土曜日の新聞には、映画の旅人という別紙がついてくる。
今日の紙面は、なつかしいタイトルが目にとびこんできた。知ってる映画や、思い入れのある作品が取り上げられているとうれしい。
山形市内の学校では、小・中・高とそれぞれ、音楽教室、演劇教室、映画教室・・・というのが、ワタシたちの時代にはあった。(今もあるのかな?)
学校ごとにブロックわけされていて、学校の体育館などでなく、市内のホールでの鑑賞だった。
演劇教室は、演劇鑑賞会(労演)と連動しているような、今思い返しても、質の高い作品に触れていた記憶がある。
映画教室は、「走れメロス」「アラビアのロレンス」そして、「デルス・ウザーラ」だった。中学校の映画教室の内容を、はるかに時間が経った今でもしっかり記憶しているって、すごいことではないですか!?
作品の素晴らしさが、そうさせるのだと思います。細かいストーリーは覚えていなくとも、一流のものに触れた時の、あの奮えるような感覚・・・!!
ワタシの人生においての、なにものにも代え難い財産だと思います。
きっかけ、というのは、ものすごい偶然に、他人から与えられたりするもの。
与えた方は、自分がしたことの影響力なんて予想もしていないのかもしれない。でも受けた側は、そのことでどんなに自分の人生が豊かになったか、自分の人生を豊かにしてくれた名前も知らない相手にお礼をいう代りに、自分もそんなふうに、生きよう、って心に思うのかもしれないな。
小学校の時、一番仲のよかった子が、ある日、「ワタシ合唱団に入るんだ」と言い出した。山形の地元の児童合唱団。試験があるという。ワタシは、合唱など特別興味もなかったが(むしろスポーツの方が好きだった。)その子と一緒にいたいばかりに、自分も試験を受けると言い出した。名ばかり試験(多分、全員はいれる?)にワタシも合格、となった時点で、なんとその子は、秋田に転校することになってしまった。。。ワタシは、その時点で、辞退してもよかったとも思うけど、なぜか入団して続けたんだよね。だんだん楽しくなっていった。出来ないことが出来るようになるのは、楽しいことだったから。団員は、その頃100名はいた。しょっちゅう合宿や演奏会があったし、東京NHKホールの舞台でも歌ったのだ。今では考えられないことだな。昔は今みたいに、スポ小とか、習い事の種類もなかったからね。
「この子をヨーロッパに行かせた方がいい。」小学生だったワタシのことで、そんな風に親に話してくれた歌の先生(ワタシはそんなこと全く知らなかったけど、あとで母に聞いた。)それに答えた両親。ーなんか、合唱連盟のはじめての試みだったらしい。ヨーロッパ公演。山形からは、最多の7名の参加者(うち小学生が2名)全部で30名くらいのメンバーが日本各地から集まって、あらかじめテープで渡された自分のパートを練習してきて、東京代々木のオリンピックセンターではじめて顔を合わせて、数日間、朝から晩までのリハーサル。ほんとに楽しかった。。。こんなに楽しいことがあるんだな、って思った。海外なんて、あの頃の山形の小学生には、1ミリだって、自分の世界の視界には入ってなかったはずだもの。。。
劇団民芸の「奇蹟の人」公演の時、ワタシに花束贈呈の役をくれた。・・・「ウォーター」という言葉の存在に気づく奇蹟のシーンは、間近の待機していた袖から見る事ができた。憧れの奈良岡朋子さんを目の前に、ヘレン役の土部歩さんに花束を渡した・・・・(数年後、ワタシはあの時のヘレンに、タップスタジオで再会することになりました。ステップ教えてください、って声かけられて・・・気絶しそうだった・・・笑)
まだまだあるけどね(笑)
ありがとう、が言えてないんだ。とてもお世話になった人たちに。言葉だけじゃなくて、なんとか少しでもカタチにして・・・って思っちゃうから。
「ワタシは、、、、相変わらずだけど・・・今日も歩いてます。」
今日の紙面は、なつかしいタイトルが目にとびこんできた。知ってる映画や、思い入れのある作品が取り上げられているとうれしい。
山形市内の学校では、小・中・高とそれぞれ、音楽教室、演劇教室、映画教室・・・というのが、ワタシたちの時代にはあった。(今もあるのかな?)
