鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

太田宣賢編集発行の「鳥海山登山案内記」

2021年09月30日 | 鳥海山

 太田宣賢編集発行の「鳥海山登山案内記」を読んでいるのですが大正期の橋本賢助「鳥海登山案内」に比べて遥かに難解な表現、漢字を大量に用いて書かれています。同じ明治でも漱石、二葉亭の様な文学者とは全く違った表現、言語の使いようです。「口の宮の結構に至りては樓廓輪煥粉壁丹靑を避け畫梁鏤桁の飾を施さずと雖ども而かも宏莊端麗自威嚴あり」、こんな表現が随所に登場します。ルビは振ってありますがこう読みます。「くちのみやのさまにいたりてはあまりぴかぴかせぬようにしをさけくどくどしいのかざりをほどこさずといえどもしかもおほわにきれいみずからいげんあり」いや、ふつう読めねえわ。明治の人はすらすら読んだんですかねえ。

 今「口の宮」と「登山」の項についてデジタル化最中。こんな表現なのでOCRはほぼ使えません。PDF化したものを画面左に配置、右にワードを開いて入力します。原稿を手元に置くより同じ平面で文章を見ることが出来るのでこの方が入力しやすいです。

 こんな様子で「口の宮」は始まります。


蕨岡及口の宮

蕨岡は鳥海山の南麓にして其丘腹に家居す古來鳥海山上鎭座大物忌神社の拜殿一王子大堂(今は口の宮と稱す)の在る處にして拜殿は丘上に在り(古は丘腹にありしが幾多の變遷を經て明治廿八年令の地に建築せり)以て山上山下一連同體自一社の體裁を爲せり社殿に天武天皇の白鳳年中和の葛城の小角の創始に拘るが如しと雖も恐らくは更に夫れより以前にあらん然れども前にも述べたる如く佛法渡來の後は拜殿には風神級長津彥級長津比賣二柱の大神の本地佛として十一面觀音を安置し之を鳥海山一の王子と唱へ神佛混淆を以て勤行奉仕せり


 すらすら読めましたか。

 大澤神社についても新しい発見がありました。まだまだデジタル化は時間がかかりそうですが面白そうな部分は近いうちに引用してお目にかけようと思います。


鳥海山の山小屋料金

2021年09月26日 | 鳥海山

 大物忌神社の山小屋宿泊料金、今季は終了しましたが今年の分を見ると素泊まりでなんと税別七千円。コロナの影響で寝具はなし。これに食事が朝夕の二食がつくとなんと10,000円です。鳥海山の山小屋の宿泊料金はどのように変遷=値上がりしてきたのでしょう。斎藤政広さんんの「山と高原地図 鳥海山・月山」では2013年版ですが宿泊料金の記載はありませんでした。インターネットの発達によって簡単に調べられるし、料金の変動に出版物の改定が追いついていかない、不正確な情報を届けてしまうことになるのでやむを得ない事とは思われます。

 WEB上では過去の山小屋料金の情報を調べるのは不可能のようです。手元にある資料で宿泊料金の書いてあるのは、「秋田の山歩き」(1987年、無明舎出版)、「東北の避難小屋144」(2002年、随想舎)、「山と高原地図 鳥海山」(1976年~、昭文社)。祓川の浅吉小屋、祓川神社、旭荘の料金も書いてありますが割愛します。直近の山小屋料金は大物忌神社HP, 各管轄自治体のHPを参考としました。「秋田の山歩き」(1987年)は1986年の下の表と同じ、「東北の避難小屋144」(2002年)の小屋料金は1999年と変わっていません。よって表はすべて「山と高原地図 鳥海山」に依りました。

山頂小屋 御浜小屋 河原宿小屋 滝の小屋 鉾立山荘 祓川ヒュッテ 出版年 出     典 出版社
素泊り
食事付き
素泊り 食事付き 素泊り 食事付き 素泊り 食事付き 素泊り 素泊り      
1,200円 2,500  1,200 2,500 改築中 1,200 2,500 400 200 1976 山と高原地図 鳥海山 昭文社
2,500 4,000 2,500 4,000 2,500 4,000 2,000 3,500 600 1,000 1986 山と高原地図 鳥海山 昭文社
3,000 5,000 3,000 5,000 3,000 5,000 2,060 3,660 1,230 1,030 1991 山と高原地図 鳥海山 昭文社
3,000 5,000 3,000 5,000 3,000 5,000 2,060 3,660 1,230 1,030 1992 山と高原地図 鳥海山 昭文社
3,000 5,000 3,000 5,000 3,000 5,000 2,160 3,960 1,300 1,300 1995 山と高原地図 鳥海山 昭文社
3,500 6,000 3,500 6,000 3,500 6,000 2,500 4,500 1,300 1,370 1999 山と高原地図 鳥海山 昭文社
7,000 10,000 7,000 10,000 閉     鎖 2,500 5,000 2,500 1,830 2021 大物忌神社HP、管轄自治体HP

