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日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

松葉杖物語 チョ~~~順調な経過、と思いきや

2005-05-28 17:30:10 | Weblog
 くるぶしを骨折してから3週間の昨日、病院に診察を受けに行った。
 経過はすこぶる順調。ギブスを取って患部を見ることになった。ギブスは電気カッターで半切され、久方振りのわが「弁慶の泣き所」との面会は劇的なものになるはずであった。しかし、そのカッターの音を聞いた途端、音に敏感に反応する私は看護婦に「大丈夫?」と訊ねた。看護婦は私の不安を気にする風もなく、カッターをギブスに当てた。しかし、明らかに異常音がする。
 しばらくしておかしいと気付いた看護婦は、何かごそごそやり始めた。あまり電気カッターの恐ろしさが分かっていないのだろう。その扱い方を見て冷や冷やする。なにせ、回転盤がきちんとハマっていないのに電源を入れている感じだ。下手をしたら遠心力でカッター盤はあらぬ方向に飛んでしまう可能性がある。
 幸いなことに、彼女は医者に助けを求めた。医者は電気カッターの怖さを承知しているのだろう。落ち着いた対応で、慎重に扱って回転盤をはめ込んでくれたようだ。そのままその医者がギブスの半切をやってくれるかと期待したが、彼は忙しいらしく診察室に消えてしまった。
 気を取り直して、看護婦はカッターをギブスに当てた。見ていると緊張するだろうからと見て見ぬふりをする。しかし、その手つきはあまり熟練しているとは言えず、結構怖い思いをさせられた。ギブスを切り取った後、カッターで肌を切ってしまうことはないかと聞いてみた。
 すると、意外にも「ありますよ」との正直な返事。
 医者はX線写真を見て足を触診した。そして出した診断は、半ギブスで大丈夫。風呂に入ってもいいし、風呂で足先を動かすこともいいと言ってくれた。帰りの車の中で開放感を実感しながら足を延ばす。
 夜は風呂に入って「垢すり」をした。すると、こすれどこすれど、出てくるわ出てくるわ。人間の身体からはこんなに垢が出てくるものかと驚いた。
 とここまで書いて、今日はパートナーは出かけているし、天気もいい。明日のメディア塾の資料調べに図書館に自転車で行ってみようと、外に出た。図書館に自転車でと思ったのは、家と図書館の間には坂道がなくて、「片足こぎ」でいけると踏んだからだ。松葉杖は短かく出来るのでギターケースに入れて行けばいい。
 片足こぎで自転車に乗ることを想像して家の前の階段をコツコツ(コレ、松葉杖の音)。
 しかし、コツコツは10数回で終わり、次に「ワォ!」との野太い声と共に、ドスンという鈍い音が辺りに響いた。そう、私は3週間前の再現ヴィデオのように階段から松葉杖ゴト転落したのだ。折角直りかけた右足首を痛めてはとかばったので今度は左足と左手を痛めてしまった。左足は膝に擦過傷を負った程度だが、左手のたなごころが痛くてしびれている。松葉杖をついてみるが、痛くてつけない状態だ。今キーボードを打つのも辛い。明日のメディア塾の講義は渋谷の先の池尻大橋だ。結構大変かもしれない。
 う~っ、この場は負け惜しみでごまかすしかない。
 おいらの人生、結構次々に試練が来て、楽しいぞ。

