葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

基本となるのは日本の精神気流復古

2013年04月11日 21時08分27秒 | 私の「時事評論」

  
葦津泰國

 はじめに
四宮正貴編集長の求めに応じて、雑誌『伝統と革新』11号に掲載した原稿です。校正の段階で数行書き換えましたが、私の思いをストレートに出しているものであり、しかも発売後なので紹介しておきます。

 神道指令に伴う紀元節の廃止

 二月十一日「建国記念の日」。日本が米軍の占領下におかれたときに、米国国務省が戦時中から準備してきた対日占領に関する日本弱体化政策に沿って、軍の武装解除を完了し、抵抗できない環境が完成するや発令したものに「神道指令」があった。米国は、日本の神道と天皇制、神話に基づく民族の連帯意識を消し去り、国が再びまとまって行動できないバラバラな集団にする準備をしていたのだ。指令で我が国の社会が捨てさせられたのが、国の誕生日「紀元節」であった。日本最古の史書『日本書紀』に、初代神武天皇が即位された経過が記されている。この時以来、日本は二千六百年という長い歴史を、国民全体の「まつり主」である天皇を中心として生きてきた誇りを捨てさせられた。キリスト教思想を基礎に成り立つ米国には、認める対象ではなかったのだ。
 米国の対日占領は、将来にわたる日本の戦闘力も完全に奪い去ることを目的にしていた。それには生産力や経済力を徹底破壊するだけでは足りない。日本人の精神文化そのものを破壊し、日本人のから西欧文化と異質なプライドを消し去ってしまおうと考えた。それは日本を胸を張って世界の強国に復活させないための施策でもあった。日本軍の解体の他に、「憲法や皇室法の改定、日本人の精神の基礎である神道の弾圧」も取り入れられた。軍の解体以外のこの種の行為はは国際法で戦勝国に禁じた行為であり、うわべだけ西欧を学んだ形式主義の日本政府の関係者や法学者などは、「想定外」と思っていたものだった。

 敗戦と同時に一人対米戦を覚悟した男

 だがここに、戦時中から独特の政治活動をしてきた一人の反骨の民間人がいた。彼は敗戦の必然を知り、ポツダム宣言などから米国が、日本の精神破壊を目標に計画的に占領を行うと確信していた。葦津珍彦という当時三十代の私の父である。肉親の父親の話を公の場で記すのは気が進まない面もあるが、父は開戦までは、日本が伝統的日本文化の美風を失い、西欧的な帝国主義へ傾いていくのに猛反対、国会でビラをまいたり地下出版を続けるなど激しく政府に食いつき、戦時中は無条件降伏になる前に早期和戦をすべきだと訴え続けていた。日本も帝国主義化して日米対決になった対米戦争には、日本にも言い分はあるが、戦は時期的力学的に見ても敗戦必至の亡国の道になると訴え、憲兵や特高に追われながらも活動していた。彼は伝統的日本土着精神を愛する頭山満はじめ在野の実力者に可愛がられ、政府内でも閣僚や軍上層部、外交官、官庁の幹部、それに新聞社の幹部の一部などから私的には好意と便宜を受けていて、軍や政府が逮捕しようとしても、巧みに逃げて、なかなか捕まらない。背後で見守る人々の好意もあって、戦局の生々しい情報も知っていた。彼は、日本が敗れたのちの占領行政は、まず日本軍の戦闘力を完全に奪い去り、次いで日本の政治構造、国民の精神構造の徹底的破壊を進めてくる。対象は天皇・神道・憲法を柱とするものになるだろう。相手は軍だ。作戦としての占領行政は迅速に進められる。その前に先手を取って全国の神社を残し、皇室を中心とした日本の精神文化を守らねばならない。そう戦後の抵抗の第一歩を決意した。自分は民間の一人の若者にすぎない。ただ代々の神職の家で育ったため、先祖の残してくれた人縁がある。それを活用してまず神社界を守ろう。神社が残れば日本人の心の中に、皇室を中心に守り伝えてきた精神気風が残り、やがてまた日本文化の再生も可能になるだろう。
 覚悟を決めた彼は父や祖父の友人であった神職の長老はじめ神社人に説いて急速に民間の全国神社の団体である神社本庁を作ることから占領政策対抗の準備を進めたが、その道半ばで追いかけるように「神道指令」が発表された。数日遅れれば、潰される極めて危ない環境での必死の対応であった。父はよく私に、「俺の対米戦争は終戦から始めった」と苦笑したが、苦心して神社本庁設立の後は、その活動を評価した神社界の幹部から、組織の目となり口となる機関紙・神社新報社を全面的に任された。
 葦津は戦時中から彼を大切に見守ってくれた人々などに応援されて、天皇制や神道の擁護者として懸命に働いた。だが廃止させられた紀元節がその二十年後に「建国記念の日」として復活されると身体を壊していたので退職し、第一線から退いた。だが平成五年に、天皇陛下の御代変りも過ぎ、それを見届けるまで自ら筆を執り続け、また若者たちの指導に当たって生涯を終えた。

