もう書くのも止めようと思ったんだけれど、もうちょびっと・・・・
小泉さん、靖国へ行ってしまいましたね。
挑戦的です。チンピラヤクザの若造のような行動です。
よく、相手がツッパってくれば、こちらもツッパルというような闘争心むき出しの行動を刹那的に本能で取る若者たちがいることは承知しておりますが・・・・
抜きつ抜かれつの競争をしたがったり、敵やライバルを自分なりに創設して、向かっていくような、およそ分別のかけらも感じられないような子供です。
これが日本を代表するリーダーとして日本国民は認めているわけですから。総じて日本国民自身も幼稚としての証明をしたようなものでしょう。
もう、任期も僅かなんだから、自分のしたいようにするってことなんでしょうかねえ。
こう言っても、どれだけ私の言うことに耳を貸してくれる人がいるのでしょうか?
多くの人たちは、挑戦的と言う認識ではないのでしょうね、多分、日本の責任者として先祖、先人、先輩を敬うのは当然過ぎるほどに、当然のことだと思っているのでしょう。
憲法には「自国のことのみに専念して、他国を無視してはならず」と謳ってはいるのですが・・・・?みんな、自分のこと、自国のためからしか考えなかったから、他国を侮蔑して無視したから、分をわきまえずにいい気になって、日清戦争勝利での思い上がりそのままに、しかしながら抵抗激しい中国、資源を求めて強さを誇示しての東南アジア、上から見下ろしてくるような国、昨日までの友は今日の敵のアメリカに挑戦していったのではあるまいか。そう言う性根がみんなを不幸のドン底に誘導していったのではないのか。挑戦することはある意味では悪いことではないが、苛められた過去の取り返すことのできない悔しさ、惨めさに思い至すこともなく、喧嘩腰のそれぞれの国への挑戦的行為は、性質のタチの悪さを表わす。いやっそれよりも常に自分自身、自国への一触即発の危険をも内在させていくことになる。「よーし分かった、じゃあ、そっちが反省もしないで、先人のやったことを労ったり賛美するなら、こちらにも考えがある」と言う思いがそれぞれの国心の中にフツフツと湧いてこよう、悲しいことである。
国民も、そんなリーダーの若造的挑戦の行動が、いろいろな意味、場面での危険を誘導させていることと思わなければ、辛い選択が待っていることでしょう。それは戦前の軍部だけを悪者にして、責任から逃げる国民の性質に因るところが多い。
小泉さんをリーダーとして選択したのは、政治を「我が事」のようには捉えず、人気投票的他人事観点から選んでしまった愚かなる者たちの結果なのである。だから責任意識は、無くなってからの軍部ではない、辞めてからの小泉さんでもない、己れ(国民)自身が負わなければならないものなのだ。
追。
コメントをくれた方がいらっしゃったのを書いた後でわかったので、少し書き足したいと思います。
人や国によっては参拝を支持する時と場合があろうかと思います。それが言い訳の援護射撃となってくれるのでしょう。きっといままでも、これからも、お世話になった、あるいはお世話になるであろう事を考えてのことでありましょう。どんな悪政をしいたとしても、必ずや支持者は隅っこに存在してはいるものです。
まして、この経済大国の影響力は並外れたものである筈です。
東南アジア各国からの反響がないからといって、国心の中にくすぶっている思いがあることを、洞察できるように年輪を重ねてください。
中国と韓国に関しては、経済的にも自立できるようになってきて、日本の助けもいらない状態となって、初めて物申すようになってくるのです。それが立派な自立です、対等の関係なのです。大人ならば分からねば、ならないことなのです。
それに対して、いきがって我を通すなんざ・・・・と言うことです。
心の中で、子離れがしていない・・・と言うことです。子供を育てていないからなのではないですか。散々、自分たちの土地でもてあそばれて惨めな思いをした人が嫌がることを、自分の信念だからといって、もてあそんだ立場の国の後輩が分かってしてはいけません。それをひねくれた根性の「苛め」と言うのです。そんな苛めの基本が、あの方も多くの人たちも分かっていないのです。戦争中も現在もまったくその内に秘めたる悪しき心は同一です。
育つ過程に何らかの歪みが見え隠れしています。「反省無き者たちに精神の成長なし」この挑戦的姿勢が、離婚経験を生むのであろうか?
