鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

鳥海山の珍しい写真

2020年10月30日 | 鳥海山

 鳥海山には春夏秋冬千回以上登ってきた大先輩より貴重な写真が送られてきました。清吉新道をつくった斎藤清吉さんとも一緒に登ったくらいの方なのでその鳥海山好きの度合いは推して知るべし。

 これはどこでしょう。はい、これは11月初め清吉新道の南物見から弦巻池(鶴間池)を覗き見た写真です。大先輩おっしゃる通り森林限界の山毛欅の木は異様なほど曲がりくねっています。

 ※鶴間池は古絵図を見るとすべて弦巻池と記されています。上方から眺めた場合、現在の大鶴間と小鶴間の水路で繋がった様子が弓弦ゆずるを巻くように見えるというのが由来のようです。古人いにしえびとの感覚のほうが後世の人よりずっといいですね。観音森もかつては桑の森と呼ばれたということなので、名称というのは何か見て調子のいいようなものに変えるのは何も今に始まったことではないようです。結果、名称、呼称は地名、町名すべて悪くなっています。満足しているのは悪名をつけた人と何も考え感じない人ばかり。

 清吉新道にとりつく動画は YouTube にありましたがまともな清吉新道に関する写真を見たのはこれが初めてです。いや、ほかにあればもっとみたいです。

 竜ヶ原湿原に木道ができる以前の様子です。竜ヶ原湿原というより湧き出る水も見受けられず竜ヶ原で湿原の文字はつかないように思えます。この木道ができる前の写真は一度だけ見たことがあります。カラーで見るのは初めてです。昭和40年代初めの写真ではないかと思います。このころの竜ヶ原湿原の様子は康さんの鳥海山日記に載っていました。

(秋田書房刊「康さんの鳥海山日記」より「10月の竜ガ原」奥村清明氏 撮影 竜ヶ原湿原とはなっていませんね。)

 左方の草鞋森も今と同じです。草鞋森というのは祓川が下界と神聖な神の区域の境であり、ここで草鞋を履きかえ下界の汚れたものを山に持ち込まないためにそれを捨てたためにできた草鞋塚であるといわれています。登拝者は竜ヶ原の先にある祓川神社の前の冷泉で身を清め、祓川神社に祈願してからお山に登りました。このころ祓川神社も大きく、宿舎も備わっていました。そのころの様子は「村上浅吉ドドが残した祓川神社日誌」鳥海山祓川神社の会(祓川神社顕彰保存会)発行で詳しく知ることができます。

 ついでながら、このころの人の残した記録はいいですね。自分を文人、芸術家、美術家気取りで誇大妄想的にものを書くことは一切ないです。淡々と記し、それでいながら時折ふっと現れる気持ちの表現、それがたとえ大勢の人がいても静かなる鳥海山の風景に深く重く染み込んできます。

 これは木道新設当時の竜ヶ原湿原です。これも大先輩から送られてきた写真です。関係者に確認しないと明言はできませんが現在の木道はおそらく三代目ではないでしょうか。現在の溝の彫り込まれた木道はおそらく平成28年(2016)にかけ替えられたもの、その前の溝の無い木道、平成27年(2015)までの、は記憶にありますし、写真も持っています。これはそれよりもう一つ前ではないかと思います。

 写真も熟成させた方が良い、とはだれの言でしたか。確かに写真は撮影して即人前に出すよりも長い間保存しておいて時折取り出して眺め、ようやくこれなら人様の目に触れさせてもよい、と思えるまで置いておいた方がいいようです。Beaujolais nouveauの物珍しさもあるでしょうけれど熟成されたものの旨さにはかなわないのは写真も同じです。それと一回の山行で何百枚撮影しても、これはっ、という写真が撮れていたということはまずないですね。ふとしたはずみでシャッターを押したときのほうが後々記憶を強烈に呼び覚ます写真であることのほうが多いようです。プロは違うでしょうけれど。


