ひとの嘘に腹が立つのは、まじめに聞いているからです。
話は聞かれているあいだはずっと続きます。
レシーブの態勢を見せるからサーブが打てるのです。
嘘で始まった話が、途中でまじめに変わることはほとんどありません。
途中から「これはまじめな話だけれど」と断りが入っても、それが嘘かもしれません。
まじめな顔をして言う嘘は、そうと思っていれば面白く聞こえます。
「嘘だろう」「ウッソー」と、どうでもよさそうに入れるあいの手は、ときに愛の手にもなりますが、まじめに聞き返したのでは、あいの手効果は出ません。
あの人があのときこんな嘘を言っていたと、知らせて歩くバカげたことが、ニュースの形になっても、多くの人はまたかと思って聞き過ごします。
しかし、それをまじめに聞いている人も中にはいます。
ニュース型の報道のまねごとが、報道被害を生むこともあります。
こういう被害は、風評被害という名に入れ替えられて、しばらくのあいだは仕事をしているふりを続けるタネにできます。
こんなことが積もり積もれば、マスゴミと言われることも苦にならなくなるでしょう。
政治とその報道を、どの程度まじめに聞けるか、それが文化水準の目盛りになると思うのですが、いかがでしょうか。