・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

縛られた縄を振り解こう:23 定型句

2019年10月16日 | つぶやきの壺焼

「マー」 「ヤッパ」 「すごい」、この三つの語句には、話に混ぜ始めると連続して出てくるという奇妙な力があります。

話をする頭の回転が、ぐるっと回るとまた元に戻る壊れたネジのようになってしまうのでしょうか。

これにまた「自分の中で」が加わって入り込むと始末に負えなくなります。

ついまねをするとたちまち抜けなくなる言葉グセは、いったん絡まれるとなかなか解けません。

先日のラグビー選手の試合後のインタビューでは、これが聞かれず、まことにさわやかでした。

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縛られた縄を振り解こう:22 ぷりぶり信仰

2019年10月15日 | つぶやきの壺焼

仕事っぷりがいいよ、働きぶりがなかなかのものだ、そう言われると、仕事に生き甲斐が生まれます。
ところが、この生き甲斐がまたなかなかの曲者で、仕事の成果よりも生き甲斐を生かすほうに力を向けさせるという悪さをしかけます。

報道の仕事でも、伝える中身が、ものごとのありのままの姿よりも、伝える人自身の努力を伝えたがるようになっていきます。
危ない所に行ってきたとか、会い難い人に会ってきたとか、取材の困難さが売りもののような報道姿勢で、人々の興味を引き寄せるのです。
報道を受け取る人のイメージも、取材している場面がまず頭に描かれるようになって、伝えなければならない対象の実態でも、訴えかける何かでもなくなっているのです。
ニュースでだいじなことは、何なのでしょうか。

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縛られた縄を振り解こう:21 言葉のたが

2019年10月14日 | つぶやきの壺焼

「発表中の暴風警報が解除されました」
発表中なのに解除、台風が来ると奇妙な放送が繰り返されます。
発表というのは知らせる行為で、知らせてしまえば発表という行為はそこで終わりでしょう。
発表中と言われると、まだ発表が終わっていないのにと聞こえます。

放送にはもうひとつ奇妙なことが重なっています。
警報が発表されるということです。
警報は、元来命を守るために出される、自衛の意識を共通に持たせる一種の指令であるはずです。
それならば警報が出されることは、発表というなかば呑気な言い方ではなく、発令と言わなければ言葉の強さは伝わりません。

発令というと、「なんだ、役所はシミンに命令するのか、行動の自由を妨げるのか」などと、わけのわからない難癖をつける輩が現れてうるさいので、発表と軽めに言っておこうかという、いじましさが感じられるのです。

役所が言葉の意味を曲げてまでものを言わなければならない一方では、国会の議長職にある人の会議での発言の意味を曲げて、それに文句をつけ、国会の審議を一時間半も遅らせるという馬鹿なことをする政治家もいます。

こんなふうに、言葉のたがが、はめなくてもよいところできつくはめられ、意味が捻じ曲げられています。
日本人にとってだいじな日本語が、遊びごとでなくまじめなもの言いが必要なところでも粗末に扱われているのは悲しいことです。

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縛られた縄を振り解こう:20 新旧

2019年10月13日 | つぶやきの壺焼

消費財は新製品、新型発売と言われると、どこか何かが良くなっていると思い込まされます。
飲みものなどは、味の記録は残せないので、そっと昔の味に戻しておいても、旨いと思ってもらえるかもしれません。
新しいと呼べば、人びとの目を引くだけで、良くなっているとは限らないでしょう。

モノでなく、生活環境や価値判断の新旧も、良否善悪とは無関係です。
家族の結びつき、家庭の環境、親子の関係、夫婦の役割なども、高名な先生がこうしなさいと言ったところで、それが万人に適した最も望ましいこととは言えません。
その先生が考えた最良の方法というだけのことで、意地の悪い想像をすれば、先生は自分では違うことをしているかもしれないのです。

欧米のどこかで声高に言われていることが、これまでになかった新しい考えであるからと言って、それが善良なものかどうか、日本人の日常生活に向いているかどうかは、すぐにわかるはずがないでしょう。

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縛られた縄を振り解こう:19 抗議恐怖

2019年10月12日 | つぶやきの壺焼

抗議されることはいやなものです。

いやだからと言って、何ごとにも抗議を避ける習性がそなわると、別段抗議の要素もない論議さえ避けたがるようになります。
自分以外の意見を耳にすると、自分が逆らわれていると感じてしまう、ある種の病に近い性状に陥ることもあります。