 山頂小屋、御浜小屋、河原宿小屋は大物忌神社の経営、その他は各所在する町の管轄です。河原宿小屋は2011年(平成23年)、東日本大震災にこじつけて閉鎖されました。(当時の大物忌神社のHP には震災の影響により、と書いてありました。)採算が取れなかったんでしょうね。食事に関しては夕食、朝食の二食付きの値段です。鉾立山荘は1987年以前は昔の建物です。鉾立山荘の1986年と1991年の料金上昇幅が祓川ヒュッテと比べて大きいのは新築になったためと思います。

 消費税導入は1989年(平成元年)4月1日ですのが上記表の1991年以降、税別表記と思われます。2021年の大物忌神社は税別と記載されていましたがその他の施設に関しては税別か税込みかは書いてありませんでした。

 1976年頃、給料はどのくらいだったか、いろんなものの値段はどうだったか、記憶はほとんどありません。2021年を物差しにして昔は安い、今は高いと考えるのは簡単ですが、こういった値段というものは同時代として考えなければいけません。当時として山小屋を利用する人にとって高かったのか、妥当な値段だと感じていたのか、ということですね。こういった歴史的な事柄は今を物差しに考えてはいけません。

 山頂の夕食といえば昭和の終わりころでしたでしょうか、小屋番のおば(あ)さん、袋に入ったレトルトハンバーグを温めてそれを袋から出さずにそのまま登山客用の発泡スチロールの皿へのせて出していました。ある日、交代で山頂へやってきた神主さん、それを見て慌てて客へ出す前にハンバーグの袋を切り、盛り付けしなおしました。先日蕨岡の山本坊へ行ったときに、その時の話が出て鳥海さん「あのハンバーグはないよなあ」。そのおば(あ)さんご夫婦の前は山本坊御夫婦が山頂小屋の炊きかしきをしていました。

 今年御浜迄行ったとき、前の滝の小屋の管理人Sさんと一緒になりましたが町営の小屋で予算が決められているものだから食事はなかなか大変だったといっていました。まあでも山小屋はレストランではありませんので山小屋に下界と同じかそれ以上のメニューを求めて登っていくのもどうかと思いますね。

 小さい画面だと表が見にくいと思いますがご容赦ください。


南ノコマイ

2021年09月24日 | 鳥海山

 25000地形図を見るとポツンと南ノコマイという文字が目立ちます。

 コマイって何だろうと思いますよね。

 月光川ダムができる前の「山と高原地図 鳥海山」1976年版を見てみましょう。

 月光川ダム建設予定地と表記されています。ここで川が一本になっていますね。三つの俣に分かれているので三の俣といいます。此処にも南ノコマイが書かれています。次は1999年版の「山と高原地図 鳥海山」です。

 月光川ダムは完成しています。南ノコマイも記載されています。これが執筆者が斎藤政広さんに代わってからの「山と高原地図 鳥海山」2013年版では、

 南ノコマイは場所を変えて南ノコメとしてあります。かつての南ノコマイは西ノコメ、さらには中ノコメがその間に書いてあります。これは本来の三の俣に表記を戻そうとしたのでしょう。二の滝口狭霧橋の所には西ノコメと表記があるそうです。

