宇宙の彼方から

自然の不可思議な森羅万象に揉まれる自分や他人の有り様を見つめる。

いじめの構図

2005-10-27 06:36:33 | 
「いじめ」というものの考察。
ここのところ苛めへの記述が多くなってきたので、しくみみたいなものをツラツラ書いてみようと思います。
小さな子供時代からお年寄りに至るまで、このいじめって事柄は常に存在して私たちの心の中に葛藤を生み出します。
私はこのいじめと言う事柄の結果と言うものにすごく興味を惹かれます。
加害者は忘れ、被害者の心の中にいつまでも取り残されて彷徨う現象です。
加害者が忘れと言うのは必ずしも正確でもないような気がしますが、一時的には忘却の彼方へ置き忘れることはあるようです。指摘されてやっと自覚できるに至ることはしょっちゅうです。
かつての日本が、その加害者としての現実をそれに当てはめてみますと、非常に良い例題として現れてまいります。
ちょっとした言葉の行き違いで、人は人殺しもします、言葉ひとつをバネにドエライことを成し遂げることもあります。
その問題提起をした当の本人は忘れていても、された側は永久保存します。
何故にそんな現象になってしまうのか?
自然は与えたショックよりも受けたショックの方が強く意識させるようにしています。
大変な出来事に感じるか、感じないかの差異もありますが、感情の汲み取り方の差異でもあります。
物や人間に対する「慈愛の心」の貧弱に薄い場合は、器物損壊、人間破壊に抵抗無く行うことが出来、育ちの過程で、若しくは先天的にそれの発達に著しい劣性があるようです。
加害者側は当然のつもりで、自分という人間には闘争本能があるのだから、ちょっかいを出せば反抗してくる筈と思っているので(そこからして自分と他人の違い、他者の存在の認識ができていない)
自分の持っている「狩り」の闘争本能を強烈にかき立てる必要性から発生するものであるようだ。
つまりは、かなり動物としての基本本能に近いものである。
少なくとも、それが後で自分や、周囲に悪影響を及ぼしてくることになろうとは夢夢思わないのであろう。
しかし、長い生き様の中で、動物とてそれでは種の保存にマイナスであることを悟るようになって、無闇に喧嘩、いじめをしないようになる。猫が小さな虫を捕ってきて、食べるでもなく、部屋の中で転がし遊ぶ場面を見たことのある人はきっと多いに違いない。
動物本能に近いということは何を意味しているのか?大人の顔をした子供である。
精神の発達過程の遅れに起因しているとしか考えられない。
物資の豊かさは精神の野放図を連れてきた。しかしながら、どの国も同じ状態になるか、と言うとそうではない。日々、反省、研究を疎かにしていれば未熟者が出来上がる。豊かさに溺れてしまうのを留めることはできない。
体格がどんなに立派でも、体力があろうが、精神とのバランスが崩れていれば、それは、有り余る体力の置き場所がなく、もっとも始末の悪い典型である。
まさに今のアメリカであり、昔の日本とそろそろ今の日本か?であるのだ。
自分の精神力の力量に見合った経済力や防衛力でいい。本来、防衛力など無くてもいいのだ。果たして日本から奪うものってあるのか?テレビか?パソコンか?自動車か?ハタマタ人間の技術か?お金か?別荘としての土地か?
一銭の利益も生まない防衛は最大のムダである。利益を生むようなら、それの多くは威嚇、脅威、おどしを与えた結果なのだ。確かに生き残るための技術の進歩への貢献もないこともないが、力量に合わない危機回避の方策は、ドツボにはまり、財政を圧迫すること疑いなしなのである。
キチンと制御の利く範囲に置かなければ、経済力も防衛力もあさっての方向へ駆け出して行ってしまう。
経済力に見合った精神力ではない、精神力に見合った経済力である必要があるのだ。
そして、その精神力は、日々の反省怠らず、希望を持って、国としての人間力に磨きをかけ、宮沢賢治の謳ったような地に足をつけた生き様を世界に見せることによって、それこそ理想憲法とそれをしっかりと守っている平和の希求国、者、殉教国、者としての地位を得られるのだ。
今回は、いじめを起こす側の立場から考察してみました。不十分かと思いますが、何せ朝起き掛けで時間もないので、これでお開き・・・・