ぶらり紀行

宝塚市近郊の神社仏閣・祭り山車を中心に訪れた様子をレポート

へろへろ社寺まいり記 ~八尾~

2014年04月21日 21時16分45秒 | おまいり道中

休みに自由にできるエンジン付のお馬さんがなくなって久しく社寺まいりに行かずでしたが、先日の仕事休み春のいい天気♪エンジン付籠に乗って行ってきました。

大阪府内 南下中 前回東大阪市・約半分強の地区廻ってませんが飛ばして八尾市へ

八尾・戦国時代の終焉の舞台大坂夏の陣名所も絡めて

事前に大東の師匠に情報をもらっていましたが、そこは、我が道を行く・あにきスタイルでしらみつぶし。

JR中山寺~JR八尾へ

久宝寺駅でなく八尾駅を選んだ理由は、レンタサイクル。店がJRでは八尾駅にしかありません。

久宝寺は快速停車するのですが八尾はせず、これが朝のつまずきの一歩でした。(笑)


画像は、帰路のホーム

宝塚線は朝の通勤時間と重なり超満員、大阪駅で奈良行き大和路快速に乗り換え。

福島駅あたりから空いてきましたので着座。

旅のお供はなんといって文庫本


画像は帰路車中で撮影

なんと!物語が白熱・・関が原の合戦へ・・・・感想は次回文庫本紹介で。

気づくと・・・久宝寺駅過ぎてました。(笑)快速なので久宝寺で普通に乗り継ぎ八尾へ行かねばならないのに、なんか景色が・・やけに生駒山が近いなぁと思ったら後のまつり、次停車駅は奈良県王子。

このまま信貴山行こうか?いや初志貫徹、八尾に戻ることに。

王子のホームに立ち、へろへろ道中、ブログに書こうと思い立ち撮影。





撮影してる場合ちゃいまっせ・・・・あれ・・・ホーム違う・・・・普通各駅は、上画像の右に写っている列車・4番ホーム 発車1分前・「え」走る走るあにきもうすぐ50号・なんとか間に合い八尾へ。

レンタサイクル借り、こっからは、真剣に地図とにらめっこしながら社寺まいり。

日記の主要部は、まぁここまでなんですがね(笑)昼飯も食わず社寺まいりに没頭、いつものことです。そのうち、心・懐に余裕が出きれば、グルメレポートもいれますかね?

社寺紹介はいずれまた。






社寺まいり道中立ち寄りました。戦国大坂合戦跡


常光寺 本町5-8-1

『大坂夏の陣』の中心地となり、戦乱に巻き込まれた。しかし、この寺を金地院崇伝が抱え寺としていたため、徳川家康が「寺を荒らすな」との制札を発して、心無い雑兵の乱暴を厳重に戒めたため、寺はなんの被害も受けず。この戦いで藤堂高虎は、この寺の廊下で長曽我部家臣の首改めをしたとのこと。その廊下の板は、そのまま天井板に上げ、一面に血の跡がしみついており、『常光寺血天井』として保存現存。
まさに読書中文庫本主人公・藤堂高虎

この寺には、彫刻見当たらず。



木村重成の墓 幸町公園内

慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣が勃発すると豊臣軍の主力として長宗我部盛親とともに八尾・若江(東大阪市南部)方面に出陣し、八尾方面には長宗我部盛親、若江方面には重成が展開し、藤堂高虎、井伊直孝の両軍と対峙した(八尾・若江の戦い)。藤堂軍の右翼を破った重成は、散開していた兵を収拾し昼食を取らせると敵の来襲を待ち構えた。この時、家臣が「兵は疲れており再度戦えば敗北は必至」と諌めたが、重成は「この程度の勝利はものの数ではない」と一蹴。敵陣へと突撃を開始するも、井伊軍との激戦の末に戦死した。井伊家家臣の安藤重勝に討たれたとも、同家家臣庵原朝昌に討たれたが朝昌はその功を重勝に譲ったともいわれる。
首実検でその首級が家康に届けられると、頭髪に香が焚きこめてあったので、その覚悟を感嘆させたという逸話が残っている。(ウッキぺディアより)



山口重信の墓 東大阪市若江東町・若江南墓地内

重信の父、但馬守重政が徳川家康より常陸国牛久に領地を与えられ大名となりますが、慶長18年(1613)嫡子重信の婚姻をめぐり幕法に反したとして領地を没収されます。
このため、武功を上げて旧に復するべく、元和元年(1615)大坂夏の陣に井伊掃部守直孝率いる徳川軍(兵3200人)に父子で参戦しました。5月6日早朝、徳川軍は八尾楽音字発し、玉串川から若江堤へと進み、若江に布陣していた木村長門守重成率いる豊臣軍(兵470人)と壮絶な戦闘を繰りひろげました。これが若江の戦いです。この戦いで、先鋒を競い合った重信は木村方の飯島三郎右衛門など五騎を討つ功をあげますが、武運拙く26歳の若さで戦死し、一方豊臣軍は木村重成が井伊方の家臣安藤長三郎に討ち取られ撤退しました。
寛永5年(1628)、重信の武功により父重成に牛久など一万五千石が復され、のにち次男但馬守弘隆が本領一万石、三男備前守重恒が五千石を継ぎました。
墓は、兄重信の霊を弔うために弟弘隆が正保4年(1647)に墓碑を建立し、その後さらに弟重恒が承応3年(1654)に石柵を建立、家臣の山口忠兵衛重成が同年に石燈篭を寄進、弘隆の嫡男重貞が元禄5年(1692)に石花瓶を寄進し現在の姿になりました。(現地看板より)





社寺まいり道中





帰路へ





最新の画像もっと見る

コメントを投稿