あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

宗教の歴史から。。。。心のあり方。。新生活様式。。

2020年07月20日 09時39分54秒 | 思った事

先日、陽気ぐらしが出来るようになるためには、生まれ変わりを信じる事が大切と書いた。

教祖が教えられたこの教えは、「かしもの・かりもの」が分からねば何も分からん。と教えられている。

「かしもの・かりもの」とは、それぞれの身体は、親神様からの借り物であり、それぞれの心だけがそれぞれの物である。という事であり、それぞれの心によって、周囲に与えられるものは違ってくる。というものである。

先日、警察へ行った事を書いたが、警察で色々と話をする中に、私の職業についての話をする事となり、この新型コロナについてどう思うか。という事を聞かれた。

ここでいつも話すが「私たちは、この体は神様から借りていると聞いている。どれだけ医学が進んで、どんな困難な手術が出来るようになったとして、切る事は人間が出来る。けれども、その切った物が、つながる事は、人間の力では出来ない。良く一般に自然治癒力という言葉が使われるけれども、それが親神様の働きである。そして今日、新生活様式と政府が発表しているけれども、そのように私たちの心も、新しく変える事をもとめられている。」と、このような事を話した。

「どれだけ医学が進んでも、切った部分がつながるためには人間の力では出来ない。」という話に、なるほどと言って頂けて、ありがたく思った。

しかし、たとえ、親神様の存在を感じたとしても、心の持ち方、考え方を正す教えを学ばなければ、心を親神様の思うような、陽気ぐらしが出来る心へ変える事は出来ない。

日本には、たくさんの宗教、宗派がある。どれが正しい、正しくないという事は私には分からない。

けれども、第2専修科時代に、宗教学で学んだ事を思い出した時に、自然信仰・土着信仰というものがあり、その後に教義を持つ宗教・宗派が登場する。と学んだ。

この自然信仰とは、自然界にある大きな岩や山など自然物に神が宿ると信じる信仰で、これに対しては、その神を讃える事、そしてその神に守ってもらえるように願う事のみで、日常の行いや心についての教義はないという事であった。

そして、日本古来からある神社については、神に対する作法、行事などの規律は定められているが、人間としての日常について、細かい定めはない。ましてや心についての話もない。

その後、仏教やキリスト教や色々な思想が伝来して、人間としての規律、考え方などが説かれるようになった。

と聞いた記憶がある。

このように考えて行くと、日本という国、また日本人という人々は、それらを受け入れて、今日まで来ているのである。

仏教やキリスト教などは、江戸時代までに日本に広がっている。

その江戸時代末期に、天理教を含め、金光教や黒住教など神道系と言われるものや、仏教系と言われるものが起こってくる。

今の時代は、そうした宗教自体を否定しながらも、スピリチュアルや占いというような物に引かれている人々が増えているのではないかと、マスメディアを見ていて思える。

世界に目を向けると、このように思想や文化を受け入れて、生活様式に取り入れて行く国がどれだけあるのだろうか?と思える。

反対に、自分の宗教を肯定するがために、他の宗教を否定して、戦争が絶えない国々もある。宗教自体を否定する国もある。

お道の教えでは、医者も薬も神が教えたものと教えられている。しかし、不思議が次々と現わされて、心を切り替えるだけで不思議を見せられるのだから、「医者も薬も要らない」と布教師の中で言われた時があった。その時に問題が起こり、下記のようなおさしづを戴いている。

No.  :(3巻1939頁2行)
明治26年10月17日 
『医薬の件に付、必ず医師の診察を経て御道上の御話する事情の願』
さあ/\尋ねる処/\、尋ねるであろう。ようこれまで話したる処、一時以て尋ねにゃなろうまい。一時難しいと諭したる。何にも難しいやない。一時も早く事情改め。何も今一時改めるやない。薬を以て治してやろうと言うやない。脈を取りて救けるやない。医者の手余りを救けるが台と言う。なれど一口に話する、聞く。又一つには邪魔になる。放って置けんと言う。よう聞き分け。何でも無ければ何でも無い。身上心得んと言えば、そらと言えばそりゃという理を諭したる。皆諭したる。人を腹立てさすやない。前々古き話、人の義理を立てゝ神の理を欠いては、神の道とは言えようまい。詳しい話をして置こう。所々分かろうまい。一時改めて医者に掛からねばならんと言えば、又どうと思う。派出する。よう聞いて置かねばならん。今の一時泥海世上諭す理、病人を放って置いてはならん。こゝらにはそういう者はあろうまいなれど、もし千に一つでもありては道の疵、教の理に無き理である。医者の手余りと言えば、捨てもの同様である。それを救けるが教の台と言う。よう聞き分けるよう。

『奈良県下は、派出して最寄り教導職を集めて御話を伝える事』
さあ/\所々皆それ/\に運ぶ処、前々より諭したる。話一時にこうと言えば後々と言う。今の処どうかこうかが難しい。所々理を治めたる処にては、よもや無かろうなれど、ようちょい/\噂を聞く。それでは道の理とは言わん。あんじょう一つの理を以て諭すと言う。

『前川菊太郎、宮森与三郎、喜多治郎吉、永尾楢次郎の四人南北に手分けして二人宛奈良県下巡廻する事』
さあ/\あちらこちら出越して話と言う。許し置くによって、話が難しいで。一時理を改めると言えば、これまでの理がどうもならん。こういう事はあろまいなれど、万に一つでもありてはなろうまい。なれど彼是の風説を聞く。万人の内に一人ありてもなろまいという事情を以て、諭すよう。

『他国分支教会長或は重立ちたる者を本部へ招集して右話を伝える事』
さあ/\一寸研究のため先々と言う。遠い所は詳しい者は無い。教の台、手余り捨てものほかしもの、一つの理を救けるなら何処から怨みられる事要らん。なれど、めん/\手柄しよう/\ではどうもならん。早く勇んで運ぶ事情は受け取る。よう聞き分けてくれるよう。
さあ/\所々一日も早くしっかりと話してくれ。くどう/\の理に諭し置く。もしやありてはどうもならん、という理を諭してくれ。何でも無いような事が大変難しいで。

このおさしづでは、「医者の手余りを助けるのが台」と話をされている。つまり、「親神様がおられる厳然たる証拠となるもの」という意味と考える。

ここで、私が言いたいのは、親神様を知ったとしても、それぞれの人間の心で、どのような理の話も作ってしまう事が出来るという事である。

不思議を見せる事が出来る人が現れると、その人を信じて周囲は動く。または、不思議を見せる人を利用して、周囲の人を扇動しようとする人も現れる。

この不思議とは、真実に親神様の働きを見せる人もあるだろうが、例えば、手品師・マジシャンのように、不思議を見せる人もある。また、詐欺師も人を丸め込み、思いこませてしまう人でもある。

次々と今まで隠れていた事が表に現れる今日、こうした事をも心に置いて、これからの新生活様式、心の新生活様式を進める必要があると思う。

 

親神様・教祖、今日も一日、どうぞ、世界の人々が、陽気ぐらしへと導いて頂けますように、よろしくお願いいたします。

コメント
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