鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

大物忌神社蕨岡口の宮

2020年02月29日 | 鳥海山
 蕨岡の大物忌神社は、明治の神仏分離令が発せられるまでは栄えたところでした。吹浦の大物忌神社との紛争は各種の書に詳しく載っています。
 この随身門をくぐり抜けた左方に拝殿はあります。
 今日は雪が降ったため、参道を除雪している方がいらっしゃいましたが、顔を見ると、なんとかつて鳥海山頂で管理人をしていた山本坊のご主人。アララギ派歌人の鳥海昭子さんの身内の方です。何十年ぶりかに会うことができ、大物忌神社に関する様々なことを聞くことが出来ました。
 この拝殿は昭和二十八年までは、随身門の左方ではなく、随身門をくぐって直進した方にありました。

 雪の石段が見えますが、その上にさらに続いているのがわかります。その上に拝殿はありました。現在の拝殿は、それを昭和二十八年に解体して下の方にそのまま移設したものです。上にあった時は本殿の扉の向こうがまっすぐ鳥海山頂だったそうです。なぜ移設したかと言えば、そのころの拝殿屋根は檜皮葺き(ひわだぶき)で風にやられ一、二年しか持たず、建物も度々修繕する必要があったため下方に移設したのだそうです。
 拝殿の中には三つの扁額が掲げられています。向かって一番左が勝海州の書。雄渾な文字で書かれています。残念ながらピンボケで載せることが出来ません。正面と右にある二つの扁額が下の写真です。
 写真左は拝殿正面の扁額。熾仁親王書と書いてあります。明治の皇族有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう )の書ですね。熾仁親王を知らなくとも、皇女和宮親子内親王が本来嫁ぐはずだった人と言えばおわかりでしょう。
 右側の扁額には鳥海山大権現と書いてあります。鳥海山大物忌神社の扁額は吹浦大物忌神社にもありますが、鳥海山大権現の扁額は蕨岡にしかないのだそうです。しかも、この鳥海山大権現の扁額は、神仏分離令の発せられる前までは、中央に掲げられていたのだそうです。下の全体写真をご覧ください。
 額の周囲に黄金の龍が飾られています。こちらが正面に飾られていたというのも理解できます。庄内藩酒井の殿様の寄贈になるものだそうです。鳥海山の信仰の歴史を紐解くのは面白いですよ。
 拝殿を出ると、すぐに見えるのが荘照居成神社 です。
 昭和のころまで矢部駿河守 が祀られていることは隠されていましたが、祠の中から出てきた文書で公にされたのだそうです。なぜ隠されていたかと言えば、矢部駿河守は天保の三方領地替え から庄内を守り、それが当時の老中水野忠邦の忌諱にふれ、腹心の鳥居輝蔵の陰謀で江戸南町奉行を罷免となり、罪人として桑名藩へ預けられ、子は改易させられた、当時の公では罪人とされていたのですからおおっぴらに祀ることはできなかったわけです。毎年荘照居成祭が催され、その時には桑名からもお客様が来るという事でした。

 今日は、久しぶりの方に思いがけず会うことが出来、いろいろなお話を伺うことが出来ました。これも雪が降り、除雪していなければ会うことが出来なかったのですから、偶然とそこに至る必然の妙には驚くばかりです。

追記:横堂の話をしていた時、スマホにとってある昔の横堂の写真をご覧に入れたら、自分も横堂に堂守としていたことがある、という話から昔横堂から赤瀧神社に綱をつたって降る話、その時ソブの上を歩くので足袋の底が赤く染まること、足袋の底がが赤くなっていなければ赤瀧神社に行った証拠にならなかったという話も伺いました。ソブというのは鉄分を含んだ赤い土のことをいうのだそうです。ソブ谷地の地名はそこから来たのですね。

遊佐龍頭寺の仁王像

2020年02月28日 | 鳥海山
 修復なった遊佐龍頭寺の仁王像を拝観に行ってきました。
 阿吽、全体像は、
 龍頭寺の本堂は下の写真です。
 雪のため簾で囲われていますが、仁王様はこの簾の内側に飾られています。明治の神仏分離令、修験道廃止令で それまで隣にある蕨岡大物忌神社の仁王門に飾られていたものが廃棄を免れるため龍頭寺に移されました。移さなかったら今頃は焚き付けになるか海外へ持っていかれていたことでしょう。蕨岡の信徒の方々の必死さが伝わる話です。
 こちらが蕨岡大物忌神社の仁王門です。神仏分離令で仁王像が龍頭寺に移されたのち、随身門という名前に変わりました。この随身門をくぐり抜け、蕨岡大物忌神社の拝殿に行ったところ、おもいがけないひとに会いました。その話は次回に続きます。

