葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

鎮守のまつり、年々盛んに

2011年09月12日 18時05分02秒 | 私の「時事評論」

 私と鎮守の神社

 まつりの華やかさで全国に知られた有名神社ではない。どこにでもある郷土の鎮守で常勤の神主さんもいない。だがそれを支える人たちが熱心で、最近、毎年祭りが賑やかになっていく。
 そんな光景を目の当たりにするのはなかなか楽しいものだ。とくにいま、まつりに取り組んでいる中心人物のひとりI君(仲間もいるから、特定の個人の力とは表現し難いので、特に名を上げない)は私の小学校時代の同級生で、代々この町に住んでいる男。私が彼と知り合ってもう65年を越すが、いつも笑顔で話しあう幼馴染だ。

 場所は神奈川県鎌倉市、神社はこの町の昔ながらの古い地区、大仏や観音はじめ多くの社寺があり、海にも近い長谷地区にある。神社はここに源頼朝が幕府を立てて、多くの寺宮が建立された鎌倉時代より以前から、奈良や京都から南関東や東北地区に向けて旧い東海道がこのすぐ前を通っていた和銅年間(710ころ)創建とされ、日本最古の神社名簿の載る延喜式神明帳にも式内社として名を連ねる甘繩神明宮である。

 鎌倉時代の武士たちもこの神社を大切にしていて、頼朝も参拝を欠かさなかった古社であり、由緒もそれなりにある。境内も整い、背後の山・神輿ヶ嶽の中腹の拝殿からは眼下に相模湾をはじめ、三浦半島から伊豆の大島、半島の伊豆や天城の連山、由比ヶ浜に面する鎌倉の市街が一望に見張らせ、いまは境内から住宅街の細道になってしまったが、参道を降りて長谷大通りに達し、いまはここまでで参道は終わるが、さらにまっすぐ南に伸びる路地を進むと、五分ほどでやがてまっすぐ由比ヶ浜海岸の稲瀬川河口に接する。

 神明宮はかつて、相模湾から江の島、鎌倉、さらに房総や奥州への街道を通る人々や周辺の住民、海岸の漁業関係者にも深く信仰されていたのだと思われる。鎌倉に頼朝が幕府を作るはるか前に、源頼義が当社に祈願した結果、八幡太郎義家が生まれたなどという話も伝わっている。もちろん、義家もこの神社を大切にした。

 神社には私も、小学生の時代から、ステッキを杖にゆっくり散歩するようになった現在まで、遊び場として、散歩道として、そして思索の場所、参拝の場所としてすっかり慣れ親しんできた。

 私は十年ほど前に、同じ鎌倉市内で家を見つけて転居をしたが、この神明宮が大好きであったので、ここ長谷からよそに動くことは考えられず、新しい住居も以前の住所からほど近いこの神明宮を挟んだ反対側のマンションに移った。それほど私には離れられない神明さまだ。いままでに何百回、ここに参拝をしたことか。


 信仰を示す境内の結構

 父ばかりではなく祖父も曾祖父も、遠く鎌倉時代以前から、九州の八幡様に奉仕してきた祀職の家に私は生まれた。しかも父の後を継ぎ、全国の神社をまとめる中央組織に40年近く勤めてきた。そこで戦後の神社界と日本の社会との接点の役割を担当した神社とはきれない立場にある私だが、東京に通っていたので地元の神社には失礼だが深いかかわりはなく、折に触れ個人的に参拝し、行事の折に奉賛する程度しかつながりがない。

 逆にこの地区に住むI君は、この地域には先祖の時代から住みつき、昔からの地域の要職を務めてきた家の出身で、この神社の祭りや運営には若いころから熱心だった。やはり若いころはサラリーマンで、一流企業に勤め、ここ鎌倉から通勤していた。神社の境内でばかりではなく、通勤の途中などにも何度かは会い、同級生のよしみで、いろいろと話し合っている仲だ。彼はサラリーマン時代も地元との付き合いには熱心で、町内会や神社の祭りや運営には深くかかわっていたので、彼から地元の話や同級生の情報などを、私は自然と教えて貰う立場にあった。

 そんな我らも年を経て、ともに勤めていた仕事も終わり、地元で悠々暮らす時代になった。彼は鎮守の神明宮の実情を話し、この神社の祭りを大きく盛り上げて、神明さまの神威を広く高めようと思っていた。格別の特殊神事をもっている神社は別だが、全国の神社の大半は、初詣と例祭日に地元の参拝者が集中し、それがない時は閑散としている。これではもったいないと思っているのだろう。

 神明宮は頼朝によって、頼朝が「伊勢別宮」と定めて社殿を整備したと伝えられるが、いまでも長谷地区の人は神明宮への篤い崇敬心をもっている。戦前に、地元の大工が集まって再建したご社殿は、いまでも補修されて立派な姿を誇っている。その補修にあたった大工が戦前から我が家の隣に住んでいたので、生涯の誇りとして語る自慢話はよく聞かされた。手水舎、神輿庫、灯篭、石段、石玉垣、石鳥居、掲示板、社号標や、北条時宗産湯の井戸と伝える古井戸や握舎、由緒版なども整備されている。境内にたつ社務所こそ、いまでは長谷地区の公会堂になってしまっているが、これだってこの神明宮が歴史的に地元の人の揃って集う集会の地であり、地域の出征兵士などを町民あげて見送りした、神社と町民の結びつきの名残だろう。立派な出征地元戦死者たちを慰霊する忠魂碑も境内にはある。


