西欧の自然観と我が国の自然観
今回の東北地方の大震災を見て、我々日本人の現在の意識が、従来の日本人の持っていたそれと比べて、いかに浅い上面だけのものになってしまっているかを痛感させられたのは私だけではあるまい。それは現代の日本人が、従来体質的に身につけてきた自然に対する恐れや慎みの意識を忘れ、自然を整復し、ともすれば対決的になりやすい西欧的知識にいつしか組み込まれてきていることに始まっていると思う。
前回にも触れたことだが、あの地震が起きた後、東北東関東の被災地においても、今回程度の大津波が何度かあったことは、日本の文献や伝承に明瞭に残されている。その中で最も特徴的で、記録の詳しいものは貞観11年(869)、陸奥の国に大地震と津波の記録だ。時の清和天皇はこの報に接し、天災が起こるのは己が罪だと自然を掌る神々のお怒りと慎み恐れて、神社への祀りを徹底して行われ、その罪は我にあり民にはないとして、復旧に力を入れられた。その陛下のお姿を見て、藤原良房以下当時の官僚たちは、それは陛下だけの罪ではない。我々民にも自然を掌られる神々への慎み惧れが足りなかったのだろうと、自分の俸禄の減額を申し出、被災地救済に力を入れた。この地震の一部始終や多くの記録が日本の史書(三代実録)などに残されている。
天皇のご姿勢、そして国に仕える百官の公務員たちの気持ち、それは現在の公務員や学者・専門家たちの姿勢とは全く違う。だが近代の学者たちは、西欧の技術のみに的を絞り、我が国の貴重な記録などは軽視して、自らがこの種の震災にどう接するかの気持ちも忘れて進んできてしまった。
「想定外」の言葉の持つ意味
これは現代日本の大きな欠陥であると思う。西欧を先進国とみて、西欧のみを見て日本の歴史を見ようとしない傾向が今では強く、その弊害は日本の各部門に出ている。地震や津波に対する対応も、ほとんどが関東大震災以降の西欧的統計数値のあるものだけに絞られ、これに基づき避難法などが練られてきた。こんな発想をして、全体を見ようとしてこなかった学者たちは、今回の災害に「想定外」という言葉を連発している。だが、その背後には西欧の自然科学のみに依存し、日本の歴史を軽視してそれで良しとしてきた彼らの頭の固い「想定の偏向」がある。「想定外」とは、専門家と称する者の視野が狭かったことを糊塗する無責任な弁だと知るべきである。
明治維新ののち、一国だけで鎖国の夢を追って生きていけないと知り、国際社会に生きて独自の国柄を維持していく覚悟をした日本は、「和魂洋才」を基本的姿勢にして今後は進んでいくことにした。西欧の最新技術も存分に取り入れながら、精神面、国民生活の意識においては、大いに日本らしさを生かして日本文化の個性を保持していこうと決断したのだが、いつしか西欧技術の前に日本の文化意識を見失ってしまい、西欧に礼賛してかぶれてしまった。こんな日本の新知識人によって、いつの間にか日本は伝統軽視、西欧追従の形になってしまった。
先にも触れたように、日本文明はこの世界を「万物の調和の下での共存」を基本として出来上がっており、この世の中にあるあらゆるものは、我々人間と同様に、すべての動植物から石や海山川、風雨や空気が価値のある大切なものであり、人はそのことを忘れずに、また仲間同士で協力し合って生きていかなければならない」との基本姿勢に立っている。そんな思いから「すべてのものには皆、霊性があり、それを掌る神がいるとする神道が文明と価値のある大切なものであり、人はそのことを忘れずに協力し合って生きていかなければならない」との基本姿勢に立っている。そんなすべてを掌る神がいると大切にする神道的感覚が文明と不離一体になって継承されてきている。
西欧では自然は挑戦し克服する対象
西欧の学問はキリスト教の旧約聖書を基礎にして自然に対して「人間が挑戦し征服する相手」ととらえる発想で成り立っている。それは日本と西欧の人々の歴史的な複雑な相違から生じたものだが、厳しい自然に対しても、完全と勇気をもって立ち向かい、これを征服することによって自らの存在を主張するというのが精神的基礎にあるといえるだろう。集団を重んずるわが文明よりも、多くの民族が共存していたため、人の発想がどうしても一つの宗教の信者に絞られて、自立した個人を追及する文明精神の上に成り立っているが、それでも最近はかなりの異教徒間の広がりも出てきた。
そんな違いに対する前提の認識もなく、西欧の産業革命以来の素晴らしく発展した技術の発展を状況を見てあこがれて、己たちの積み重ねてきたものを忘れて暴走してしまったのが我が国の専門家や公務員など、いわゆる日本の知識人と自認する者には多い。その軽薄さが露骨に表に出てしまったのが今回の地震・洪水騒動であった。
だが、その西欧文明の積極果敢な自然に対する勇気は評価するとしても、現実的にそれでは人間がどれだけの力を持って自然そのものと対抗するだけの力を持つことになったのかは冷静に知らねばならない。
地球上では異常気象といわれるような現象が繰り返される。水害ですべてを流される事故、旱魃で農作物が全滅する事態、台風や竜巻、地震、津波・・・・。異常な生物の突然の発生、地球上にはこの種の我々人類にとっての予想もできない事態はいつ起こるかは分からない。だが人間はまだ、それらから身を守るためにあらかじめ天気予報や地震予知などで被害を事前に予知することもできないし、ましてや台風ひとつ、そのコースを変えることなどまだまだ当分できそうにない。