奥山林道・手代林道はもう百宅まで行くことが出来ないようです

2020年10月29日 | 鳥海山

 日中は晴れていたのに、天気予報は下り坂の時はよく当たります。夜は雨、Yahooはいつも豪雨警報が出ます。

 同行の仲間が皆亡くなって長いこと奥山林道・手代林道経由で百宅まで行っていたのですが、調べてみると現在は通行不能のようです。酒田市のHPでも通行不能の旨掲示してありました。山は自然に帰してあげるのが一番いいですね。とはいっても一時景色は十分に堪能させていただきました。古い写真ばかりですが、今は通行できない林道からの景色です。

 これはまだ早い時期。

 秋は見事な景色が続きます。ただし、獣臭も場所により凄まじいです。

 これは以前も載せた赤沢。鳥海山にはこういった鉄分で赤く染まった地形が何か所かあるようです。ソブ谷地、大澤神社のあるあたりは有名ですね。これはソブ谷地とは全く反対の方向です。鉱脈がどこかつながっているのでしょうか。

 紅葉の良い年は真っ赤に染まります。

 七竈も焼けつくします。

 

 今日は天気が良かったけれど出かけられなくて、またしても古い写真を引っ張り出してきました。


昭和11年の鳥海山絵葉書

2020年10月27日 | 鳥海山

 登拝紀念の消印と表面(宛名を書く方)の書式から昭和11年ころ発行された絵葉書であると考えます。紀念と記念は同じですが昔は紀念と書いたようです。

 蕨岡の大物忌神社もこのころは窓も開いていて神職の方が常駐していたようです。(昭和五十六年の三月頃まで神職の方が常駐していたそうです。)戦前は社格制度があったため、國幣中社と書かれた柱が立っているのが見えます。社格制度に興味ある方はお調べください。國幣社のほかにあるのは官幣社です。明治神宮は官幣大社でした。

 こちらは吹浦の大物忌神社。どちらも今と変わっていませんね。悠久の時を感じます。

 左は大澤神社霊瀑とありますが赤瀧です。瀧そのものがご神体で弘法大師空海が開いた秘所、鳥海山奥の院とされていました。横堂から降りたところですが、今では行く人もいないようです。右は新山の切通し、こちらは現在も多くの人が通ります。

 鳥海湖ですが、噴火口跡とちゃんと書かれています。今も大物忌神社の境内地・神域です。ここで泳ごうとする不心得者もいるようです。鳥海山に登る方は地元の人にとって今なお神様の山であるということを忘れないようお願いします。

 


脳梗塞

2020年10月24日 | 兎糞録

 前回、脳梗塞の話になりましたが、皆さんの参考になればと思い、記しておきます。

 自分が脳梗塞になったのは今から十年も前のことなのですが、思えば前兆はありました。

 とにかく、頭痛はいつもありました。脳みその中に鉛の塊を入れられたような重苦しさとズキズキする痛みです。額の中、後頭部と時によって痛みは変わります。仕事のストレスからくるただの頭痛だろうと思い、バッファリンなどの頭痛薬はいつも飲んでいました。実際、仕事のストレスから不規則な生活を送っていたことも大きな原因なのでしょう。それと、こういう病は遺伝もあるようです。父親は血栓で入院、拡張型心筋症で亡くなっています。去年は遠方にいる息子が拡張型心筋症で倒れました。祖父も将棋を指している最中、脳卒中で亡くなったそうです。また、子供たちも一様に血圧が高いようです。本人は現在、薬を常用しているおかげでしょうけれど血圧は今のところ正常です。

 とはいえ、二、三年前も不整脈、心房細動で循環器内科のお世話になりましたが。山へ殆どいけないのもそういったわけですが。

 酒と煙草はしょっちゅうでしたね。酒は現在、焼酎のみ、タバコはきっぱりと止めました。タバコをやめてもお金はたまりませんけれど。あのころは仕事に行くのも気が重く、家へ帰るのも嫌、酒を浴びるほど飲むしかない、という悪循環だったと思います。仕事のほうは当時、かなり改善されてきたのですけれど、酒とタバコは体にしみついてしまい改善されないままでした。

