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日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

私の視点 武士に二言は…

2007-12-19 13:06:04 | Weblog
 巷間、またメディアでも責任ある立場の人たちの今年言い放った無責任発言が話題になっている。

 今年起きた数々の事件や不祥事を表現するには、確かに「偽」というひと文字は核心をついている。だが、これは、今年に限った特殊な流れではない。日本列島にはもう長い間、不信感が充満し、人々の生活は倦怠感と共に重い空気に覆われている。

 このところ、私はこのことに集中して想いを馳せてきた。日本人が自分の発言に誇りを持たなくなってしまったのはなぜだろう、いつからのことだろうとも考えてみた。今思えば、あの戦争(第二次世界大戦)がやはり「日本」を「日本人」を、そして我々の思考回路を大きく変えたのかもしれない。

 天皇を神と仰ぎ、その天皇から発せられた命令を、天命だと国民の前に掲げ、軍国主義について来させた軍部と一部の政治家たち。また、たとえ「天命」に対して、たとえそれに軍部の演出が加えられたにせよ、疑問の声を上げることなく従順に受け入れ、この国を戦争に突入させてしまった国民たち。

 数千万人もの人命を奪い、アジア各地の、そして日本の国土を焦土と化した戦争に対する責任はどこにあったのか。その検証・総括も本格的にしないままに一部の指導者や軍人を「あの世」に送り込むことだけで幕を引いた戦後処理。そして、スタートした「戦後ニッポン」。もうそこには、恥も名誉もなく、指導的立場にあった者も軍国教育の最前線に立っていた教育者も、乗り込んできた進駐軍に、戦時中は「鬼畜米英」と唾棄してきたはずなのに、尻尾を振って従属の道を歩んだ。

 日本には「恥の文化」が骨太く存在したはずだ。名誉も人々の精神的支柱のようにあったはずだ。あの時点で我々の親たちの世代は、文字通り恥も外聞も捨ててしまった。恥や名誉にセットのようについている責任という言葉も当然のことながら日本から消滅した。

 そんな大人たちを見て次の世代が尊敬の念を抱くはずがない。その辺りを鋭く見抜いた若者たちは、大人社会に数々の矛盾点をついた。それに対してまともに取り合わぬ大人たちに若者は身体を張って精一杯抗った。それが、団塊の世代に代表される労働・学生運動であった。東京の中心街では毎日のようにデモが起こり、警官隊との間で流血騒ぎとなった。歩道の敷石が消えたのは、学生たちがそれを割り機動隊に投げつけたからだ。

 そんな若者の反抗も対米追随外交という大きな流れの中で声を失い、敗北感に打ちひしがれた若者は、長い髪をバッサリと切り、穴だらけのジーンズを脱ぎ、ビジネス・スーツに身を固めて企業戦士に豹変した。

 団塊の世代が赤旗に代わり経済成長という御旗を掲げて仕事にまい進すると、日本経済にエネルギーが満ち溢れるようになり、国際競争力は一挙に高まり、80年代、日本は経済大国へとのし上がった。

 しかし、ただ闇雲に突き進むだけで、我々に精神的支柱はないに等しかった。目的意識がなかったといっても過言ではないだろう。だから、経済的な余裕は生まれても精神的な豊かさは欠如したままであった。一部で危惧する声が上がっても、社会全体で行く末を危ぶむ空気はないに等しく、それらの少数派の声は、「経済成長」の大合唱の前にかき消された。家庭や教育現場の崩壊の兆しは随所で見られたが、被害に遭う者は、「だらしない落ちこぼれ」の烙印を押されて社会からはバッサリと切られた。

 現在の世の中は良いにつけ悪いにつけ、団塊の世代が作り上げたと言っても過言ではない。そんな親たちの世代に何か胡散臭さを感じるのだろう。20,30代は、このところ少しずつだが疑問の声を上げ始めている。今のところ、「失われた世代」などとひどい言われ方をされ、見下されてきたせいだろうか、大声で団塊の世代に正面切ってその責任をあげつらうまでに至っていないが、このまま行けば問題点が拡大して大問題になり、「失われた世代」の団塊世代への復讐が始まることになりかねない。

 政治家で言えば、舛添要一氏なんぞは団塊世代の真っ只中の1948年生まれだ。彼が言の葉を発するたびに、恥を名誉を、そして責任を忘れた自分たちの世代の醜悪な姿を見る思いがしてならない。

 舛添氏だけではない。彼を攻める側にいる民主党の菅直人氏や鳩山由紀夫氏も同じ世代だ。彼らに共通する言葉の軽さ、責任逃れの巧みさが今の世の中を歪んだものにしていると考えるのは私だけだろうか。

 自らの過ちを認めない。また約束したことをすぐに違(たが)えて都合の良い方向に摩り替えること。こういった日本の指導者たちが平気でやることは、日本ではかつては恥と考えられていたことである。ところが現代ニッポンではこれがどうやら「恥」とは取られなくなった様だ。

 そう考えてくると、今の日本に大事なのは「恥」という言葉に代表される真摯な態度ではないかという所に行き着く。そこで、私自身への戒めも含めて、日本社会で言い伝えられてきた言葉の重さを表現した古人の金言を最期に書き加えてみた。

 君子(武士)に二言なし
 武士の一言金鉄の如し
 弓矢取る者の言葉は綸言(りんげん)に同じ
 綸言汗の如し

(注)綸言汗の如しというのは、君主の言葉は、一度出た汗が再び体内に戻らないように、一度口から出たら取り消すことができないという意味です。

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