 占領中にともに戦った男たち

 葦津が神社をいち早く、神社を国から離れた民間の統一組織にまとめたのは、占領中の抵抗の足場を作ることになった。占領軍が神社を国を使って規制しようとする試みは神社本庁という組織が中に加わり、命令が円滑に伝達できない規約などで武装していたので成功せず、日本側の予想しない間に突然指令を出して神社をバラバラな組織に分裂させようという目標も不可能にした。新設された神社本庁のもとに、用心深く、「紀元節の復活」をはじめ様々なことを将来復活させる活動を準備する道が開けた。
 紀元節の復活に努力をまずはじめたのは神職の有志、その最先端は神社新報の記者たち、神社新報の別組織に集まっていた先輩たちだった。それはまだ、GHQが神社への参拝などに厳しい規制を加えている占領の最も厳しいときから、合法・非合法の手段を尽くして展開され始めた。
 この日本版レジスタンスの由緒ある新聞社に、私は縁もあったので先輩たちに勧められて入社、途中からだが自分の生涯の働き場として生涯をささげてきた。そんな私にとっては、紀元節(建国記念の日)は、他のいくつかの運動とともに、格別に重みを感ずる記念日である。
 「紀元節」廃止の当時、私はまだ小学生であったが、渋谷の神社本庁ビルの片隅の部屋で、作戦の指導を受ける先輩たちの姿を覚えている。古い旧日本軍の外套などを着て、当時米軍総司令部(GHQ)を訪れた新報の記者は、「占領解除の後は、まず紀元節を復活させたい」と公言して憚らなかった。これにはGHQのスタッフたちも、「お前たちはいったいこの占領から何を学んだのだ」と絶句し怒りの表情を隠さなかったそうだが、彼らは屈伏させられない論を持ち、米軍支配の時代を逆転させる捨石になろうとの信念を持っていたので、ひるまずに取材を続けたという。彼らの中には軍の指導教官だった者もいた。彼らの指導を受け、後輩の戦友は戦場で戦死した。学徒出陣し、特攻隊の出撃順番を待つ間に敗戦を迎えた者もいた。靖国神社で戦友たちが待っている。記者の中にはそんな経験者も多く、生き残ってしまった自分は、これからどうしたらよいかと、神社本庁ビルに葦津を訪ねてきて、そのまま記者になった者もいた。