 頭痛は相変わらず続いていましたが、時々喋っていて呂律の回らなくなることが何度かあったのです。思えばそれは血管が一時的に詰まったのでしょうね。職場も変わり、毎日汗をかいて仕事をしていたある日、夕方家に帰って何か喋ろうとしたらうまく口がきけないのです。口の中で舌がレロレロラロラロといった状態でまともに喋ることができないのです。

 まさか、そんな重症とは本人は思っていません。たっぷり汗をかいてきたものだからとりあえず風呂、今考えれば、なのですけれど。まさか脳梗塞だとは思いもしません。風呂出てパンツはこうと思ったらうまく片足が通せません、あれっ、あれっと思いながらなんとかパンツをはき、シャツを着て食事ものどを通らずそのまま横になりました。そのうち家族が心配してこれは異常だ、救急に行かなければ、ということで明け方救急に行きました。幸いその日の当直が脳神経外科のお医者さんだったのです。

 「はい、両手を前に水平に出してください。」

 両手を前に出すことはできましたが、右腕が自然に下がってきます。

 「脳梗塞ですね、すぐ入院です。」

 前には泣き叫ぶ赤ちゃんがいましたけれど、お医者さんは、「この患者さんが急を要します。」ということで即座に病棟へ。頭を切り開くのかと思ったのですが、脳梗塞は薬で血栓を溶かすのですね。二週間も入院したでしょうか。入院中、やたら食欲だけはあったのを覚えています。

 仕事には一か月ほどで復帰しましたが、退院してからも右手でものをつかみ、持つのはしばらく不自由でした。リハビリには結構長い間通いました。今は右手も自由にうごきますが、歩いていて普通の人は左右の腕が前後に振れます、自分の場合は意識しないと右手が振れません。そのせいもあるのか、体が傾いているとはよく言われます。でもこれは脳梗塞の後遺症であるかどうかはわかりません。

 

 現在、循環器内科には隔月で通い、血圧を下げる薬、血栓を出来難くする薬などを毎日飲んでいます。これは一生続くでしょう。退院後、頭痛は一切なくなりました。でも精密検査すれば病気は数えきれないほど見つかるのでしょうね。

 頭痛のする人、たまに呂律の回らなくなることがある人は一度MRI検査を受診することをお勧めします。かつて脳梗塞が本人が気づかなくてもあった形跡もMRI検査を受診すればすぐにわかります。身内にそう言った病歴がいないから俺は大丈夫だと思っているあなた、あなたが初代なのかもしれませんよ。山で心臓おさえてうずくまっている人を見たことがありますが、そうはなりたくないし、そうやって人に迷惑もかけたくないですよね。


Keith Jarrett 復帰ほぼ不可能

2020年10月23日 | Jazz

 先日、Gary Peacoc が亡くなったと思ったら昨日のニュースで Keith Jarrett が脳卒中で 復帰はほぼ不可能と報じられました。

 当時、ジャズ喫茶ではどこへ行っても毎晩、何度も何度もこのアルバムがターンテーブルにのせられました。今まで耳にしたジャズとは全く違うものでした。

 このころは黒いジャケットがヒットしました。

 Dollar Brand/Afurican Piano、Kenny Drew/Duo このころのジャズ者でこのアルバムを聴かなかった人はいないでしょう。もちろん、今聴いてもこれらのアルバムに古さを感じることはありません。

 Keith Jarrett 、こんなソロアルバムもありました。長すぎてとても一度では聴くことができませんが、LAUSANNE でのコンサートのソロは今も耳に残っています。

 Trioのアルバムで一番よく聴くのはStandards ではなくて、こちらです。Standards Trio とドラムスは違いますがこのアルバム、いいですよ。

 自分も脳梗塞を患ったので、手の思い通りに動かないのはわかります。幸い自分はほぼ回復したのですけれど、Keith Jarrett は2018年に二度の脳卒中で演奏できない、それが2020年の現在発表されたということはよほどのことがない限り再起は無理でしょう。新しい演奏を耳にするのは残念ながら期待できそうもありません。

 でも、何とか復帰した本田竹広の例もあります。今後に期待しましょう。

 

 本田竹広の最後のアルバム、 My Piano My Life 05 論ずることは不要です。ただ感ずるのみ。