 コマイの意味、文字は後にして、なぜこういうことになったかというと、本来三つの俣に分かれるところから見て藤倉沢から分岐合流点に向かってくる沢が南ノコメ、そして一ノ滝、二ノ滝のある沢を擁するのが西ノコマイ、真ん中が中ノコマイ。位置関係はこれではっきりしました。これはその昔、国土地理院が地図を作って文字を入れる際にどこで間違ったか、西ノコマイを南ノコマイと間違って記載してしまったのだそうです。ああいうお役所の作ったものは訂正は効きません。それが今も25000図には生きています。斎藤さんはそれらを知ったうえで訂正しようとしているのでしょう。それからこの地図、よく見ると蕨岡の本来の登拝道が記載されています。かくれ山分岐に続いている水ノミ沢と書かれた上に池があり、そのそばを通る道です。この池が水呑池。水ノミ沢というのは実際は存在しません。これは水呑池が溢れた時のオーバーフローのための流路だそうですので普段は水は流れていません。水呑池からはこの登山道沿いに月の原まで流れています。月の原に水を流すために作られた池ですから別の方向には流れていません。又往路1:30とも記載されていますが一般の登山道だと思ってはいけません。水呑池まではなんとか行けたとしてもその先はガイドなしでは迷うでしょう。(2013年当時の状況についてこれを書いた後、斎藤政広さんに示唆した方から連絡が来ましてこの地図の作製した当時は刈払いして間もなくでまだ道としての体裁はあったとのことです。いずれは破線になるのではないかとの予想でした。)

 

 さてさて長くなってしまいましたが、コマイとは川前と書いたようです。言葉にするとコマイ、あるいはコメ。川の前だからコマイといったのか、コマイという何らかを意味する言葉に川前という文字を当てたのかそこはわかりません。そういう音で其土地、地形を表現する人たちがその当時多く住んでいたと考えるのが妥当ではないかと思います。

 

 ※ 先日高瀬峡の先、登山道に熊さんの大きな糞がとぐろを巻いていたそうですのでお出かけの方は十分に注意をしてください。


萬助小舎 二五周年記念誌より

2021年09月24日 | 鳥海山

 自分は鳥海山登りを山岳部やどこかの山岳会に入って覚えたわけでないし、ただ登りたいと思って独学で登り始めたので守備範囲は大変狭いです。かつての仕事で知り合った鳥海山好きの連中と一緒に登るくらい、あとはいつも一人。その中に神社の小屋をよく知る人がいたのでお浜、山頂、河原宿の小屋に寄らせてもらった程度です。なので萬助小舎にはなじみはありません。この記念誌の皆さんの思い出話はスルーなのですが、その中に面白い話がいくつかありますので紹介させて戴きます。

 池田昭二さんは言わずと知れた「山と高原地図 鳥海山」のかつての筆者。その「山と高原地図 鳥海山」は毎年一万数千部だしているのに地元では売れなかったという話は面白いですね。松山町の書店では一年間で一部しか売れなかったとか。
 また鳥海山の登山道は廃道も含めると二十もあったという話。百宅、猿倉、矢島、中島台、横岡、小滝、大砂川、川袋、小砂川、吹浦、桝川、下当、長坂、万助、二ノ滝、三の俣、杉沢、湯ノ台、大台野、鹿の俣、清吉新道が書いてありませんでしたがいくつご存じでしょうか。これを念頭に置いて地図を眺めるのも俣楽しいものです。
 
 さらに興味を惹くのが万助小屋以前に存在した鳥海山荘の話。今の湯ノ台の鳥海山荘とは違います。あっ、そう以前書いた伝喜太小屋の写真も載っていました。
 鳥海山荘は別名鳥海ヒュッテとも呼ばれたそうですが渡戸にあったそうです。
 最後は火事で無くなったとのことです。渡戸には一時酒田東高の小屋もあったとは酒田東高山岳部のOBから聞きました。昔はいろんな小屋があったのですね。小屋といっても登拝時期だけ建てて白玉やらを売る笹小屋も結構あったようです。蕨岡の旧道を歩くとちょっとした平地と水場が近いところが何か所かあり、ここにも笹小屋があったのではなかろうかなどと想像してしまいます。
 
 池田昭二さんの語る鳥海山の話は面白いのでいずれ紹介させていただきます。この記事に掲げた写真は「萬助小舎 二五周年記念誌」に掲載されています。
 
 次回は南ノコマイについて書いてみましょう。
 

波浪注意報

2021年09月24日 | 兎糞録

 今朝NHKのニュースをみていたら、「波浪注意報」を「ハルオチュウイホウ」と発音しています。そういえば昔から「ハルオチュウイホウ」といっていました。NHKには日本語のわかる人はいないのでしょうか。

 「波浪注意報」は「ハロウチュウイホウ」と読みます。もちろん表記上です。実際耳に聞こえる時は「ハローチュウイホー」です。決して「ハルオチュウイホウ」ではありません。「ハルオチュウイホウ」ならば「春雄注意報」の文字になります。

 この辺のアナウンサーの訛りがひどいだけなのでしょうか。