 土民の首狩り宗教に国際法は適用されない

 米国の占領政策は明白に国際法から逸脱していた。そのため、国際法を当然守るべき原則としていた日本政府や法学者たちは、「よもや先進文明国の米軍がここまで乱暴な違法行為はしないだろう」とタカをくくっているうちに、守るべきものの殆どを失う形となったのは先に触れた。西欧知識を身につけた日本の「自称インテリ」層の多くは、本で読んで知識を頭だけで身につけたような連中だった。うわべだけの西欧を習い、基礎にある彼らの生活観や規律や気風を歴史を見て学ぶほど、深く西欧を見ていなかった。西欧人が共通信仰をもつ者には寛容でも、異教徒や無神論者に対しては冷酷に無視又は敵視するのが当然とする感覚でいるなどとは、どの本にも書いてない。もっとも日本が戦争に敗れた時は時代の転換期で、これ以降の世界情勢は、国際法への順守意識が極めて希薄になっているといわねばならなくなってきているが。
 国際法の浅い理解は占領軍にも共通していた。神道指令や憲法改定の違法性を神社新報に突かれると反論に窮し、「国際法上の戦勝国の禁止条項は、お互いに文明国同士の場合に適応されるもの。首狩り習俗の宗教を持つ土民の文明には適応されない」などとうそぶき、だから我々は「日本を文明国並みに民主主義化してやったのだ」などと勝てば官軍、何をやっても良いのだと言わんばかりに応答した。拙父と占領軍民間情報局のバンス氏との応酬で、新報社員には忘れることのできない言葉が語り継がれている。摂父もよほど頭に来たのだろう。そののち新報社から『土民のことば』という著書を発行した。「土民なら土民でもよい。土民らしく堂々と世界に生きようではないか」というプライドががその背景に流れている。だがこんな米軍であったが、さすがに神社新報は弾圧すべき対象の機関紙ではあっても新聞社だ。その「思想の自由」を無視して、公然と弾圧処罰しそれが世界に広まるのは、占領が世界中に「民主主義の徹底のため」と自称しているだけに、避けねばならなかったのだと思われた。渋谷で活動した記者や有志の中から、逮捕者は出なかった。

 蛇足になるが、少しここで米軍の日本文化の読み違いに一筆しよう。米軍は兵力や資源もなく西欧的合理主義からみれば、抵抗は無意味と思う状況でも、「全滅」「万歳突撃」「特攻攻撃」などを含めて戦意を失わずに戦い散って行く日本人の力の根源・「大和魂」は、狂信的な国家宗教・神道に基づく独裁的な天皇制の強制があり、武士道の延長線上の行動でもある」などと愚かにも確信していたようだ。だが戦争を指導した軍や政府の教育を受けた幹部たちは一応除外して、大半の国民は妻や子、両親など家族や同胞を戦禍の犠牲から守るため、己を捨てて戦ったのが事実だ。しかも彼らの大部分は伝統の武士の出身ではなく、明治期までは地域の内戦にも加わったことのない赤紙で応召された平民だった。一般の国民は武士道には縁薄く、当時の指導者層のように、西欧知識などにも縁は遠い。ごく平凡な日本人だった。数千年以上続いた農耕や漁業中心の集団生活の中で、協力し合い家庭や集落を大切に生き、毎年村を挙げて「五穀豊穣」を祈り、社会の決まりや秩序を大事に生きてきた。そして神々に、代々己を捨てて祈り続ける帝を慕い「浦安の国」を念じ続けてきた人々(常民)だった。米国が的を射た占領政策をするのなら、明治以降の日本の知識人の中にはびこった、うわべだけの西欧文明への憧れから、髪が黒く顔は黄色くても自分らも帝国主義化しなければならぬと突っ走った欧米追従の知識人の知識の浅さを再教育して、本来は穏やかで平和を好む集団である日本人の文化を暴走させない教育をしたほうが利口だったのではないかと愚考する。命がけで抵抗する日本人を見て、戦闘力旺盛な戦闘的恐るべき民族と勘違いした際には「窮鼠猫を食む」という現象を想起すべきであった。
 相手の文化をしっかり見て対応することは大切である。日本での占領行政が成功したのは、国民が尊崇する陛下が、「耐えがたきを耐えて復興せよ」との証書を出され、率先占領政策に従われたからだ。米国は、なぜ占領が日本では成功したのかの分析ができず、日本で行った占領政策と似たようなことをその後も世界で実施してことごとく失敗した。この文明理解の見間違いが二十世紀以降の米国の諸外国への占領政策をことごとく挫折させた原因となったと私は見ている。