自然のもたらす災害に対しては、人間のエネルギーではとても「征服」などできるものではない。人間と大自然、その持つ力はあまりにも違いすぎる。そうなれば、我々は傲慢な力を持って自然の威力を押しつぶすより、その膨大なエネルギーの前に、我々がいかに被害を受けずに生き延びて、ほんの少しずつであっても、治山治水に努力して、環境を住み易いものにするために自然を汚す水や空気を浄化して、いま、急速に増加しつつある人間の営みのもたらす地球汚染の累積が、人類そのものの将来の絶滅から逃れうるかに努力する以外にないのではないだろうか。そうなればその結果は、西欧文明で行こうとしても、日本が今まで自然そのものに霊性があり上がいるとして、その神々のために祭りを欠かさず、神を敬い、また神を畏れて生きていくという方針と同じ道を歩む以外にないのではないだろうか。
私が決して「和魂洋才」の精神を日本人は忘れてはならないと主張する根拠はここにある。
今回の東北大震災に向かって主張したいところ
二年前に起こった東北・東関東大震災に対しても、私はあの清和天皇の同地に起こった震災に対する基本姿勢を基に、全国民が協力してことに当たる純粋な精神姿勢を維持するべきだと考えている。そして恐れ多いことだが、天皇陛下の報道されるご日常を漏れ聞くに、陛下はあの時の帝と同様のご姿勢で、地震からの民の生活回復を祈り続けておられるのを感ずる。今上陛下のこれらの災害に対するご姿勢は、中越大地震においても、関西大震災においても、その他の災害においても変わらないし、これは日本国の歴史とともに、代々続いてきた日本国統合のまつり主として少しも変化することがなく続いてきている。
問題はそのもとに行政を担当する役に就いていた百官の役人たち(政府や地方の公務員、政治家や専門家と称する集団を含む)の精神姿勢、そして国民たちの取り組みである。貞観地震のあの時のように藤原良房以下時の官僚たちが、自らの報酬を辞退してでも、一刻も早く津波や震災に襲われた地帯の原状回復に身命を賭して打ち込んでいるのだろうか。それを見て企業や国民が「震災の解決がなければ日本の明日がない」との思いを共有して震災復興にすべてに優先して取り組んでいるのだろうか。どこまでの復興を持って良しとするのか、どの程度の耐震・対津波対策を立てて、それ以上はどのような対応をするのかなど、具体的なことにまでは触れない。科学技術は1200年前とは比較にならないように進んでいる。それに応じて耐震・対津波対策も相当当時からは発達している。情報量なども比較にならない。そんなものに基づいて精一杯に進めるべきだろう。一刻も早い、避難している被災者たちが再び集まり、明日に向かって明るい笑顔をして和やかに働ける郷土の復活、明るい笑顔のあふれる被災地への復活を望むものである。
最後に原発について
今回の東北大津波に関して、我々が最も大きな反省をしなければならないのは原子力発電所のもたらした処理不可能な事態への収拾策である。まき散らされた放射能は現代の科学技術では完全に回収して無害化できないものである。汚染処理などという作業が進められているが、それは危険な放射能を含む物質をかき集めるだけで、まだ集めたものの無害化はできず、また除染などと言って水で洗えば最終的にその水はその水は海中にまき散らされるなど、やはり放射能を含んだまま拡散される。人類はまだこの放射能の無害化技術を発見していないのだ。それなのに、なぜこんな状況で原子力発電所を開発したのか。こんな決断は人類文明にとってなんの理解もない許されぬ暴挙であったと私は思っている。
いままでに人類はフッ素ガス、アスベストを始め様々な有害物質など、放置すれば人類文明を破壊する恐れのあるものが出てくると、国はそれらを次々に製造禁止にした。それなのに、なぜ原子力発電所から出る危険な放射能物質が比較できないほどに有害であることを知りながら、これを実用に供することにしたのか。
「電力需要があるからやむを得ない措置であった」という説明は論理の整合性が立たない。「いま、贅沢をしたいから、子供や孫の名で膨大な借金を作って遊び歩く」というのとよく似ている文明の将来を考えない弁解だ。残留放射能の安全な消去技術が開発されてから原発利用は北朝鮮のミサイルや今回のような地震や津波に対しても万全な対応措置を固めてのちにいうべき言葉であると私は思う。
福島原発の放射能が消えるまでは、たとえ鉄筋コンクリートに密閉して保管をしておいても、密閉容器の耐久寿命のほうが短く、膨大な放射能物質があふれ出る危険性があるし、これは全国にある既存の原子力発電所にも共通する問題である。
また、私は神道人である。日本人はすべてのものは神々が作られた大切なもので、それらは神々の感謝して大切に使わせていただいて、使用ののちには立派に元の姿に復元してお返しするのが常識だとの精神で暮らしている。だが、放射能物質は神々がお認めになる大地の資産といえるものだろうか。また、今回もなかなか原状に回復できない放射能に汚染された国土も、大切なその土地を見守られる神々の統べられるわが日本の領土である。それを人も住めない荒野にして放置する。これが神々のお気持ちに沿うことなのだろうか。天かける神々ばかりではない。そこには大切な我々の先祖の墓もある。先祖が子孫のために残した鎮守や美しかった田や畑もある。美しい山や海や川もある。神々は我々に御利益を与えてくださるだけのものではない。我々の行い次第では大きな神罰をもおあたえになるものであることも忘れてはならないと思う。