日本と中国の真実に迫る!さんより http://ameblo.jp/anti-ccp/entry-12104694007.html
何があったのか?1942年の『ロサンゼルスの戦い』 2015年12月10日(木)
こんにちは。
長谷川です。
大東亜戦争の最中
『ロサンゼルスの戦い』と呼称された史実が
あったのをご存知でしょうか?
時代背景から、簡単に説明致します。
○大東亜戦争 ~米英に快進撃を続ける~
1941年12月に日本陸海軍によって行われたマレー作戦と、
それに続く日本海軍の航空母艦搭載機による真珠湾攻撃により始まった大東亜戦争。
日本軍はアジアおよび太平洋戦線において、
アメリカ軍やイギリス軍、オランダ軍やオーストラリア軍を
はじめとする連合国軍に対して連戦連勝を続けていました。
○米国のタンカーなど10隻以上を撃沈
さらに日本海軍は、太平洋のアメリカ沿岸地域に展開していた
潜水艦による通商破壊戦を実施し、アメリカ西海岸沿岸を航行中の
アメリカのタンカーや貨物船を10隻以上撃沈しました。
中にはカリフォルニア州沿岸の住宅街の沖わずか数キロにおいて、
日中多くの市民が見ている目前で貨物船を撃沈する他、
浮上して砲撃を行い撃沈するなど、開戦以来日本海軍の潜水艦による攻撃行動が
アメリカ及びカナダの太平洋岸地域で頻繁に行われていました。
○アメリカ本土計画を開始!
日本海軍は、アメリカおよびカナダ、メキシコの太平洋岸を中心とした
アメリカ本土攻撃を計画し、その一環として1942年2月23日に「伊号第一七潜水艦」により
カリフォルニア州サンタバーバラ郡のエルウッド石油製油所(リッチフィールド油田施設)への砲撃作戦を行いました。
砲撃による被害は少なかったものの、
これはアメリカにとっては1812年戦争以降初めて本土に受けた攻撃であり、警戒を呼び起こすことになったのです。
○ルーズベスト「日本軍の上陸を阻止せよ!」
これらの日本海軍艦艇による度重なるアメリカ本土への攻撃を受けて、当時のアメリカ政府上層部は
「日本海軍の空母を含む連合艦隊によるアメリカ本土空襲と、
それに続くアメリカ本土への上陸計画が、開戦直後から
1942年の初頭にかけて行われる可能性が非常に高い」と分析していました。
さらに陸軍上層部は
「大規模な日本軍の上陸とその成功は避けられない」として、
日本軍を上陸後ロッキー山脈で、
もしそれに失敗した場合は中西部のシカゴで阻止することを検討していました。
またサンフランシスコやロングビーチ、サンディエゴ等の
アメリカ西海岸沿岸の主要な港湾においては、
日本海軍機動部隊の襲来や陸軍部隊の上陸作戦の実行を恐れて、
陸海軍の主導で潜水艦の侵入を阻止する防潜網や機雷の敷設を行っていました。
その他の都市でも爆撃を恐れて防空壕を作り、
さらには防毒マスクの市民への配布や灯火管制、警察や市民による沿岸警備などを行っていた上に、
黄色人種である日本人と日系アメリカ人に対する
人種差別を背景にした日系人の強制収容まで行われていたのです。
○ロサンゼルスの戦い
2月25日の午前1時44分に、
ロサンゼルス市にある陸軍の防空レーダーが西方120マイルの地点に「日本軍機」と思われる飛行物体の飛来を感知しました。
この情報はただちに各方面に伝えられ、対空砲火の体制が整えられるとともに陸軍航空隊の迎撃機がスクランブル態勢に…。
その後飛来数は「25機」と報告され、
さらに午前3時過ぎにサンタモニカ上空で日本軍機と思われる、
時速約320キロで移動する赤く光る飛行物体が陸軍の兵士のみならず、多くの市民からも目視されたため、
陸軍第37沿岸砲兵旅団はこれを撃墜しようと対空射撃を開始しました。
ロサンゼルス市の沿岸部上空をサーチライトで
照らされながら飛来する飛行物体に対して、
陸軍第37沿岸砲兵旅団は午前4時過ぎまでの間に
約1430発の高射砲を発射したものの、
飛行物体には命中せず。
さらに陸軍航空隊のカーチスP-40戦闘機などが迎撃を
行ったものの飛行物体の迎撃に失敗。
その後も飛行物体はサンタモニカとロングビーチを結ぶ
太平洋沿岸地帯を約20分間にわたり飛行し、
その後目視からもレーダーからも消えてしまいました。
ロサンゼルスというアメリカ有数の大都市圏への突然の
「日本軍機の空襲」と、それに対する対空砲火の応酬はロサンゼルス市民に大きな混乱を招き、
即座にCBSなど全国ネットのラジオ局でこの光景が中継されました。
さらに、多くの市民によって
「どこからともなく現れた小型の物体が空いっぱいを
ジグザグに飛び回って、突然姿を消した」
「正確な数は把握できなかったが、
30機から40機の飛行物体が高速で飛び回り、
交差したり追いかけっこをしたりしていた」
などの詳細な目撃談も報告されたほか、
サーチライトに照らされた飛行物体の写真も多数撮影されました。
また翌日の地元紙には「4機が撃墜された」と報じられ、
ハリウッドの中心地への「日本軍機の墜落」を伝える通報すらあったのです。
これが「ロサンゼルスの戦い」の全貌です。
さてアメリカ軍上層部はこの戦いをどう捉えたのでしょうか?