いま本州中央部の某県首長が、気の毒なことに、その実例になっています。

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縛られた縄を振り解こう:18 ガーマニア

2019年10月11日 | つぶやきの壺焼

一つのことにこだわり続けるとマニアと呼ばれます。

マニアのこだわりの対象はモノだけではないようです。
やや強引かもしれませんが、口癖もマニアの一種と言えなくもなさそうです。
頭の働きが口癖に現れる、つまりものごとを、何かにつけある人やある概念に結びつけて考えたがり、それがつい口に出てしまうのです。

何でもすぐにXXガーというマニアを、ガーマニアと名付けてみました。
アベガー、財源ガー、民意ガーと、ガーをつければ何ごともガーの前のXXのせいにできるという便宜マニアです。
このガーマニアは、責任回避体質の人に多く見受けられるようです。

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縛られた縄を振り解こう:17 瀬戸際

2019年10月10日 | つぶやきの壺焼

瀬戸際に立たされている、今が瀬戸際、そんな言葉を聞かせて、何か手を打たなければという気に人々をさせてしまうビジネスがあります。
地球温暖化、海洋汚染、等々、瀬戸際産業の題材は何でもよいのです。

枯渇、絶滅、人々はとかくモノがなくなることを恐れます。
生物にも絶滅危惧種という分類が作られていますが、人間界には絶滅危惧症がときどき流行します。

肥料、殺虫剤、その他の化学製品に広範囲で使われているリンも、百年経たないうちに枯渇しそうだというニュースもあります。
しかし、何億年もかけて出来上がった地球が、百年そこそこでどうなるものでもないでしょう。
ことさらの無駄遣いはよくありませんが、品質が変わるほどの買いだめはまったく無意味です。

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縛られた縄を振り解こう:16 言霊

2019年10月09日 | つぶやきの壺焼

言葉には霊の力があって、良い言葉は幸運を招き、不吉な言葉は凶事を招くと言われます。
病気の話ばかり聞いていると、病魔が忍び込んでくるような、いやな気分になります。

言霊が妙な信奉につながると、それに縛られて、考えなければならないことも話題から遠ざけ、忌避されるようになります。
たとえば、戦争は嫌だと思いつめると、戦いに備えるという考えが戦争を招く、という思考恐怖症に陥ることもあります。
戦いという字も嫌だとなれば、その文字がいくつも出てくる憲法第九条のように、国の存亡にかかわることでも、議題どころか話題にもしたがりません。
そういう人が、国会議員にも多数いるようです。

言霊には、発せられる言葉のさらに外側で、言霊というものがあるという思いが人の心を縛り付けてしまうという、不思議な力が秘められているようです。

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縛られた縄を振り解こう:15 平等

2019年10月08日 | つぶやきの壺焼

生きものはみな平等に扱わなければならないと言ったら、ダニもサソリもかと、すぐに言い返されるでしょう。

人間は、と言い換えたらどうでしょうか。
そのとおりと言いかけて言葉に詰まれば、正常な思考力の片鱗が見えたと言ってよさそうです。

平等と言っても、与えられる条件または機会が平等なのか、あるいは結果が平等になるのかによって、その是非は変わります。
また結果の平等が、どんな場合にも是とは言い切れません。

たとえば、外国からやってきて、居心地の良い日本に住み着きながら、日本の国を悪しざまにののしって得意顔をしている人に、善良な日本人と同等な生活条件を与えるのも、その図々しい人にとって結果は平等でしょう。
それを、平等の精神、博愛の喜びなどとニコニコしている人がいたら、手を叩いて褒めたくなりますか。
なんでも平等を望むのは、幸せを望むこととはだいぶ違うようです。

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縛られた縄を振り解こう:14 謙譲美徳

2019年10月07日 | つぶやきの壺焼

モスクワの地下鉄で、ラッシュアワーにエスカレーターの両側を使うよう利用客に求めるキャンペーンを始めたというニュースがあります。

一つのステップを一人で占領せずに左右両側を使いましょうという呼びかけですが、日本では、言われなくても乗れば左側に寄り右側は急ぐ人が歩いて上がれるようにあけておくことが、自然に行われています。
歩くと危ないからやめてくれという放送を耳にすることさえあります。

体格の違いもあるでしょうが、エスカレーターのような一瞬の居場所でも自分のものという占有感覚が、彼の国の人には身についているのでしょうか。
互いに譲り合う心を持たない人々の国とは、それに合った付き合い方をしなければ、相手は譲られた恩義など全く感じません。
人間の性格はみな同じではないのです。

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縛られた縄を振り解こう:13 悪法

2019年10月06日 | つぶやきの壺焼

香港のデモ制圧に覆面禁止条例が出されました。
デモに参加するなら堂々と、という言い分は聞こえはよいのですが、参加者の個人が特定されれば、一族がとんでもない迫害を被り、日常生活が成り立たなくなるおそれが十分にあります。