 まつりで神社を活性化しよう

 I君らは、普段は参拝者もまばらで、鎌倉に集まる多くの観光客たちも素通りをするこの神明宮を活性化しようと、長谷地区の町内会や子供会などとも相談を重ねた。明治以降、立地条件の良さから東京に集まる要人たちの別荘地として多くの家が建てられ、次いで文士や画家、俳優や学者、官僚、実業家なども競って別荘を建てた鎌倉だ。だが戦後の復興の時期を経た後で眺めると、この種の大正・昭和初期の新住民たちの多くは、最近は地元の人たちと昵懇になったが、やがてそろって高齢化していった。戦後は老人・子ども・孫の三世代で住む人は急減し、街は隠居した老人ばかりの時代になった。そのうち周辺地区では、海の家や保養所だった場所、広い敷地が老人たちの隠居所だった谷戸や丘陵地、僅かに残っていた農地などが小さく刻まれて相次いで売りに出されて、一部の地域、とくに市の周辺部では、若い人口も増えてきたのだが、肝心の長谷は東京に通っていた人たちの隠居の村で、年々住人の老化が進むばかりだ。生まれた子供たちはそんな親から独立して都心や横浜などに出て行ってしまう。

 ただそれでも鎌倉は、そこに暮らした経験のある人たちにとっては環境もよく、魅力の土地だ。出て行った子供たちを見ていると、週末や連休、学校の休みなどがあると戻ってくる。休日などは多くの家から賑やかな子供の声が聞こえる。子供たちが祖父や祖母のところに遊びにやって来て、家は結構広いので、遊んではまた日曜夜に戻っていく。首都圏の最も人気の行楽スポットとしても知られる立地条件が働いているようだ。

 I君や町内会の人たちは、こんな若い層、特に子供を神社に集める神社の活性化計画を進めていった。


 まず一年は初詣の増加から

 彼らは正月の初もうでと9月の神社の例祭に先ず手をつけた。大晦日の夜から正月三が日は拝殿の扉を開けて、参賀の人に自由に拝殿で参拝をしてもらい、子供たちにはミカンなどをあげる。希望する人には神明宮の神札やお守りなども頒布した。参道の石段の下の広場では三が日、町内会の連中が主役で参賀者に甘酒とお汁粉を無料で参拝者に配るサービスを開始した。「初詣はまず鎮守さま・甘繩神明宮から」とのポスターが氏子内長谷地区の掲示板を飾った。成果は年々目に見えるものとなり、最近の正月は家族連れの参拝が引きも切らず、町内会の用意するお汁粉や甘酒も、前年より多めに用意しているのだが、いつも品切れになる盛況である。

 初詣で神社を身近に感じた人たち、特に子供は、口々にその印象を他の仲間にも報告をする。またおまいりしようと集まってくる。加えて町内会も商店街もこの神社の由緒や存在を様々な機会に人に伝える。氏子の老化が進み、陽の陰り出した神明宮への参拝は、おかげで近年、年々増加が見えてきている。

 それは一つの好循環のきっかけともなった。観光のため、鎌倉を訪れる人の流れも、鎌倉の雰囲気は好きなのだが、いつまでも同じコースでは飽きてしまう。しかしやはり休みになると鎌倉に行きたい。雑誌やテレビもそんな特集を組みだして、人が少しずつ神明宮に向かい始めた。

 「鎌倉で一番古い神社」、「頼朝が鎌倉の伊勢別宮と崇敬していた神社」、「北条時宗が産湯をつかった井戸のある神社」、「八幡太郎義家も崇敬し、吾妻鏡にも出てくる神社」、「境内から海や市街が見渡せる神社」として訪れる人も増えてきている。人々の鎌倉散策のコースもこれに応じて、大仏、長谷観音から、神明宮を経て鎌倉文学館へと歩くコースもにぎわってきて、昔からある長谷大通りの商店街も、こんな人たちを相手に新規開店する店舗で、徐々に伸びつつある現状である。


 祭礼に集まる子供の急増現象

 9月の祭りの急速な活況傾向は初詣を越えている。もちろん、正月の影響もあるだろう。さらに警察が暴力団対策に取り組んで、神社の祭礼に集まる露店の出店までテキヤ対策として規制を要請するような時代となると、それに応じた地域の人々の活動が、大きく注目されるようになってきた。それまでの神明宮の祭礼は、長谷大通りから直進する参道に夜店の屋台が並び、町内氏子たちによって宮神輿、各町内子供会の子供みこしなどが供奉して町内を一巡する恒例の祭典だった。だが、夜店の屋台は消え、高齢化により宮神輿の担ぎ手もいなくなり、子供みこしも担ぎ手がいない。こんな事態にI君たち祭典委員会は当面させられた。

