私の師匠が亡くなった。日曜日、お嬢さんから電話があった。
呼び出し音が鳴ってスマホの画面を見た途端、イヤな気がして覚悟はしたが、やっぱりその連絡だった。
師匠と最後に喋ったのは昨年の12月だった。毎年”紅まどんな”をお送りしているのだが、有難うの
ご連絡だった。声は元気そうだった。少し喋って、今忙しい真っ最中なので又お伺いしますねと電話を切った。
そして虫が知らせたと言うか、何と言うか、たまたまなのだが、大型案件が決まりそうになって、急に師匠と
喋りたくなって、先にお嬢に電話した。それが2月5日のこと。
『会長お元気?電話してもいいかな?なんだか急に喋りたくなってね。仕事が決まりそうで順調なのよ。
つくづくお礼が言いたいな・・と思って』と。するとお嬢さんは『入院してる』と。
えっ!?そうなの?何で?・・・誤嚥性肺炎でと。ちょっとその言葉を聞くのイヤな感じがした。
そして『お父さん、多分もう出て来れないと思う』と。
ああ・・そんなに弱っておられるのねと落胆し、その段階で私も、早かれ遅かれそんな日が来るかも?
と一瞬覚悟したり、いや、まだまだ・・と打ち消したり。
お嬢は『ショートメールでもしてやって。読むのは読めるから』と。そして翌日2/6、私はメールした。
何となく連絡したくなって・・・。まだ営業の仕事バリバリやってますよ。最初の師匠が師匠で良かった。
一から十まで教えて頂いた。その教えを忠実に守って来て今の私がある。怖くて厳しかったけれど
師匠のそばに居て正しい営業と言うものを勉強させてもらった。師匠の営業に日々感動していた。
おかげで今は無敵です!ただただ感謝しかありません。ありがとうございます。
もうすぐ暖かくなります。3月になれば少し時間が出来そうなので又お目にかかりたい。長くお元気で
居て下さい。
2/9に返事が来た。
いえいえ、あなたの努力があったから今のあなたがあるんですよ。
って言っております。
とお嬢が代わりに打ってくれたみたい。私はありがとうございますと返事した。
それからずっと気になっていたのだ。
日曜に連絡くれたお嬢さんは、『ちゃんとあのメール読んで、自分でこう返事してと言ったのよ』と。
私の一回り上の84歳だった。私が師匠を知ったのは30歳の時だった。小さな機械商社に雇ってもらった。
初めて社会で働く私に神様が与えられた師匠がその人だった。今となっては運が良かったとしか思えない。
私は営業アシスタントとして優秀だったと自分でも思う。性に合っていたのだろう。何もかも頭の中に叩き込んで、
アレと言われればアレを出し、コレと言われればコレの返事を即答し、面白い位営業アシスタントの仕事にハマった。
言われるまま多くの見積を作り(手書きだ💧)その番号や内容・金額、担当のお客様のフルネーム等々、知らぬ間に
全てインプットされた。私が覚えているものだから、向こうは何でも私に聞く。聞かれて答えられないことが
無い位だった。指示される前に、次に何を要求されるかが解った。電話で誰と喋っているか判っていたから。
その代わり、毎晩夢の中に数字が飛び交っていた。そしてモノが食べられなくなり吐いては痩せた。多分ストレスで。
自分史上一番痩せていたと思う。ピリピリしていたんだろう。
そのうち金額の低い案件なら勝手に値決めして良いからと言われ、そうこうしているうちに『営業出来るんやない?』
と言われ、外へ出掛けることになった。それが私の営業としての始まりだ。
もう最初は超々大変だった。師匠は頭が良くてキレ者。同行していると今から行くお客様との今日のストーリーを
シミュレーションして教えてくれる。そして面談すると現実にその通りになる。その読みとピタリ度が凄くて、
この人の頭の中はどうなっているんだろうと感心感動した。
私は今でもお客様に会う時、内容と相手によっては緊張する。そんな時はやはり事前にシミュレーションはしている。
他にも教えてもらったこと・真似していること・守っていること、いっぱいある。
師匠が最初の上司で良かった。私にも”きちんとする”という性格はあるにせよ、違う人に教えを乞うていたら
こうはなってなかったかも知れない。”正しい営業” というのを教わった。感謝しかない。
父上が比較的早く亡くなったそうで、ご自分も長生きは出来ないと思っておられた。そんなことを聞いたことがある。
でも、84歳だったら短くも無かったと思う。最後の最後まで、頭はしゃきっとしておられた。
奥様は既に相当前に亡くなっていた。
私は悲しいよ、やっぱり。色々思い出すと涙が出るよ。胸が詰まるよ。
でも、師匠が教えて下さった正しい営業で、私まだ頑張るから。それが師匠への恩返しにもなるからと信じて。
ずっと見ていてくださいよ、師匠。