とりあえず鳥海山の植物総集編

2020年02月27日 | 鳥海山
 今までの鳥海山でみた植物を一覧にしてみました。
  一部リンク切れ修正しました(稚児車の項)。
 番号をクリックすると、その植物のページが表示されます。
 これで鳥海山で見られる植物の約半分です。植物の順番は思いつくままですし、撮影場所もほとんど書いてありませんのであしからず。また、植物の名前はカタカナで書くというのが標準とされていますが、先人の植物につけた名前への思いを表すため、またその名前の由来を示すという意味からも漢字で表記しています。
   (無料プランで作っているのでCSSも使えず、HTMLタグの属性も複数使用できないので見にくい表となっています。)
番号 植物の名前 読み方 科 目
その1
毛氈苔
モウセンゴケ モウセンゴケ科
その2 青の栂桜 アオノツガザクラ ツツジ科
その3
白玉の木
シラタマノキ
ツツジ科
その4
深山薄雪草
ミヤマウスユキソウ
キク科
その5
白山一華
ハクサンイチゲ
キンポウゲ科
その6
深山川芎
ミヤマセンキュウ
セリ科
その7
山母子
ヤマハハコ
キク科
その8
黒臼子
クロウスゴ
ツツジ科
その9
岩梅
イワウメ
イワウメ科
その10
小岩鏡
コイワカガミ
イワウメ科
その11
鳥海衾
チョウカイフスマ
ナデシコ科
その12
岩袋
イワブクロ
ゴマノハグサ科
その13
白山風露
ハクサンフウロ
フウロソウ科
その14
深山金鳳花
ミヤマキンポウゲ
キンポウゲ科
その15
栂桜
ツガザクラ ツツジ科
その16
深山金梅
ミヤマキンバイ
バラ科
その17
小梅蕙草
コバイケイソウ
ユリ科
その18
高嶺青柳草
タカネアオヤギソウ
ユリ科
その19
鳥海薊
チョウカイアザミ
キク科
その20
羽後薊
ウゴアザミ
キク科
その21
奥北薊
オクキタアザミ
キク科
その22
唐松草
カラマツソウ
キンポウゲ科
その23
七竈
ナナカマド
バラ科
その24
岩銀杏
イワイチョウ
ミツガシワ科
その25
深山竜胆
ミヤマリンドウ
リンドウ科
その26
味噌川草
ミソガワソウ
シソ科
その27
檜扇菖蒲
ヒオウギアヤメ
アヤメ科
その28
岩桔梗
イワギキョウ
キキョウ科
その29
御山竜胆
オヤマリンドウ
リンドウ科
その30
岳樺
ダケカンバ
カバノキ科
その31
峠蕗
トウゲブキ
キク科
その32
岩黄櫨
イワハゼ
ツツジ科
その33
白山千鳥
ハクサンチドリ
ラン科
その34
細葉岩弁慶
ホソバイワベンケイ
ベンケイソウ科
その35
山毛欅
ブナ
ブナ科
その36
丸葉万作
マルバマンサク
マンサク科
その37
白山石楠花
ハクサンシャクナゲ
ツツジ科
その38
四葉塩竈
ヨツバシオガマ
ゴマノハグサ 科
その39
白山沙参
ハクサンシャジン
キキョウ科
その40
一人静
ヒトリシズカ
センリョウ科
その41
日光黄菅
ニッコウキスゲ ユリ科
その42
御蓼
オンタデ タデ科
その43
深山猪独活
ミヤマシシウド
セリ科
その44
深山当帰
ミヤマトウキ
セリ科
その45
白根人参
シラネニンジン
セリ科
その46
兎菊
ウサギギク
キク科
その47
梅鉢草
ウメバチソウ
ユキノシタ科
その48
裏白瓔珞
ウラジロヨウラク ツツジ科
その49
深山穂躑躅
ミヤマホツツジ
ツツジ科
その50
立金花
リュウキンカ
キンポウゲ科
その51
水芭蕉
ミズバショウ
サトイモ科
その52
深山大文字草
ミヤマダイモンジソウ
ユキノシタ科
その53
小葉擬宝珠
コバギボウシ キジカクシ科
その54
喘息薬種
ズダヤクシュ ユキノシタ科
その55
雛桜
ヒナザクラ
サクラソウ科
その56
深山秋の麒麟草
ミヤマアキノキリンソウ キク科
その57
深山蛇の寝御座
ミヤマヘビノネゴザ
オシダ科
その58
黄花の駒の爪
キバナノコマノツメ
スミレ科
その59
越路黄蓮
コシジオウレン
キンポウゲ科
その60
田虫葉
タムシバ
モクレン科
その61
紫八染躑躅
ムラサキヤシオツツジ
ツツジ科
その62
蕗の薹
フキノトウ
キク科
その63
白花唐打草
シロバナトウウチソウ
バラ科
その64
深山榛の木
ミヤマハンノキ
カバノキ科
その65
幌向菅
ホロムイスゲ
カヤツリグサ科
その66
猫柳
ネコヤナギ
ヤナギ科
その67-1
稚児車 花
チングルマ ハナ バラ科
その67-2
稚児車 花穂
チングルマ カホ バラ科
その67-3
稚児車 紅葉
チングルマ コウヨウ バラ科