 明治以降の日本の文化

 西欧植民地抗争が熾烈を極めた江戸時代、日本も西欧諸国の圧力で鎖国を続けられない環境となり、維新を断行して国際社会の一員となった。進んだ西欧の「技術や知識」を取り入れて、西欧白人国家が中心である世界に仲間入りして独立を確保せねばならない時代になったと判断をした。日本は「和魂洋才」の大原則を掲げて西欧技術をも積極的に取り入れることになり、西欧白人の寡占状態であった世界地図に、有色人種の伝統的な文化を持った独立国として生き残ろうと決断した。これが明治以降の大雑把な歴史である。
 だが日本の西欧列強の独占する社会への食い込みは、当然西欧白人諸国の反発を受ける。人種差別の意識や文明の異質性など、従来にはなかった問題も生まれる。その摩擦の中で理想を求めて日本の苦しんできた歴史は、明治以降の外交史を一読するだけで分かる。日本の敗戦後、多くの非白人の国家が世界で活躍するようになったが、これは我が国の敗戦ののちにその影響として世界が変わった結果であるといえる。
 だが日本と西欧との間には、そればかりではない。西欧技術を急速に取り入れようとした日本にも大きな混乱を生んだ。日本文化の継続のために西欧技術を習得に行った者の多くが、華々しく見える西欧近代文明に幻惑されて日本を忘れた西欧文化の礼賛者になってしまったことだった。「和魂洋才」を国是とした日本が、国が期待した人々によって、浅薄な西欧理解に基づく「洋魂洋才」の国になってしまったのだ。
 そんな傾向は日本の知識人とされた政治家・軍人・官僚・学者・新聞人・教師・技術者・言論人の間に特に強くなり、一般国民の意識とは合わない方向に国が動き始めた。国民には「和魂洋才」の国是は生き続けていて、在野の民間人には国民の支持のもと、維新の精神で外国とも接しようとする日本人も多く存在し、日本旧来の社会意識が国民底辺に定着しているのに拘らず、国の方針がこれと少しずつ離れていくような現象がだんだん顕著になってきた。アジア外交などでは同じ日本の在野の活動家と西欧を模倣した国とが反対に動く場面なども見られるようになった。
 日本が「和魂洋才」の大原則を失いかけた結果が大戦に発展し、昭和の敗戦を迎えてしまったのは、そんな結果だと考えている。また、在来の日本の知識人なら、敗戦を迎えてもすぐ戦勝国にすり寄って、祖国の文化をつぶそうとするようなものはほとんど出てこないだろう。だが日本の戦後はそんな風には進まなかった。そしてその弊害が、いまの我が国の社会問題の種となっている。

 政治の表面だけを追いかけてもダメだ

 話を紀元節に戻そう。日本人を精神的に骨抜きにするには、占領軍も紀元節の禁止を大切な柱に据えたし、日本の精神文化を取り戻そうとした先輩方も、この復活を足掛かりに日本の復活を夢見た。紀元節は占領中の片山内閣時代の世論調査でも、存続を望む国民が九割を超し、「民主的」とのポーズを示したかった占領軍が、拒否権を使って排除せざるを得なかった記念日だった。
 「紀元節」復活を望む先輩方はその復活を占領解除後に求めた。だがこの日は占領解除とともには復活はしなかった。与野党政治の駆け引きの道具にされて祝日法は通らず、この日が「建国記念の日」として祝日に復帰したのは昭和四十二年の暮れであった。
 日本人の心を失った国会議員のため、建国記念の日として紀元節は遅れに遅れてようやく成立したが、国民の大切に思う精神回復の決議が国会での与野党の政治取引の道具にされて何年もつぶされ結局は見送りになるるという悪しき慣例の基礎ともなった。こんな傾向はその後も続き、「靖国神社」法案は廃案を重ねている間に復活を強く望む遺族たちは次々に死亡し、その後に新たな問題も起こって、いまだに手がつけられていない。
 それでも私はこの日には必ずどこかの奉祝大会や祭典に顔を出すことにしている。神社の紀元節祭や様々な奉祝大会に参列するが、どこでも集会は神前や特設祭壇で「紀元節祭」、皇居と神武天皇即位の地橿原を遙拝、文部省が明治時代に官報に乗せた「紀元節奉唱歌」を歌い、戦後に占領軍に実質的に押し付けられた憲法の改正、愛国心の涵養、国防力の強化、戦後の変更教育の是正などが声明として採択されたり決議される。それらの一つ一つを取り上げれば、どれも政治的に大切なことだと思うし、熱心に集う若い人たちの姿に、将来への期待を感じはする。
 特に最近は戦後政治が様々な面で行き詰まりの様相を示し、日本はバラバラだと甘く見る風潮が周辺国に強まってきたからか、国民一人一人が「こんなことで日本には将来があるのだろうか」との不安の意識も高まって、いままではどこか上滑りの感を与えてきた「自主憲法の制定」の問題や、日本人の集団意識を解体することのために教育をしているような「教育の正常化」などの問題にもうまくすれば実現できそうな気配も見えてきた。掲げられたそれらの課題は現在日本の政治上の体制を一つ一つ変えていくことは、続けていきたいものである。
 だが、それだけを私らが進めようとするだけで、果たしてこれで日本という国は我々が夢見た浦安の国、人々が睦みあう国になるのだろうか。一抹の不安を持って式場を後にすることが多い。