デモは多数意見の表明手段で、参加者が顔を見せる見せないは個々人の自由選択でよいことです。
制圧したい側の人の都合のみで覆面を法で禁止するのは、まさに片手落ちなのです。

法や条例と呼んでおけば、制定の意図、手続き、予想される結果に正当性が認められなくても従わなければならないというのは、おかしな話です。
「悪法もまた法なり」というソクラテスの言葉は、それだけを取り出せば、追い詰められた自害前の捨て台詞で、箴言とするに足らないものに聞こえてしまいます。
「悪法もまた法、ただし改めなければならない法である。戒めのためあえて毒杯をあおる」ぐらいのことは書いておいてほしかったとも思うのですが、「悪法もまた法なり」という訳文自体が怪しいという説もあります。

ともあれ悪法の制定は、世のため人のためになりません。
悪法の温存放置は、法治国家の恥辱でしかありません。

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縛られた縄を振り解こう:12 美徳

2019年10月05日 | つぶやきの壺焼

約束をたがえない、これは人間の美徳の一つです。
あたりまえのことをなぜ美徳と呼ぶのか、それは、はじめから約束を破るつもりでする、あるいは約束という概念がもともとない、そんな民族が実在するからです。

政治を生業とする人の中にも、美徳よりも利得が先という人は数多くいるでしょう。
美徳が稀少価値になってくると、それを持ち続けようとする人は、そこから外れる気配さえも見せまいと懸命になります。
いわゆる「ブレない」という気質にこだわると、政府として行ったこと決めたことは、情勢がどう変わろうと覆すことも変えることもできないものという呪縛から逃れられなくなります。

むかしといってよいほど前に、後のちへの影響など考えずにされてしまったこと、決めてしまったことに、変えなくてもよい理由づけを先にしておいて、変えない宣言を上塗りのようにしていけば、縛られた縄はニスで固めたようにいっそう強固になります。

人々を心地よくするはずの美徳も、こうなると意地の塊のようにしか見えなくなってしまいます。

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縛られた縄を振り解こう:11 蓄財

2019年10月04日 | つぶやきの壺焼

蓄財願望は無限に拡大します。
実体の見える財には蓄積できる限度があるので、いわゆる泥棒のすることなどはたかが知れています。

モノによらない仮想の財は、置き場に困ることがないので、際限なく蓄積されます。
蓄財がとどまるところを知らなくなれば、その獲得者は蓄財行為の継続に縛られ、ものごとの判断基準がすべて儲かるかどうかに置き換えられます。

同業のことも自国のことも、時局のことにも、経済性以外の価値は意に介されなくなります。
そうなれば、隣国から絶え間なくやってくる儲け話の巧言に吸い寄せられる醜態も、相手には媚態に見えるだろうという錯覚のわなにはまりこんでしまいます。

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縛られた縄を振り解こう:10 同調圧力

2019年10月03日 | つぶやきの壺焼

日本人は和を尊びます。
日本初といわれる貨幣にも和同開珎という文字が刻まれています。

仲よく、穏やか、素晴らしい性格です。
みんなに迷惑をかけない、自分勝手なことはしない、素晴らしい生活習慣です。

ところが、あまりにもかたくなに和にこだわっていると、和こそが宝ものとなり、和に瑕のつくことを極端に恐れるようになって、同調圧力の加えやすい状態となります。

一つひとつのことがらに、みなはどう考えているだろうか、それだけがまず気になります。
TVも新聞も、みなの考えを知るためのよりどころとして見たり聞いたりすることになります。
たちの悪いTV新聞が、多くの人の気持を、ある一つの方向に引き寄せるたくらみを持てば、見出しの一文字、キャスターのひとことで効果を得ることもできます。
TV新聞は間違ったことは言わない伝えないと信じ込んでいる人は、素晴らしくちょろいお客様ということになるのです。

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縛られた縄を振り解こう:9 加害

2019年10月02日 | つぶやきの壺焼

自国を加害者に仕立てる、そんなことをわざわざ考えるのは、狂った人は別として、それによって特別の利益が得られる場合に限られるでしょう。

日本が過去に加害者であったという奇妙な思い込みに縛られている人は、まだまだいるようです。
この夢想加害は、実はその人たちがもっている願望なのではないか、とふと思いました。
侵略、弱い国の植民地化、そんな潜在願望があるのです。

過去に描く夢想加害には、自分の責任は感じません。
自分には責任の及ばないところで、同胞に敵をつくって機会をこしらえては責めたてていれば、いくらでも夢想加害ビジネスを続けることができます。
内心はいじいじ、顔と声は偉そうに、何とも卑劣な精神構造ではありませんか。

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