーション』です。