鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

鳥海山の行列

2022年07月31日 | 鳥海山
 4時間立ちっぱなしの仕事(アルバイト)をしていると休日は腰が痛くて出かける気になりません。それに加えてこの暑さ。山はすごい人出でしょうね。おそらく登山道も行列。マナーの悪い人に会う確率も急上昇でしょう。
 
 7/30の秋田魁新報電子版、人、人々で賑わう鳥海山が紹介されていました。魁新報はいつも矢島口の鳥海山ですね。象潟口は秋田市を中心とする文化圏とちょっと違うのでしょうか。TDK 盛んな頃は象潟 (現にかほ市)の方は良く庄内・酒田まで買い物に出てこられていました。商圏・文化圏としては秋田市を中心とする文化圏・商圏には属して居ないのかもしれません。こちらの大きな店で大きなチラシを出すときは象潟まで新聞折り込みするそうですから。
 信仰登山に就いて秋田方面の事は詳しくないので、でも研究者の方の記録を見れば各登山口の参拝者がどこから来ていたかの分布もわかると思いますのでそのうち見てみましょう。
 
 人でごった返す鳥海山はどうもあまり行きたくありません。登山道に行列なんて。塗渡る蟻、散る蜘蛛の子とうようよぞよぞよという様子でしょうか。
 古い写真をスキャンしているのでボケボケです。
 こちらは写真家の佐藤要さんから提供していただいた、現在は落石のため通行禁止、廃道となった行者岳キレットから山頂へ向かう道を行く登山者の行列部分を拡大したものです。これでも人は少ない方です。
 でもこれ以上ににぎやかにならないと神社が倒産してしまいます。
 

冬の鳥海山 iwahige's diary

2022年07月28日 | 鳥海山

 先日「鳥海山を登る」の写真家佐藤要さんが「日本海に接して聳える鳥海山の、厳しい冬期の季節風がもたらす現象」をテーマとしたブログを始めましたので多くの方にご覧いただきたく紹介させていただきます。タイトルは iwahige's diary

 行者岳のコルから凍てついた急斜面を登る。画像はiwahige's diaryより。著作権者の了承のもと掲載しております。


鳥海山の山小屋料金

2022年07月28日 | 鳥海山

 以前読んだ、万助小舎二五周年記念祭の講演で池田昭二さんが話している内容がおもしろいです。

 「山と高原地図 鳥海山」は当時池田昭二さんの執筆ですがそのころ一万数千部だしていたそうです。一番売れていたのはどこでしょう。そう、東京です。ついで神奈川、埼玉大阪、仙台。その頃池田昭二さんが勤めていた松山の書店では年に一冊しか売れなかったそうです。現在はどうなんでしょう。今の「山と高原地図 鳥海山」はデータとしては最新でしょうけれど資料として読むには池昭さんの地図の方がずっと面白いです。

 その講演の中で鳥海山の日本一自慢が続きますが、そんな話は大して面白いものではありません。日本一として紹介している中で面白いのは鳥海山の宿泊料金の話。以下同書より、

 「他に鳥海山において日本一 はないかと言うことなのですが、あるのですね。鳥海山の山小屋の宿泊料金が日本一高い。食事 や待遇と比較して非常に髙いですね。一泊二食で五〇〇〇円を越えますね。このことは、実は、神社の会議でも度々話題になる。神社は勿論沢山の登山者の苦情を受けているのだけれども、これ以上安くは出来ないらしいのです。と言うのは、二〇年に一度改築する神社の建物の負担を登山者にお頋いしていかなければならないため、宿泊料金をこれ以上安く出米ないというようなことを言っておりました。それならば とにかく髙いなりにもうすこし待遇を良くするとかすればよいのですが、サバの 水煮と佃煮とか、ナスの昧增汁とか、北アルプス等のメニューと比べると大きくずれているのですね。
 山小屋の料金の髙さは日本一、待遇の悪さ日本一、これも日 本一には違いないと思います。」

 これは1861年時点での話。長いこと頂上小屋には行っていませんし、今後行くこともないと思いますが、今も事情は変わりないでしょう。大物忌神社の山小屋には山小屋の必要条件である水が天水(雨水)以外確保できない、沢水、湧水が無いという事情がありますので食事もつくる、片付けすることを考えればやむを得ない所もあるにはあるのですけれど。山頂、御浜どちらもですね。
 河原宿だけは水に恵まれていましたけれどもともと大物忌神社の小屋ではなかったことと利用者が少なくて採算が取れなかったのでしょう。東日本大震災を口実として閉鎖されてしまいました。遊佐町でやらないかと持ちかけたそうですが町から断られたという話も聞いています。


 横堂の小屋も今小屋跡を訪れてみると、どうしてこんなところで生活できたんだろうと思うかもしれませんが、小屋のある時は「横堂の小屋の水場は小屋の前から右に向かい下れば赤滝だが途中で別れてしばらく登ると大木がありそこから湧き出ている水を汲んでいたものだ。そこは赤瀧の湧き出る最初のところ。後にそこまで行くのが難儀だということで鳳来山のやや下からチョロチョロ湧き出る水を使うようになった。」という話を横堂にいた方から聞いていますので水は何とか確保できていたようです。でも今行っても水を突き止めることは困難です。赤滝の源頭へは踏み跡もありませんので。どなたか挑戦しませんか。

