鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

新宿 Pit Inn

2020年01月31日 | Jazz
 いつ頃のものでしょうか。ピット・インに行ったときに購入したステッカーです。
 十代のころ、朝の部をよく聴きに行きました。朝の部というのは、午前11時から午後2時まで、新人の場です。初めて行った時ステージではホーン二管の演奏だったでしょうか、ステージから客席に来ていた楽器を持っていた仲間らしき人に声をかけると、その人もステージに上がると演奏が始まりました。Herbie HancockのTell Me a Bed Time Story。
 Herbie Hancockはいい曲書きますよね。亡くなったピアニストの辛島文雄さんと飲んだ時も辛島さんは、「Herbieはいい曲書くよなあ。」と言っていました。ほかにもChan's Song これは最高にきれいな曲です。Dexter Gordon 主演の映画 'Round Midnight のなかでも何度か演奏されます。

 ピット・インのライブは当時朝の部の後は昼の部、夜の部と続くのですが遅い時間になるほど名の知られたグループが演奏します。落語の寄席と同じですね。ナベサダ、ヒノテルは夜の部でないと聴くことはできません。
 そのピット・インの左隣だったでしょうか、たしかサムライというジャズ喫茶があって、ピット・インのライブを聴く金のない連中はそこの店で壁越しにピット・インのライブを聴いていたそうです。
 ちなみに、夜の部の料金ですが、当時のピット・インのライブ・スケジュール表をお持ちの方のHPを見ると、1974年12月24日 SADAO WATANAPITT at PITT INN が録音された日のステージは2,800円となっていました。秋吉敏子グループで2,500円、それ以外の日本人グループはずっと安かったようです、本田竹曠グループでさえ1,500円でした。とは言っても当時の貧乏学生にとっては何度も聴きに行ける金額でなかったのは確かです。
 
 この日の演奏です。LPもCDも発売即購入しましたが現在は廃盤、特にCDはこれだけ何故か再発されず、かなりの高値で出回っています。版権の問題なのでしょうか。
 何年ごろのマッチでしょうか。

 数年前、新宿紀伊国屋の裏通りを通った時、ここにたしかピイト・インがあったなあと思う所を通りました。ここを右に行くとすぐに突き当り数メートル行くと右折、ちょいと歩くとDUGの看板が出ていて地下への階段が見えました。そこから少し行くと紀伊國屋書店の裏口です。
 その時は、ピット・イン・ミュージックという表示が出ていましたが現在もそこで営業しているようです。すぐ近くのDUGのあった場所は面影もなく、たしかここだったかなあ、という程度でしかわかりませんでした。

高円寺 サン・ジェルマン

2020年01月30日 | Jazz
 高円寺エトワール通りにあったジャズ喫茶です。
 間口は狭く奥行きの長い、それこそ鰻の寝床というのがぴったりのジャズ喫茶。
 坊主頭のいかついマスターとすらり背が高く、長い髪のお姉さんがいました。店内はかなりうす暗く、文庫本の文字を読むのがやっとというくらい。
 いつもターンテーブルにのっていたのは、そのころのジャズ喫茶ではかなりの頻度でかけられていたこれ、
 ダラー・ブランドのアフリカン・ピアノとキース・ジャレットのフェイシング・ユー。
 どちらもピアノのソロで暗いジャズ喫茶にはよく似合っていました。スイングは全くしない、でもジャズだという事は感じられる、そういう音でした。ほかによく鳴らされていたのは、
 ケニー・ドリューとペデルセンのデュオ、Hush-a-Byeという曲はこのアルバムで一躍有名となりました。それと前に紹介したクリフ・ジョーダンのイン・ザ・ワールドです。
 これがターンテーブルにのると、マスターがそばに寄って来て「あなたの好きなやつかけましたよ。」と側に来て言っていくのでした。ボビー・ジャスパーいいですよね。
 ある夜は懐具合が良かったのでなんの酒だったか、何杯もお替りしてほろ酔い気分で会計に行ったところ、マスターがにこりとして「今日は売り上げに協力してもらってありがとうね。」と言ったのを昨日のことのように覚えています。
 マスター、近年ホームページやっているのも見かけましたし、「B級ジャズ名盤迷路101」という本に寄稿しているのも見かけました。

 高円寺には他にもまだあったようですが、よく行ったのはもう一軒 HOT HOUSE というジャズ喫茶。駅のすぐ近く、
 ここはaltec A7がドスンと置かれていて抜けるような音を出していました。
HOT HOUSE といえばこのA7のイメージが浮かびます。初めて行った時は確か、チャーリー・パーカーのアルト・サックスが宙を舞っていたと思います。
(画像はAmazonより)

 地元にかつてあったジャズ喫茶でも開店の日に入ったらこのaltec A7でジャズをガンガン鳴らしていて毎日通う羽目になりました。自分では自宅のオーディオはたいして気にしていないし、住宅地なのでそんなに大きな音では聴けません。でも防音がしっかりした部屋があればこういった設備で大音量で聴きたいですね。

