浅井久仁臣 グラフィティ         TOP>>http://www.asaikuniomi.com

日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

私の視点 罪を憎んで…

2006-06-15 14:44:25 | Weblog
 私の小学生の頃の遊び場の一つに「大岡越前の守忠相邸跡」があった。大岡越前の守は、江戸に呼び寄せられる前は、私の生まれ育った愛知県岡崎市大平に本拠を置いていたのだ。邸跡は私が通った男川小学校のすぐ近くにあった。

 そんなことから大人たちはよく子供たちに大岡裁きの話をしたものだ。学校の教師も例外ではない。特に、私が大好きであった、5,6年生の担任であった山田徳丸先生は、得意の社会科の授業だけでなく、折に触れて大岡裁きを授業や生活指導に取り入れていた。

 それだけに、罪を憎んで人を憎まず、という精神は、私の座右の銘というわけではないが、大きな影響を与えてきた。そして今も要所要所で警鐘を鳴らして教えてくれる。

 そんな私に“埋め込まれた”「体内警報機」は、事件や事故が起きて、社会全体がひとつの方向に流されると確実に作動する。「9.11」「対イラク戦争」「福知山線事故」の時には、体が震え上がるほどの音量で警報が鳴ったものだ。

 警報機は、今回の秋田の男児殺害事件でも警報を発した。事件を巡って繰り広げられている狂乱ぶりを見ていると心が痛むのだ。確かに、容疑者のふてぶてしい言動には、心情的に心を寄せる部分は感じられない。彼女の言動に反社会性人格障害が見られるとの指摘にも反論材料は見つけられない。だが、どこまで容疑者をいたぶれば気が済むのか。これでは集団暴力ではないか。ニッポン全体が寄ってたかってこれでもかこれでもかとばかり徹底的に容疑者をいたぶっている。

 この集団イジメに似た「魔女狩り(もちろん本来の意味とは違う)」騒動はいつものことだが、マスコミの過熱報道によって引き起こされる。今回も同様だ。新聞などはさすがに数日前から流れが変わったが、テレビや週刊誌は目を覆うばかりだ。私の周りにもマスコミ報道に辟易している人は少なくない。

 これも視聴者や読者の「見たい・知りたい」という強い欲求がそうさせていることは事実だ。なぜなら、TVや週刊誌は、放送や出版したものの評価が、それぞれ視聴率又は売上げという数字で如実に現れるからだ。

 ただ、これほどの事件であっても、毎日新しいネタがあるわけではない。すると、あちこちから関係者を引っ張り出して、顔出しせずに語らせる。また、目新しい分析をする専門家がいれば、それに飛びつくのもこういった報道の特徴だ。

 今回何人かの専門家の口から「反社会的(性)人格障害」という言葉が語られているが、私などはこのような段階でこの言葉を使って容疑者の性格を断定してしまう危うさにおいおいと思わず声が出てしまった。また、昨日行なわれた容疑者を接見した弁護士が、容疑者の「(豪憲君に対して)嫉妬のような感情が無かったとはいえない」などという発言を記者会見で紹介していたが、弁護士の職務をもちっとお勉強されたらと言いたくなった。

 確かに、報道を見ている限りにおいては、容疑者が罪を犯した可能性は限りなく100%に近い。だが、だからといって、この国も法治国家だ。マスコミばかりか市民一人一人が法の精神をきちんと理解して、起きた事件を騒ぎ立てないように努力せねばならない。我々は警察官や検察ではない。ましてや、刑を言い渡す裁判官ではもちろんない。

 私が何故に狂乱報道を戒めるかと言うと、世論に与える影響の他に、このような馬鹿騒ぎが警察や検察の捜査に影響を与えかねないと考えるからだ。最近、警察や検察が必要以上にマスコミ報道を意識しているが下手をしたら警察や検察の焦りを買い、冤罪を招いてしまうこともありうる。

 冤罪事件は昔のものではない。11年前のサリン事件の河野さんしかり、バングラディッシュ人のイスラム・モハメド・ヒムさんを苦しめた「アル・カーイダ冤罪事件」にいたっては、まだほんの数年前に起きたことだ。つまり、今もいつ起きても不思議ではない土壌がこの日本にはあるのだ。その土壌を醸成しているのが、マスコミの狂乱報道であり、それを喜ぶ国民性だ。

 だからといって、誤解しないでいただきたい。私はこの事件に冤罪のニオイがするといっているわけではない。このようなことを書くと必ずといっていいほど、そのような指摘があるから事前にその点を明確にしておく。

 「罪を憎んで人を憎まず」は大岡裁きで有名だが、この考え方は、日本の専売特許ではない。この、とかくわれわれが陥りがちな傾向を戒めるための古人の教えは、古くは、キリストの教えにあるということだし、それを受けて「Condemn the offense, but pity the offender」という慣用句が生まれたと言われている。

 この辺りからして、古の代からこの種の犯罪は存在して、人は感情的になりやすく、集団いじめが発生しやすかったのだろう。形は違えど、いつになっても我々人類は集団いじめの味が忘れられないということか。 

 大岡越前の守が生きていたら、今の狂乱を見て恐らくこう言っただろう。

 「あんたら、みんなで寄ってたかってなに言っとるだん。冷静になりん。犯人の裁きはわしらがやるだで、任せとりゃあいいだがん。ほうだら?」

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2 コメント

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マスコミ叩き (石上のだんな)
2006-06-16 21:43:34
浅井さんの言い分はごもっともだと思います。容疑者が逮捕されてからというもの毎日のように容疑者叩きが過熱しているように思えてなりません。テレビには毎日のように容疑者の顔がドアップで報道され、お子さんを亡くされたご遺族の気持ちを思うと胸が潰れる思いです。自分がもし被害者だったらと思うと容疑者の顔を毎日テレビに流されるのは嫌悪感でいっぱいです。周囲の人間や過去に勤めていた職場の人達にまでマイクを突き付け根掘り葉掘り聞いている姿を見るともし自分が同じ立場になったらと思います。昨年の福知山線の事故の時もとても他人事とは思えませんでした。マスコミには他にもっと報道して欲しいことがたくさんあるのに、この事件だけに一極集中しないで欲しいです。
私も何か違和感 (意義~太)
2006-06-16 01:43:24
浅井さんの意見に賛同します。

下手をしたら過激なコメントが殺到しそうなことを、よくぞ書いてくれたと思います。

私も、メディアの畠山容疑者総ぶったたき状態に違和感を持っている者です。もちろん男児を殺害したことは許せない。最低の人間だと思います。擁護するつもりはまったくありません。ですが、それをメディアがこれでもかとばかりに叩き、多くの人がその論調に乗っかっている状況には何か嫌な感じを持っています。「自分も大したことはないけど、あの最低女よりはマシ」とワイドショーを見て確認しているようで…。自分より劣る者と比べて、自分を慰めているというか。そんな風潮に、今の日本の社会の元気のなさが現れているような気がしてなりません。