 昭和29年横堂の前の小屋で憩う。奥に見えるのが横堂。


昭和36年の鳥海山案内

2022年07月27日 | 鳥海山

 表紙面に「国定公園候補地鳥海山案内地図」と書いてあります。鳥海国定公園は1963年(昭和38年)7月24日指定。この冊子はあとがきによると昭和36年9月とあります。ということは、今から60年以上前の鳥海山案内ということになります。以前紹介した昭和38年の鳥海山案内地図はあとがきに昭和36年9月初版、昭和38年6月修正版と書いてありますのでタイトルは異なりますが同じ冊子です。国定公園指定日前に国定公園の文字を入れています。

 変更箇所は、鳥海山概念図に国定公園区域が記されたことと、山小屋案内で酒田市山小屋(万助小舎:昭和36年10月竣工)が追加されたことと山小屋の利用料金がこの二年ですべて値上げされていることです。

  昭和36年版、横堂でもこの時点で食事付き宿泊できるようになっています。経営、管理者にも注目してください。

 昭和38年の鳥海山の山小屋一覧です。ソブ谷地小屋、大平小屋は既にありません。この当時の300円は現在では3,000円くらいでしょうか。以前山本坊さんに伺った時、昭和三十年代の山役料(通行料と思ってください)は300円くらいだったかというお話でした。なお大物忌神社(吹浦)には山役料の資料はないそうです。

 この頃は管理人なんて小洒落た言い方はしません。番人です。我々も昔から小屋番と言ってきました。(番人、小屋番、炊きなどというとすぐに差別用語だという人は嫌ですね。)
 そういえば御浜の小屋番をしていたKさんの事を蕨岡の古老は「強力のKさん」と言っていました。鳥海山の最後の強力だったかもしれません。

 この頃横堂でも宿泊でき食事も提供していたということと小屋の管理者については日本民俗学に筒井裕という方が「昭和中期における鳥海山中への物資運搬」という研究ノートを載せていますのでそれと関係してきます。この点については次回少々書いてみましょう。


地形図における「南ノコマイ」の記載

2022年07月24日 | 鳥海山

 「南ノコマイ」の記載について陸地測量部が取り違えたという説が流布していますがどうも疑問です。

 現在の2.5万図には「南ノコマイ」の記載がありますが、2.5万鳥海山地形図は1975(昭50)以降、乃ち国土地理院になってからの発行です。

 国土地理院の鳥海山の5万地形図(現在刊行中の図は除く)は下記の通りです。

 陸地測量部時代に発行されたものは5万地形図ということになります。

 下の表は国土地理院のHPにあるものよりの引用ですが、このうち陸地測量部時代のものは1913(大2)から1934(昭9)にかけて発行された地形図です。

測量年 更新履歴 発行年月日
1913(大2) 測図 1914/08/30(大3)
1913(大2) 測図 1916/05/30(大5)
1934(昭9) 修正 1936/10/30(昭11)
1934(昭9) 修正 1946/11/30(昭21)
1934(昭9) 修正 1947/06/30(昭22)
1934(昭9) 修正 1947/06/30(昭22)
1953(昭28) 応修 1954/04/30(昭29)
1953(昭28) 応修 1954/04/30(昭29)
1953(昭28) 応修 1954/12/28(昭29)
1953(昭28) 応修 1966/09/30(昭41)
1964(昭39) 改測 1970/08/30(昭45)
1969(昭44) 資修 1977/11/30(昭52)
1977(昭52) 編集 1977/11/30(昭52)
1977(昭52) 編集 1977/11/30(昭52)
1977(昭52) 編集 1977/11/30(昭52)
 1992(平4) 修正 1994/02/01(平6)
 1992(平4) 修正 1994/02/01(平6)

 同じ年の発行はリスト番号が違うものです。詳細は取り寄せてみないとわかりません。

 大正2年測図/昭和9年修正 【発行時期】 昭和11年10月発行 『鳥海山』五万分一地形圖

 大正2年測図/昭和9年修正 【発行時期】 昭和11年9月発行『吹浦』五万分一地形圖

 鳥海山の地形図には月光川、吹浦の地図には一ノ瀧、二ノ瀧の記載はありますがどちらの地形図にも「南ノコマイ」の記載はありません。上の表のように陸地測量部で発行された『鳥海山』五万分一地形圖は6枚、吹浦もほぼ同じ時期の7枚しかありません。陸地測量部の地形図すべてを確認してはいませんが2.5万鳥海山地形図1975(昭50)発行の際「南ノコマイ」の記載は昭和49年の遊佐町からの申請に基づいたものと言っていいのではないかと思います。

 「南ノコマイ」「コメ」は文字を当てれば「川前」というようですが、実際に現地の古老がどのように発音していたかは、同世代の人の発音しか聞いたことが無いので不明です。あっ、そうそう、「北ノコマイ」というのも呼ばれていたそうです。

 昭和の2.5万鳥海山あったはずですが例によって行方不明、出てきたら報告いたします。