イカ釣り船

2020年02月26日 | 兎糞録
 最近、烏賊が高くて頻繁に食卓に上ることはなくなりました。
 二月なのですが、港にはイカ釣り船が係留してありました。小学校一年生まで遊び場にしていた風景ですので今も時々散歩に行きます。子供のころ、イカ素麺と言えば、子供の分際で一人前が丼一杯でした。大人になってから、イカ刺、イカ素麺が小皿、小鉢にちょっぴなのは情けなく思ったものでした。もっとも、その頃家族が、漁師さんの所を借りて住んでいたからでしょうけど。夜のイカ釣り船にもついていきましたし、魚は飛び切りの鮮度いいものばかり食べてました。ほんとに今は海が近くにありながら自分から見て、鮮度のいい魚介類を見るのは稀です。
 夏に、鳥海山から見る日本海に浮かぶイカ釣り船の夜景は趣があります。
 ウミネコも近くで見ると凶悪そうな眼付きです。
 港沿いに車を走らせると、崩れ落ちる一歩手前の倉庫が。
 この隣の倉庫にはまだ荷物が置かれていて、どうやら現役で活躍している様子。
 さすがにこれは現役ではないですね。でも、こういった風景、大好きです。
 そうそう、以前、この一角の工場に勤めていた山仲間のHさんは、夜勤の巡回中、倉庫の吊り扉を引いたところ、吊り金具が腐っていたのか倒れてきて下敷きになり長いこと入院したそうです。その扉100㎏もあったそうですから。よく発見されて助かったものです。そのHさんもすでに故人、かつて山を共にした人も次々に鬼籍に入り、一番最初に入りそうだった自分が未だ生きながらえています。


人生二軒めのジャズ喫茶

2020年02月25日 | Jazz
 地元にもジャズ喫茶らしきものはありました。学校帰りに、学生服の詰襟を内側に折って隠し、上からコートを羽織って高校生なのをバレないつもりで一丁前にタバコなんぞふかしたりして。
 カウンターだけの細長い店で、当時小遣いでは買えないLPをいろいろ聴けるのは嬉しかったです。カウンターの中にはいつもお姉さん?が二人。他でも書きましたが、やってくる客も通ぶって、
 「ママ、コルトレーンのクルセママかけてくれ。」
 「ごめんなさい、くるったママならいますが、クルセママはありません。」
 またある日、
 「おい、音うるさいからレコード止めてくれ。」
 「すみません、うち、一応ジャズ喫茶なものですから。」
 と、こういったお店でした。

 東京で、本格的ジャズ喫茶に通うようになったのですが、人生二軒めのジャズ喫茶、渋谷百軒店で場所も、店の入り口も記憶にあったのですが、店名だけがどうしても思い出せませんでした。
 ありました、それが。しかも当時の地図までネット上で見つけることが出来ました。
(渋谷百軒店商店街HP管理チーム  渋谷百軒店コラムより拝借しました。)
 右隅の方、スウングと見える店がそれです。前にはブラックホーク、ありんこ、音楽館と、当時のジャズ、ロック好きの人なら聞いたことがある店が並んでいます。地図の上の方、右に見える百軒店入り口を左にまっすぐ行ったところにはBYGの名前もみえます。BYGというのは、当時できたBYGというレーベルにちなんでつけたのでしょうか。
 スイングというジャズ喫茶は今も別の場所で営業しているようですが、その辺は詳しいことはWEB上でいくつか見つかります。2007年に出版された渋谷百軒店 ブラック・ホーク伝説というムックにそのころの話が出ています。

 見覚えのある風景です。この向いがスウングです、閉店間際になるとTAKE5をかけた。ただ、この雑誌、現在は高値がついていて手が出ませんが、googleで検索すると、今のところ、PDFファイルで一部中身を閲覧することが出来ます。

 東京へ出たのも、早い時期にパソコンを買ったのも、ジャズを聴きたい、動画を見たいという不純な?動機ではありました。