酷いぞ、JR東日本

2005-05-28 01:16:58 | Weblog
 乗客の安全管理を軽視して運行しているのは、JR西日本だけではなかった。私は偶然、その実態を目の当たりにすることとなった。
 27日夕方のこと。私はJR武蔵野線東川口駅から乗車して、南浦和駅で下車した。乗車したのが16時58分という学生達が乗り込む時間であったこともあり、車内はかなりの込み具合であった。私の前に幼児を抱いた母親がいたが、席を代わろうとする者がいなかった。そんな状態だから松葉杖の私を見ても席を立とうとする者はいなかった。普段「社会的弱者」に席を譲るよう声掛けする私も込み合った車内で争いごとになるのも懸命でないと、大きな顔をして席に座る若者に声をかけることをしなかった。
 問題の場面は、電車が南浦和駅に着いてから起きた。
 乗り込んだ電車のドアが階段の前に止まることもあり、乗降客の数が他のドアよりもかなり多かった。私は開いたドアの反対側に押し込まれたままであったので、降りるのが最後の方になった。降車する客の数の多さから来ることだろうが、私が降車し終わるのを待たずに乗り込んでくる客が数人いた。バランスを失いかけた私を気遣う余裕はないらしく、その後も客は先を競って乗り込んできた。
 何とかそれでも降車した私は、列の最後尾に幼児を抱いた母親がいるのを目にした。母子を気遣って先に乗せようとする者はいない。危険を感じた私は、そのドアの前から少し離れた場所で、状況を見守った。その時である。母親の身体が半分入ったかどうかという状況で、電車のドアが閉められたのだ。信じられない光景であった。
 両肩をドアで挟まれたものの彼女は何とか車内に身体を滑り込ます事ができて事なきを得た。そして電車は何事もなかったかのようにそのまま発車した。
 私は、最後部車両が近付いてくると、車掌に向かって、松葉杖を振り上げ「どこを見てるんだ」と怒鳴った。すると、なんと、彼は私に目を合わすことなく無視をして前方を見ていた。
 この駅で車掌が交代することを知っている私は、乗務を終えたばかりの車掌の責任もあるからと、声を上げながら松葉杖を最速ギアに切り換え(そんなものないですね)、車掌に向かって突進(?)した。
 降車した車掌は2人いた。2人のうち1人は駅員かと見ていたのだが、この駅まで2人とも乗務していたという。ということは、3人の車掌がいながらあのような危険な状況を作り出していたということになる。
 何という「安全管理」なのか。乗客がいながらドアを閉めてしまうことが大都会の交通機関で“常識化”しているとはいえ、今回の場合、ドアに挟まれたのは「社会的弱者」だ。JRは、優先席に幼子を抱えた親のイラストを掲げているくらいだから、特別の配慮が必要なはずではないか。
 実は2年か3年前、私自身が東川口駅で乗車時にドアに挟まれた事がある。体験者にしか分からないことだが、このドアが閉まる圧力は想像以上に強くて身体に来る衝撃は、大人で比較的体格のいい私でも痛みを感じる強さだ。その時、前に年老いた女性がいてその方が当然のことだがゆっくりと電車に乗り込んだため、恐らくそれにいら立った車掌がドアを閉めたのだろう。そう判断した私は、南浦和駅で乗務を終えて車掌室に向かう車掌をつかまえ、車掌室に乗り込み、車掌の上司である助役にJR東日本が「安全運行」を最優先するとの確約をさせた。
 「ドア挟まれ事故」は、これまで多く起きており、死者まで出ているのにその実態が意外に知られていない。10年前の新幹線三島駅で手をはさまれたまま引きずられて乗客が死亡したことは、死亡事故であるだけに記憶に留められている方も少なくないだろうが、その翌年にはJR西日本の宇治駅で10歳の少年がドアに挟まれて引きずられ、線路に転落している。また2002年には、JR京葉線の東京駅で父親ともう一人の子どもに続いて車内に乗り込もうとした母親がベビーカーを押したところドアが閉まり、ベビーカーの片方の前輪を挟んだまま発車し、男児(2歳)を乗せたまま約20メートル引きずった。不幸中の幸いだが男児は額に受けた軽いけがですんだ。最近では昨年12月、JR総武線新小岩駅で、39歳の男性がジャンパーをドアに挟まれたままホーム上を約80メートル引きずられ、3ヶ月の重傷を負っている。
 他にも、「ドア挟まれ事故」はある。しかし、その教訓は活かされず、都会では日常的に乗客をドアに挟み続けている。
 私に吊るし上げを食った2人の車掌の内1人Yは年恰好からいってもヴェテランであり、若い車掌のミスを補完したり、指導する立場にあるはずだ。ところが彼は、何を怒っているんだとばかりに薄笑いを浮かべながら、最初は自分が乗務を終えていると言い張った。私に「駅構内にいる限り勤務中で責任があるはずだ」とつかれると、Yは「後部を見ていたから目に入らなかった」と責任逃れをした。そのふざけた責任逃れの態度もあって大声で激怒する私に、乗客たちは何ごとかと見守り、駅員もすわトラブル発生!とぞろぞろと集まってきた。
 ただ、次に到着する電車のこともあるので私はその場を離れ、駅長室に抗議の場を移した。ところが駅長は不在で助役Tと話す事になった。T助役はひたすら謝罪(謝罪する相手が違うのだが)して、徹底的な調査をすると約束した。私は今回の出来事を踏まえた、今後の安全対策を含む報告書の提出を求めた。そして、「あなたが私のパイプ役ですよ」と念を押した。
 しかしながらしばらくして私の携帯にかけてきたTは、他の助役への引継ぎを言ってきた。引継ぎをして怖いのは、「情報の聞き漏れ・取り違え」だ。私は仕方なく大元のJR東日本広報部をターゲットに変えた。
 電話に出た広報部員Yはしっかりした対応で、前向きな姿勢が感じられた。たYの説明によると、今後の対応は他の部署が担当なのでと言われ、それに対しては仕方なく素直に従った。
 数時間後、私に連絡をしてきた担当者は、まず、当該電車に乗務していた車掌の聞き取り調査の結果を報告した。
 「乗客が全て乗り込むのをモニターを見て前方2両をチェックして、その他の車両を自分の目で見て確認をした後、笛を吹き、ベルを鳴らし…」
 その説明は、まるで車掌に渡されたマニュアルを読むかのようであった。早い話が、電車に全ての客が乗るのを待ち、決められた安全確認事項は欠かさず行ない十分余裕を持って発車したと言いたいようである。その説明では、車掌が乗客の乗り込み確認をしてからドアを閉めるまで最低10秒は待ったことになる。冗談ではない。それでは私が大げさに騒ぎ立てていることになる。担当者はあまり考えずに言っているのだろうが、10秒というのは、分かりにくい方はオリンピックの陸上競技の花である100メートル競走を思い起こしていただければ分かりやすいだろうが、人間の一つの動きの中ではそんなに短いものではない。全乗客が乗り込んでからそんなに時間が経過していたら母親がドアに挟まるわけがないではないか。
 さらに、担当者は、現在JR東日本が安全運行に関する「5カ年計画」を実施中で、社員計画にも力を入れていると、“丁寧に”説明した。空疎な、危機意識がまるで感じられぬ説明であった。こういったやる気のない対応を聞き流すことも出来るだろう。だが、私の中に沸々と「やる気」が湧いてきた。大人の1人として、これを許すまいという気持ちが固まったのだ。「危機管理」を専門の一つとする以上、これを聞き流してしまうことはできない。何もしないで将来、「ドア挟まれ事故」で犠牲者が出たら、特に子供や社会的弱者といわれる人たちが犠牲になったら悔やんでも悔やみきれないだろう。これまでの経験と知識をフル稼働してJRに改善を迫っていくつもりである。読者の皆さんの中で、様々な経験やお考えをお持ちの方がいるはずである。このブログのコメント欄でなくて私のメールアドレス宛でも結構です。どうぞご意見や経験談をお寄せ下さい。
 