○本当に航空機が飛来したのか!?
2月25日の午後、フランクリン・ノックス海軍長官が、
「日本海軍機と思われる飛行物体の飛来とその後の警報は誤報であり、攻撃も確認されていない」と発表しました。
しかしこれに対し、ヘンリー・スティムソン陸軍長官は26日に会見し
「ロサンゼルス市上空で、1時間にわたって15機の航空機が
9000フィートから18000フィートの高度を上昇と下降を繰り返していたことを確認している」と反論
ジョージ・C・マーシャル陸軍参謀総長は、、
「15機に上る航空機の飛来が確認されたものの、空襲などの攻撃による被害がなかったことから、
日本軍が(アメリカ西海岸地域の)対空砲の位置を暴くとともに、
灯火管制を敷かせることで生産性を低めるために偵察機を飛ばしたと推測する」との
自らの意見を述べるなど、陸海軍間で対立が見られました。
国防総省はこの事件の記録があることを長年否定し続けたが、
情報公開法によりこの情報が初めて日の目を見たのです。
○1942年2月26日付 情報公開法 マーシャル陸軍参謀総長の覚書
ロサンゼルス上空の未確認飛行物体事件を大統領へ伝える機密文書(陸軍総司令部よりの情報)
1.未確認の航空機は、合衆国陸軍または海軍のものではない。
おそらくロサンゼルス上空を飛行したものとみられ、
第37沿岸砲兵旅団(対空砲兵中隊)の複数の小隊が、
午前3時12分から4時15分までの間砲撃した。
これらの部隊は1430発の弾薬を使用した。
2.関係した未確認航空機は15機に及ぶらしく、
公式の報告書によれば「非常に遅い速度から
時速200マイル(約322Km/h)に至るさまざまな速度で、
9000-18000フィート(約2743m-5486m)に及ぶ高度で飛行した。
3.爆弾はまったく落とされなかった。
4.わが軍の戦闘犠牲者はなし。
5.これらの未確認航空機は1機も撃墜されなかった。
6.当時活動中のアメリカの陸・海軍航空機はなかった。
飛行物体からの攻撃行為はなかったものの、
ロサンゼルス市内には陸軍が迎撃のために発射した対空砲火の破片が多数散乱し、
破片により地上では住宅や自動車が被害を受けただけでなく、3人が破片にあたり死亡した。
さらに突然の「日本軍機襲来」と対空砲火に驚いた市民3人が、
心臓麻痺で亡くなりました。
○その後の日本軍によるアメリカ本土攻撃
1942年9月には日本海軍の巡潜乙型潜水艦「伊25」に搭載されている零式小型水上偵察機が、
2度にわたり隣の州であるオレゴン州へ空襲を行いました。
さらに上記のエルウッド石油製油所への砲撃以降、
同年の6月20日には伊17と同じ乙型潜水艦の「伊26」が、
カナダ、バンクーバー島太平洋岸にあるカナダ軍の無線羅針局を14センチ砲で砲撃しました。
翌21日にオレゴン州アストリア市のフォート・スティーブンス陸軍基地へ伊25が
砲撃を行いました。これは、アメリカ本土にある同国軍基地への攻撃としては米英戦争以来でした。
日本海軍機は同月にはアラスカ州のダッチハーバーにある
アメリカ海軍基地に対する空襲も行い大きな被害を与えました。
これらの日本海軍艦船および航空機による
一連のアメリカ本土への攻撃作戦に対して、
当時各地で日本軍に対し敗北に次ぐ敗北を重ね、
艦船や航空機を喪失し弱体化していたアメリカ陸海軍は何ら効果的な反撃をすることができませんでした。
○●○●○●○●○●
私は、1942年に起きた
この『謎の飛行物体との戦い』を知ったとき
「さて、アメリカのフロンティアスピリットとは何だったのだろうか」
と思ってしまいました。
学校教育などで教えられる
先の大戦におけるアメリカ軍の戦意は
「とにかく強い」「日本軍に劣らない」などです。
しかし、米国は、大戦中盤以降、強大な物量によって
その強さをなし得たのであって、さてその精神は本当に強かったのだろうか…と懐疑的にならざるを得ないのです。
未確認の飛行物体に対して、それを日本軍だと思い込み
「1400を超える砲弾まで使う」、という心理に焦りを感じます。
アメリカは、諸島攻撃など突入部隊に黒人を使ったとも言われています。
ここにも精神面での弱さ、脆さを感じざるを得ません。
最後にひとつ映画をご紹介いたします。
この「ロサンゼルスの戦い」を題材にして
近年、アメリカで制作された映画がこれです。
【映画】『世界侵略:ロサンゼルス決戦』海外版予告編2(字幕)高画質