大野 勝彦
真夏日4連チャン、行ってしまう6月も夏らしくグッドバイ。
今日は少し扇風機を回したけど夕方になると涼しい風が吹いた。
昨日は「小野ヤスシ」今日は「地井武男」の訃報を聞く、70歳ちょっとは早すぎるとすごく思う。 年齢が近い人の死は実感として身近に感じる。 人は確実に死ぬ、死期って感じるものなのかな、それはちゃんと受け入れられるものなのかな、怖いだろうな、でもみんなちゃんと死んで行く。 みんなが出来るんだから私もできると思う、だいじょぶダ~~
十分生きた・・・いつ死んでも良い・・・そう思ってるのに、
怖い・・・不安・・・思いとうらはらな言葉が浮かぶ。
人間らしいな。
そんなに齢の差がない人が逝くのはと悲しいことです
誰にでもいつかお迎えがくるんでしょうね
まだ自分の死について考えたことはありません
他界のことを誰も教えてくれません
「十分生きた いつ死んでも良い」
これって凄い立派なことだと尊敬します
心と体の若さを保ちながら暮らしたいです
誰にも一度だけ訪れる士が怖いですね。
その時、痛いのだろうか? 苦しいのだろうか? と考えてしまう。
「十分生きた・・・いつ死んでも良い」とは、完全燃焼した方なのでしょう。
「アリさま」は、チャランポランの生臭人生でしたので、未だに「未だ逝きたくない。モットやりたい。」
現実的に考え、受け止める事に懸命?です。
私の実母は、12月25日に入院して12月30日に52才の若さで、アット言う間に病死しました。その時の私は中学1年でした
それからすると私も随分長生きをしたんであろう~と思いたいが、それでもまだ「十分生きた、いつ死んでも良い!」とは決して思わないし、まだ逝きたくないです。
逝く時、逝く人は、その突然まで、決して逝きたい!とは思っていないだろう?と、思う。
欲なのか?何なのか?それが明日なのか?何年後なのか?全く分からないのが?その人、その人に決められた命なんですね~。
それまで・・・・生きる事にします
遺影?だけは用意してありますが、その時からすでに8年程も、まだ生きているので?写し直し?が必要かな?
家だって築65年と聞くと凄いと思いますし、鍋、釜だって洋服だって、物すべて65年も持ちこたえているって凄いと思うのです。 人間の命と比較対象はできないと思うのですが、私は地球上の生ある、形ある全てと比較してしみじみと65年もよく持ったなぁ~と思うのです。立派でも何でもありません。
「十分生きた・・・いつ死んでも良い」とは、完全燃焼した方なのでしょう。
違います、諦め?に近いと思います。親に関わり、何をやってもやり甲斐のない空しさにほとほと生きるのを辞めたくなる時があります。
十分生きた・・・は実感です、本当によく生きたと思います。
考えてみると色々なことで、私はその日暮らしの様な生活です。 当然ですが親も私も年をとる一方ですから、認知症も介護も今より状況が良くなる筈がありません、世の中の状況もですね。
一日が終わり一日が始まる、明るい先へと続かない単に消化している一日の積み重ねです・・・だからその日暮らし(笑)
遺影ね・・・写真屋で撮ったのは気に入らないので破棄しました、スナップ写真で切り抜いて使わなきゃね・・・良いのがないと云うか、それなりに写ったのばかりです だから何かの影響で間違って綺麗に撮れた写真を使いたい、それまでもうちょっと生きなきゃね。