 政治制度を変え、法律を作るだけでよいのか

 それは今の日本があの終戦直後の世論調査の際のように九割を超す国民の支持に支えられ、あるいは昭和二十七年の講和条約の締結直後のように、三分の二を超す人々が靖国神社の国家護持の復活を求める請願に署名するような環境にいま、日本国があるとは思えない状況に私がいるからではないか。法は政治の規律であり、政治は国民生活の一部にすぎない。私は日本の社会が、いつの間にか従来の美しい心を失い、道徳も消えかけている国になってきているのが気になってならない。
 世界には立派な憲法条文を持つ国も、良き政治制度を持った国もたくさんある。だが、それだけを見てその国を評価するわけにはいかない。法律・政治の制度は大切なものだ。だが国の文化そのものは、そんな部分だけではないのを忘れてはならない。住み良い国になるためには、ここに住む人々、我が国でいえば日本人がどんな精神で生き、日本の文化を作り上げていくかだと思う。それが今、問われていると思う。
 私は日本という国が断絶ない歴史を重ね、その間に代を重ねてきた途方もない数の先祖たちが、一粒一粒の砂粒を積み重ねて作り上げてきた日本文化が大好きである。それはあの大鍾乳洞の石灰岩の柱が、一滴一滴の水滴がもたらすわずかな石灰質が何千何万年も積み重なって見上げる高さの輝く石柱になったように、日本人の先祖たちの思いが積もり積もって出来上がっているもので、祖先からの思いが積み重ねられて生きている何にも代えがたい日本の宝である。
 時まさに現代文明は、自然とは征服の対象であるという基本姿勢を基にした、あるいは一人ひとりの個人の独立を第一としてきた西欧文明の思想だけでは加速度的に発展を遂げた人間の文明が、人類破滅へと急転換するのではないかとの危機感が急速に強まり始めた時期でもある。そんな中で人類文明が生き残る道は、私は日本文明の持つ自然と調和して生きる精神的姿勢を取り入れる以外にないのではないかと思っている。
 地球で生きているのは人間ばかりではない。動物や植物、あらゆるものが懸命に生きている。山も川も海も石もそれぞれに存在を主張しているし、天候も気象も生きている。日本の文明はそんな前提に立ち、それらの万物、すべてに霊(命)がありその背後には神性があるとして、その調和の中に我々も暮さねばならないと思って生きるのが神道だ。また、人間同士は一人一人はささやかな能力しかないが、祖先が子孫を思い、夫が妻を思い子を思い、隣人から集落、国家を思い、お互いに心を配り、結びあい、協力し合う精神で連帯していくことが大切だと考えるのが日本文化の特徴だ。そんな思いが人々の間に様々な道徳や秩序を生み、まつりが生まれ、まつり主ができ、日本文化が形成された。
 いまこそ日本の文化が世界に役に立つものを提供する時代になったのではないか。私は同じ文化を世界に作れと言っているのではない。ただ、こんな我々の発想の中から、世界の文明が何かを学んでほしいと思っている。