数十人に上る旧日本兵

2005-05-28 01:04:19 | Weblog
 コメント欄にも書いたが、旧日本兵の情報は、私のパートナーの耳に入っていた。先日お伝えしたが、彼女はフィリピンに派遣されていた旧日本兵の聞き取り調査をしている。その取材先で、寺嶋さんという方にお会いしたとのことだ。
 寺嶋さんは、「慰霊事業協力団体連合会」という厚生労働省社会援護局所管の日本兵の遺骨収集などを行なう団体の会長をされている方で、86歳になった今も年齢を感じさせぬエネルギッシュな活動をされている。この団体は、遺骨収集をするだけでなく、現地住民への謝罪や被害者への慰霊、そして、遺骨収集作業の協力に対して、公民館の建設、植林、オルガンの寄贈などを行なってきている。
 家人が寺嶋さんから聞いた話では、現地に生存すると思われる旧日本兵は「数十人」。その多くが、イスラム教徒反政府組織である「モロ民族解放戦線(MLF)」の支配下地域に置かれているようで、MLFとの関わりも微妙なものがあるようである。
 それにしても生存されている旧日本兵の心中いかばかりなものか、我々の察して余りあるものがあるはずだ。今話題になっている靖国神社に祀られているA級戦犯たちの言葉を忠実に守り、「死んでも捕虜になるものか」と、頑張ってこられた。われわれの想像をはるかに超える、艱難辛苦を乗り越えてこられたであろう。それを考えると、皆さんは、余生を思うがままに暮らす権利を有すると考える。日本政府は、直ちに全力を上げて全員と連絡を取り、居住場所の移転を希望される方には、願いをかなえて差し上げるべきである。