在りし日の河原宿小屋

2020年01月30日 | 鳥海山
 好きでしたね、河原宿小屋。廃止になって残念。滝の小屋を廃止してくれた方が良かったのに。

 夏には多くの人が訪れました。

 鳥海山の拝所もこうやってまた一つ消えてしまいました。閉鎖から長い年月が過ぎました。山小屋はヘリでの荷揚げもいずれ不可能になるでしょうし、荷揚げできたとしてもバカ高い運賃と日程的に荷揚げが計画通りに行かなくなることは予想されます。経営するのは経費的にも不可能になり、「ここに昔参籠所があったんだよ。」なんて語られるのもそう遠くはないでしょう。100年前に逆戻りです。その方がいいですけどね。

 そんな河原宿小屋での楽しい九月のある一夜。

 今夜の宴会の準備をしています。(河原宿小屋の台所)
 日本酒の紙パック、サントリー角瓶、それと缶ビール。ささやかなるガスランタン。コロナの対流型ストーブは暖によし、調理によし、万能です。
 何やら大風呂敷を広げているおじさんもいます。
 酒の肴は例によって発泡スチロールの皿の中。おっと、紅一点の方もいらっしゃいますね。天井の細引きにかけられたタオル、いかにも山の小屋です。あれっ、酒が足りなくなったのか一升瓶まで登場。ここにも山小屋独特の香りが漂ってきます。

初めてのジャズ喫茶

2020年01月29日 | Jazz
 先輩に連れられて初めて行ったジャズ喫茶がビルの四階にあるというのに雰囲気はアンダーグラウンド。入り口ドアの前にはビール箱が積み上げられ、今なら消防査察入ればすぐアウト。場所は池袋、たぶん今はない埼玉銀行そばのビルの四階。
 名前はジャズ・キッス。四階まではもちろん歩きです。なんとも妖しいマッチ箱。これよりもはるかに猥褻なデザインのマッチ箱もありました。

 ドアを開ければその瞬間、大音量のジャズが外に勢いよく暴れ出してきます。その瞬間にジャズ喫茶を体感しました。その時の印象は田舎出の十代の小僧には強烈でした。
 今でも自分の部屋でジャズを鳴らし、一旦外に出た後戸を開けてジャズが飛び出してくると当時のジャズ喫茶が甦ります。もっとも、部屋が変わって洋室から和室に追い出されたのでその感覚も半減してしまいましたが。

 ジャズ・キッスの店内は薄暗く、テーブルにつけば長髪、陰毛髭のお兄さんがオーダーをとりにきます。何が鳴っていたかは全く記憶にありません。ただ、暗く綺麗とは言えないせまいゴチャゴチャした店内と前回紹介した分厚いコーヒカップと不味いコーヒー、これでもかという音量で鳴るジャズ、これが東京最初のジャズ喫茶でした。


 ジャズ・キッスには姉妹店が池袋駅西口、池袋演芸場の近くだったと思いますがジャズ・ベッドという店でした。こちらも雰囲気は同じようなものでした。

 アヴァンギャルドなサックス奏者、阿部薫のライブ・アット・ジャズ・ベッドというこの店で行われたライブのアルバムも発売されたことがあります。
 この両店のオーナーは同じ方で、その後事件に巻き込まれ殺されてしまったという事です。ジャズ・キッスの事を調べたことがあり、その中の記事で見たことがあります。あまりにも店のイメージに重なり、驚いた覚えがあります。

 ところで、その頃先輩たちの話すのを聞いているとジャズメンの名前を言う時のイントネーション、誠に奇態なものでした。皆さん、Miles,Evans どう発音されますか?
 その先輩たちは、平坦なイントネーションでこれらの名前を言うのです。ライブアルバムでのアナウンスを聴けば、ルス デイビス、ビル バンス、とアクセントは頭にあります。しかしながら、その東京人たちは(生まれも育ちも東京の人、でも江戸っ子ではありません。)平坦なイントネーションで発音するのです。どちらかといえばマイス、エバンといった風に。そういうのが都会なのかとは思いましたが、これだけはどうしてもなじめませんでした。



 余談ながら、池袋といえば、隣の目白の駅スタンドでカレーを食べたのが初めての東京カレーデビュー。この時の驚きは icanplaythepiano さん の記事に投稿させていただきましたが、
 「東京へ出て初めて外でカレーを食べたのが目白の駅スタンドの立ち食いカレー。ご飯の上にルーをかけるのを見ていると、ご飯を素通りして皿へスーッとしみ込んでゆくのでした。目の前に出されたカレーのなかをスプーンで探しても具らしきものは無し。ご飯に辛い水をかけて食っているような気がしたことを何十年たった今も鮮明に覚えています。」 といったものです。

(これから具を取り去ったカレーを想像してください。)

 豚カツも東京で初めて食べたのは何故か目白の駅を出て道路を渡った今の三井住友銀行目白支店のそばの食堂。これまた肉が薄くてびっくり‼️紙カツの走りでしょうか。こんな薄いトンカツ、見たことも食ったこともないという代物でした。有名なキッチン南海のカリっと揚がったカレーによく合う薄めの豚カツよりも薄いカツでした。
(この豚カツは厚みがありそうです。)