ここで大事な一言を参拝を賛成のみなさんに「反省は自分を育てる実経験です!!」
小泉さん、靖国へ行ってしまいましたね。
挑戦的です。チンピラヤクザの若造のような行動です。
よく、相手がツッパってくれば、こちらもツッパルというような闘争心むき出しの行動を刹那的に本能で取る若者たちがいることは承知しておりますが・・・・
抜きつ抜かれつの競争をしたがったり、敵やライバルを自分なりに創設して、向かっていくような、およそ分別のかけらも感じられないような子供です。
これが日本を代表するリーダーとして日本国民は認めているわけですから。総じて日本国民自身も幼稚としての証明をしたようなものでしょう。
もう、任期も僅かなんだから、自分のしたいようにするってことなんでしょうかねえ。
こう言っても、どれだけ私の言うことに耳を貸してくれる人がいるのでしょうか?
多くの人たちは、挑戦的と言う認識ではないのでしょうね、多分、日本の責任者として先祖、先人、先輩を敬うのは当然過ぎるほどに、当然のことだと思っているのでしょう。
憲法には「自国のことのみに専念して、他国を無視してはならず」と謳ってはいるのですが・・・・?みんな、自分のこと、自国のためからしか考えなかったから、他国を侮蔑して無視したから、分をわきまえずにいい気になって、日清戦争勝利での思い上がりそのままに、しかしながら抵抗激しい中国、資源を求めて強さを誇示しての東南アジア、上から見下ろしてくるような国、昨日までの友は今日の敵のアメリカに挑戦していったのではあるまいか。そう言う性根がみんなを不幸のドン底に誘導していったのではないのか。挑戦することはある意味では悪いことではないが、苛められた過去の取り返すことのできない悔しさ、惨めさに思い至すこともなく、喧嘩腰のそれぞれの国への挑戦的行為は、性質のタチの悪さを表わす。いやっそれよりも常に自分自身、自国への一触即発の危険をも内在させていくことになる。「よーし分かった、じゃあ、そっちが反省もしないで、先人のやったことを労ったり賛美するなら、こちらにも考えがある」と言う思いがそれぞれの国心の中にフツフツと湧いてこよう、悲しいことである。
国民も、そんなリーダーの若造的挑戦の行動が、いろいろな意味、場面での危険を誘導させていることと思わなければ、辛い選択が待っていることでしょう。それは戦前の軍部だけを悪者にして、責任から逃げる国民の性質に因るところが多い。
小泉さんをリーダーとして選択したのは、政治を「我が事」のようには捉えず、人気投票的他人事観点から選んでしまった愚かなる者たちの結果なのである。だから責任意識は、無くなってからの軍部ではない、辞めてからの小泉さんでもない、己れ(国民)自身が負わなければならないものなのだ。
追。
コメントをくれた方がいらっしゃったのを書いた後でわかったので、少し書き足したいと思います。
人や国によっては参拝を支持する時と場合があろうかと思います。それが言い訳の援護射撃となってくれるのでしょう。きっといままでも、これからも、お世話になった、あるいはお世話になるであろう事を考えてのことでありましょう。どんな悪政をしいたとしても、必ずや支持者は隅っこに存在してはいるものです。
まして、この経済大国の影響力は並外れたものである筈です。
東南アジア各国からの反響がないからといって、国心の中にくすぶっている思いがあることを、洞察できるように年輪を重ねてください。
中国と韓国に関しては、経済的にも自立できるようになってきて、日本の助けもいらない状態となって、初めて物申すようになってくるのです。それが立派な自立です、対等の関係なのです。大人ならば分からねば、ならないことなのです。
それに対して、いきがって我を通すなんざ・・・・と言うことです。
心の中で、子離れがしていない・・・と言うことです。子供を育てていないからなのではないですか。散々、自分たちの土地でもてあそばれて惨めな思いをした人が嫌がることを、自分の信念だからといって、もてあそんだ立場の国の後輩が分かってしてはいけません。それをひねくれた根性の「苛め」と言うのです。そんな苛めの基本が、あの方も多くの人たちも分かっていないのです。戦争中も現在もまったくその内に秘めたる悪しき心は同一です。
育つ過程に何らかの歪みが見え隠れしています。「反省無き者たちに精神の成長なし」この挑戦的姿勢が、離婚経験を生むのであろうか?
ここで大事な一言を参拝を賛成のみなさんに「反省は自分を育てる実経験です!!」