学校ごとにブロックわけされていて、学校の体育館などでなく、市内のホールでの鑑賞だった。
演劇教室は、演劇鑑賞会(労演)と連動しているような、今思い返しても、質の高い作品に触れていた記憶がある。
映画教室は、「走れメロス」「アラビアのロレンス」そして、「デルス・ウザーラ」だった。中学校の映画教室の内容を、はるかに時間が経った今でもしっかり記憶しているって、すごいことではないですか!?
作品の素晴らしさが、そうさせるのだと思います。細かいストーリーは覚えていなくとも、一流のものに触れた時の、あの奮えるような感覚・・・!!
ワタシの人生においての、なにものにも代え難い財産だと思います。
きっかけ、というのは、ものすごい偶然に、他人から与えられたりするもの。
与えた方は、自分がしたことの影響力なんて予想もしていないのかもしれない。でも受けた側は、そのことでどんなに自分の人生が豊かになったか、自分の人生を豊かにしてくれた名前も知らない相手にお礼をいう代りに、自分もそんなふうに、生きよう、って心に思うのかもしれないな。
小学校の時、一番仲のよかった子が、ある日、「ワタシ合唱団に入るんだ」と言い出した。山形の地元の児童合唱団。試験があるという。ワタシは、合唱など特別興味もなかったが(むしろスポーツの方が好きだった。)その子と一緒にいたいばかりに、自分も試験を受けると言い出した。名ばかり試験(多分、全員はいれる?)にワタシも合格、となった時点で、なんとその子は、秋田に転校することになってしまった。。。ワタシは、その時点で、辞退してもよかったとも思うけど、なぜか入団して続けたんだよね。だんだん楽しくなっていった。出来ないことが出来るようになるのは、楽しいことだったから。団員は、その頃100名はいた。しょっちゅう合宿や演奏会があったし、東京NHKホールの舞台でも歌ったのだ。今では考えられないことだな。昔は今みたいに、スポ小とか、習い事の種類もなかったからね。
「この子をヨーロッパに行かせた方がいい。」小学生だったワタシのことで、そんな風に親に話してくれた歌の先生(ワタシはそんなこと全く知らなかったけど、あとで母に聞いた。)それに答えた両親。ーなんか、合唱連盟のはじめての試みだったらしい。ヨーロッパ公演。山形からは、最多の7名の参加者(うち小学生が2名)全部で30名くらいのメンバーが日本各地から集まって、あらかじめテープで渡された自分のパートを練習してきて、東京代々木のオリンピックセンターではじめて顔を合わせて、数日間、朝から晩までのリハーサル。ほんとに楽しかった。。。こんなに楽しいことがあるんだな、って思った。海外なんて、あの頃の山形の小学生には、1ミリだって、自分の世界の視界には入ってなかったはずだもの。。。
劇団民芸の「奇蹟の人」公演の時、ワタシに花束贈呈の役をくれた。・・・「ウォーター」という言葉の存在に気づく奇蹟のシーンは、間近の待機していた袖から見る事ができた。憧れの奈良岡朋子さんを目の前に、ヘレン役の土部歩さんに花束を渡した・・・・(数年後、ワタシはあの時のヘレンに、タップスタジオで再会することになりました。ステップ教えてください、って声かけられて・・・気絶しそうだった・・・笑)
まだまだあるけどね(笑)
ありがとう、が言えてないんだ。とてもお世話になった人たちに。言葉だけじゃなくて、なんとか少しでもカタチにして・・・って思っちゃうから。
「ワタシは、、、、相変わらずだけど・・・今日も歩いてます。」