 ついでに、東京ラーメンの初体験はその前年、高校時代東京へ遊びに行ったときに入った銀座のラーメン屋。出されたコップの水は白く濁り、出てきたラーメンは地元で食べるラーメンと異なり、麺に縮れもなく、具材はピンクの鳴門に海苔と法蓮草、申し訳程度にこれでもかと言うくらい薄く小さく切られた焼豚のようなもの、スープは醤油の色がついたぬるくて冷ます必要のないものでした。

 池袋の駅地下街だったでしょうか。立ち食いやらカウンターだけの飲食店がたくさん並んでいるコーナーがありました。懐の寂しい時はそこで食事を済ませましたが、そこで初めて食べたコロッケうどん、今までそんなもの食べたこともなかったのですが、目の前にある品書に興味を惹かれて注文したのですが、これは美味しかったですね。
 ジャズ喫茶のコーヒーってそのころ一杯いくらっだったでしょう。当時地元の喫茶店でブレンドが百円位、ストレートコーヒーでそれより少し高め、そうすると百五十円から百八十円位だったでしょうか。それに、上に書いたいろんな食べ物の値段も全く記憶にありません。昔のジャズ喫茶に関してはいろいろと書かれたものがありますが、その料金について書かれたものはないようです。記録しておけば時代の資料となったでしょう。

 短くまとめるつもりが今日も長くなってしまいました。次回は高円寺に戻ってみましょう。

 マッチの画像は猫仙人さんから引用させていただきました。

70年代のジャズ喫茶

2020年01月29日 | Jazz
 そのころ、ジャズ喫茶といえば、沸かし直しのコーヒー。ただ、黒いだけ、美味しいとは言えない飲み物。
 スタッキングカップという積み重ねできる白無地の重いコーヒーカップ。取っ手が変わった格好をしています。飲み口も分厚いですね、あちこちのお店で使っていたので安かったのでしょう。
 今も、昭和レトロで販売しているサイトがありました。昭和30年代から40年代にかけて作られたもののようです。「昭和レトロ陶器店からっちゃ 」というWEBサイトのお店で販売していました。

 70年代によく行ったジャズ喫茶について記録しておきます。そのころカメラを持ってジャズ喫茶の写真を撮る人など稀ですから、頼りになるのはそのお店のマッチ箱です。以前はかなりの数持っていたのですが、当時喫煙者だったため長押の上に飾っていたものが煙草のヤニで見る影もなくなりすべて処分してしまいました。
 ここに掲載するマッチ箱の画像はほとんど「ジャズ喫茶のマッチ」という猫仙人さんのサイトから了解をいただいて掲載させていただきました。
 猫仙人さんのサイトURLは
 https://www.neko-net.com/jazz/ 
 興味のある方はご一読のほどよろしくお願いします。

 前置きが長くなりましたが、初めは阿佐ヶ谷から行ってみましょう。
 東京へ出たのは、なんといっても本音はジャズを聴きたいため。最初は豊島園に住んだのですが、なんの予備知識もなく、ただ安いというだけで、下見に行った街の雰囲気も気に入ったために中央線、阿佐ヶ谷に住まいを定めました。住まいといったって怪しい住人だらけのおんぼろアパートでしたが。後年再訪した時はこじゃれた何とかマンションなるものに変わっていました。今ではgoogle mapで住所さえ入力すれば外観もわかるんですね。
 いやいや、話が長い。

 駅から下宿への帰り道そのジャズ喫茶はありました。一度ヤフオクでそのお店のマッチが出品されていました。
 毘沙門というジャズ喫茶です。中はうす暗い、閉所恐怖症になるような店で、店内には大きな開口部のある白い仕切り壁があったと思います。
 当時酒など飲める身分ではなかったので、そこに置かれているバーボンウイスキーは一度飲んでみたいと思って眺めていました。
 バーボン・デラックス、もう日本では終売のようです。それほど高い酒ではなかったようですが、終売となった今、結構高値で取引されているようです。

 この毘沙門の店内風景で一番記憶に残っているのは、当時の流行りの超髪にジーンズの若い学生風の二人、明らかに相当酔っ払っているのが店に入ってきて、持参の茶色い紙袋からこそこそとウイスキーを出してコップに注ぎながら飲んでいる姿です。その場面だけが強烈に記憶に残っています。
 何がターンテーブルにのせられたかといえば、あまり記憶にないのですが、前衛レーベルBYGのもの、アート・アンサンブル・オブ・シカゴ(AEOC )やアーチー・シェップ、サニー・マレイ などが多かったような気がします。

 AEOC、「苦悩の人々」、高校時代にラジオから流れてくるのを聴いて釘付けになりました。

 左がpeople in sorrow(邦題:苦悩の人々)すでに廃盤のようです。右はブリジット・フォンテーヌとAEOCの共演 comme à la radio(邦題:ラヂオの用に)、こちらのタイトル曲は沖 至グループでもいい演奏を聴くことが出来ます。

 夕方銭湯に行くと、毘沙門のマスターとよく一緒になり挨拶を交わしたものでした。
 70年代のジャズ喫茶の話はまだ続きます。