 彼らはまず神輿の担ぎ手から始めた。それまでの長谷の祭りは、色彩としてはおおむね氏子である旧来からの氏子たちだけの手で行われていた。私ら昭和の初めに住みついたものは「新住民」と言われてきた古い体質の鎌倉のことだ。町内会自体にまで戦前からのこんな体質が強く感ぜられた土地のことである。このままでは神社の神輿は動かずに、子供みこしも大人が混ざって担がねばならない時代の到来であった。

 祭典委員や町内会は、まつりを広い層の楽しみに待つ、威勢の良いものにしようと企画を練った。その結果、各町内会や子供会が、新しくこの土地に住みつくようになった子どもたち、おじいちゃんおばあちゃんの家に、まつりを楽しみにやってくる子どもたちに対しても、門戸を開くことに枠を緩めた。宮神輿は、まだ古い神社の神輿は、お囃子に続いてつぎの車に乗せられて粛々と移動するが、そのあとから、町内の氏子衆を中心に周辺の祭り好きの若者男女たちが組織する神輿保存会のメンバーも一緒に担ぐ大神輿が進む計画に変更、警察などとも連絡して、車や人は最も混むが、その大半が観光客で少々の混雑増加は甘んじてくれる土曜日、日曜日に御神幸祭を派手に実施することに決定した。

 ついでにちょっと説明するが、この地元の氏子ばかりではなく、他の氏子区や藤沢などの同行の市も担ぐ大神輿は、神奈川西部の寒川神社などでも担ぐ浜降り祭などでも主役の金具を鳴らして長距離を進む勇壮なもの、進むよりは錬ることに重点を置く江戸のものとは少し違った型のようだ。甚句に合わせて足並みをそろえて踊るように進む独特の風景はいかにも神奈川県湘南地区の祭りであると感じさせる。

 祭典委員たちはこれにあわせて、様々な行事を子供らが中心の日、宵宮、神輿渡御、例祭の数日間に分けて行うことにした。

 夜店や屋台などは土、日ではなく、その前の木・金二日の夕から夜まで実施する。これには長谷の町内会や子供会が自ら主宰役になり、子供会を通して雪洞を募集して参道に並べる、輪投げ、金魚すくい、ヨーヨー釣りなどの縁日の行事、綿あめ、焼き鳥、ビール、ラムネ、おつまみなどの売店、それらもほとんど最低価格(ビール以外は100円)で関係者が自ら実施する。いくつかの出店には出て貰うが、趣旨をよく話して、安価で気持ち良い対応を望む。境内ではご婦人がたのための民謡踊りも実施する。

 こんなふうにして自主的主催に踏み切り、子供会に属するお母さん方や青年部の若者、各町内会の関係者など総出で運営に当たりだした。集まってくる子どもたちには祭典委員会から一人一人にお菓子やジュースなどをプレゼントするが、それには氏子町内会中の条件などは一切付けない。

 このため鎌倉に泊まりに来ている孫たちをはじめ、広く隣接の町内などから誘い合い、続々子供たちが集まって、年々参加者が増えて、いまでは鎌倉で最も混雑するたのしい初秋の年中行事となってきた。町内あげての協力で、みんながしっかり子供たちを見ているので、安全で事故もなく喧嘩も起こらず、子供たちは安心してのびのびと境内を飛び回っている。射幸心をそそって子供が必要以上にお小遣いを使うこともなく、小学生や幼稚園児、それ以下の子供たちにとっての天国だ。マザコン時代を反映してか、子供のおともでたくさんのお母さん方も集まってくるが、雰囲気が危険を全く感じさせないのか、売店でビールやおつまみを買って、あちこちで車座になり、おしゃべりに夢中。子供のことなど忘れたように、中には酔いで出来上がってしまうお母さんまで出てくる始末。今年などは境内は足の踏み場もないほどの大混雑だった。一体、どこからこんなに大勢の子どもたちが目を輝かせて集まってくるのだろう。

 祭典委員の中心であるI君はこんな風景を眺めながら、まつりを興して、それを基礎にして明るい集団ができればいいんだがなどと、激励に訪れた私に語ってくれた。



 {註として最後に}
 翌々日の日曜日、神幸祭も盛大に無事に終了した。大人も子供も、クタクタになるまで祭りを楽しんだ。
なおこの書き込みは横で第三者として眺めていた私の印象記であり、細かいところでは私の憶測違いの部分があるかもしれない。そんな点があればご容赦を。

 なお鎌倉ではこの長谷地区の隣に、またちょっと違った形で活発な活動を続ける御霊神社(権五郎神社、宮司さんも在勤)という古い歴史をもつ神社もある。地元坂の下海岸の漁業信仰者の崇敬が篤く、いまでは周辺の人も協力して、氏子は少ない地域だが、活発な活動が感ぜられる神社だ。やはり神社が中心になり、街がまとまりを強めつつあるように見え、私が毎朝起きるとすぐに、神明様とともにご挨拶に参拝する神社だが、こちらには「孕み人行列」(面掛け行列)という文化財としても興味のある頼朝もびっくりのユーモラスな仮装行事も付随して、我が甘繩神明宮の一週間後(今年は18日)に例祭が行われる。