マスメディアの思想の貧弱なところは、例えば100人の拉致被害者のことにはとても熱心であるが、自殺者3万人のことにはトンと関心がなくなることである。
私から見ると、その影響力は雲泥の差であるように思えるのだが?どうしたもんだろうか。今までのマスコミの姿勢からすれば、その影響力は無視することのできない事柄ではないのか? 時の為政者の政治運営に配慮しておるのだろうか?
それでは独立している機能であるとは言えぬではないか?こんな重大なことを何故に追わないんだ?私には、その記者魂が理解できぬ。
政治をする者、とか、あらゆる、先生!と呼ばれるのを当然の如く自覚している方々のサラリーマン化を批判できぬくらい、同列になってしまったか? プロフェッショナルはどこに消えたのだ?
「自分で自分の存在意識を消す」とは、どういうことなのか?その重大性が理解できていない。本来、そのようには人間は作られてはいない筈だ。私はけっして自殺が一概に悪いこととかの評価は下してはいない。先天的にそのように創られてしまっている人がいるのも事実だからだ。しかし、数が異常だ!これが異常と感じない、日本ではありがち、とか、通り過ぎる見て見ぬ振りだけの総理やマスメディア、或いは日本人民の思考だったら、私には全く理解できない?
異常と感じなければ冷徹非情であるし、異常と感じれば、仮にもマスコミの一翼を担っている自覚を持つ者ならば、誰が何と言おうと、人間本来の探求本能が呼び覚まされて良い筈だ。それが、マスコミに携わる最低の職業センスである。そう言う「牙」を抜いてしまった、誰かに抜かれてしまった、同じ報道しかできない、商売っ気だけの管理職ならば、その人の存在はむしろ害であり、抜け殻の記者魂も無駄であって、マスコミに存在する意味を持たない。
大騒ぎをしてキャンペーンを張った拉致問題は、都合上意地になって追求しているとしか思えないマスメディアの、軽率な問題提起が、これをもっと複雑にしてしまっているのだ。
誰かが(右翼的思考の者たち、かも知れない?、身びいきな人たちかも知れない?)北朝鮮との国交は「はじめ拉致ありき」と固定的に合唱すると、それではいつまでも平行線ではないか、マスコミの一員を標榜するならば、少しは知恵を絞ったらどうだ。そう言う考え、流れに逆らうことができないか?商売としてやっている以上、そんな勇気は持てないか? マスコミ人としての好奇と探求のプライドはどこへ行ったのだ?
北朝鮮が日本に歩み寄らないのが悪いのか? 日本が北朝鮮に歩み寄らないのが悪いのか? それではどっちもどっちではないか? 相手の不実を責めるだけで、いつまで自己満足を続ければ気が済むのだ?
マスコミの方々の一方的な片手落ちのキャンペーンが、こう言う結果を招いてしまっているのだ。国内問題では「配慮バランス」と言う「しがらみ」を大事にするくせに、外では徹底的に相手を叩きのめす手法が思うに任せない元凶であるのだよ。
官僚は責めても、一社でも小泉総理の重大な判断ミスを指摘しているところがあったか? 小泉さんと同じように、最初から敵視して北朝鮮を予断していなかったか?
そのような視点で物事を推察行動していけば、日本国民を右傾化に引っ張っていくことになるのは当然の帰結ではないか。国と国との貿易取引では、一般犯罪のように扱うわけにはいかないのだ。
哀れにも、北朝鮮はずうーーと軍事全体国家を引きずっているのだ、と言う事情も勘案して対処しなければならないのだ。だからその誤りに対してのツケは、小泉さんと一緒になって後世に至るまで払わねばならないだろう。
今、底なし沼に漂う3万人の自殺者とその家族親戚をほっぽらかしておいて、問題提起もせず、100人の拉致被害者と家族親戚だけに精を出す、そんなマスメディアや日本人たちなのだ、あなた方は・・・・