岸和田だんじり会館展示・旧五軒屋町地車
紹介文より抜粋
現存する岸和田型だんじりのなかで最古
推定 文化・文政期(1804~1829)製作
京都北白川の石匠・河波家の庭に置いてあったものを河波家より昭和62年調査依頼があり、調査の結果、「岸極」という岸和田藩主の刻印や、五軒屋町の紋が数ヶ所に彫りこまれていたことなどから五軒屋町地車と判明。
なぜ京都に?経緯不明・河波家には、大正時代に京都市東山区建仁寺から譲り受けられたそうです。それ以前は不明。
大工・彫師とも不詳・多くの記録が残っている岸和田でさえ記録にない古地車があるようで今後の解明が期待されますが、現状は、きびしいようです。
ちなみに建仁寺(けんにんじ)は、京都最古の禅寺で、国宝・俵屋宗達作・風神雷神図を所蔵されている寺で、この国宝もなぜ所蔵に至ったかは不明。
この地車・からくり地車といわれ、その当時岸和田城に乗り入れ、城門をくぐるため屋根の高さを調整するようにできていて、小屋根が後ろにスライドし、大屋根が下に下がり、高さが低くなります。
この地車を見る限りこの地車型が曳行されていた当時の岸和田地車とその他地車いわゆる、上・下だんじり区別不要ではなかろうかと感じました。
私が気にいった特長です。
冒頭画像で少しわかりにくいですが、小屋根・絵振り板=彫あり
後ろ高覧隅柱=彫あり
大屋根・小屋根取り合い(上地車脇障子あたり)・高覧に鯱の彫物
なんと言っても彫物はあじある彫物です。私は一目惚れ(笑)
この地車、昭和63年に植山工務店・吉為工務店にて改作修理されております。
おそらく欠損彫物追加されていると思われますが、どうも川面東の龍がいているようです。
川面東地車修理が昭和61年に吉為工務店ですから時期的には、合いますね。
当時吉為工務店がよく頼まれていた彫物師作品ではないかと思います。
龍の頭欠損追加が数ヶ所ありますが、2ヶ所の画像です。
正面車板・素盞鳴命 ヤマタノオロチ退治?
オロチの頭の龍
泥幕・龍
川面東地車彫物元々の龍(頭部)は全滅です。今ある数ヶ所の龍は昭和61年修理時に追加改作です。
その時修理追加の龍(頭部分)・正面桝合=この部分が一番解りやすいかな。
これが言いたくて前置き2週しました。(笑)
紹介文より抜粋
現存する岸和田型だんじりのなかで最古
推定 文化・文政期(1804~1829)製作
京都北白川の石匠・河波家の庭に置いてあったものを河波家より昭和62年調査依頼があり、調査の結果、「岸極」という岸和田藩主の刻印や、五軒屋町の紋が数ヶ所に彫りこまれていたことなどから五軒屋町地車と判明。
なぜ京都に?経緯不明・河波家には、大正時代に京都市東山区建仁寺から譲り受けられたそうです。それ以前は不明。
大工・彫師とも不詳・多くの記録が残っている岸和田でさえ記録にない古地車があるようで今後の解明が期待されますが、現状は、きびしいようです。
ちなみに建仁寺(けんにんじ)は、京都最古の禅寺で、国宝・俵屋宗達作・風神雷神図を所蔵されている寺で、この国宝もなぜ所蔵に至ったかは不明。
この地車・からくり地車といわれ、その当時岸和田城に乗り入れ、城門をくぐるため屋根の高さを調整するようにできていて、小屋根が後ろにスライドし、大屋根が下に下がり、高さが低くなります。
この地車を見る限りこの地車型が曳行されていた当時の岸和田地車とその他地車いわゆる、上・下だんじり区別不要ではなかろうかと感じました。
私が気にいった特長です。
冒頭画像で少しわかりにくいですが、小屋根・絵振り板=彫あり
後ろ高覧隅柱=彫あり
大屋根・小屋根取り合い(上地車脇障子あたり)・高覧に鯱の彫物
なんと言っても彫物はあじある彫物です。私は一目惚れ(笑)
この地車、昭和63年に植山工務店・吉為工務店にて改作修理されております。
おそらく欠損彫物追加されていると思われますが、どうも川面東の龍がいているようです。
川面東地車修理が昭和61年に吉為工務店ですから時期的には、合いますね。
当時吉為工務店がよく頼まれていた彫物師作品ではないかと思います。
龍の頭欠損追加が数ヶ所ありますが、2ヶ所の画像です。
正面車板・素盞鳴命 ヤマタノオロチ退治?
オロチの頭の龍
泥幕・龍
川面東地車彫物元々の龍(頭部)は全滅です。今ある数ヶ所の龍は昭和61年修理時に追加改作です。
その時修理追加の龍(頭部分)・正面桝合=この部分が一番解りやすいかな。
これが言いたくて前置き2週しました。(笑)
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