昨日は月イチ出社の月末の土曜日だった。全社工程会議なのだけれど、緊急事態宣言が
出ている間は、上層部だけだったものが今月は解除になっているので出勤日。
このところずっと忙しくて夜も遅くまで仕事したりして睡眠不足。通勤行き帰りの電車の
中でも爆睡していて、乗り過ごしそうになること数回。昨日も見積修正して再提出のお客様
との約束が『週末に何とかします』だったのだが、昨夜 やりかけて途中で寝てしまった。
と、今朝の5時。『いかがでしょうか』とメールが来たよ😱。でさっさと仕上げて送付。
やれやれ・・・一体自分は何してんだか💧 みんな寝ようよ と思わなくもないが、0か100
しかないと思っている自分には、好きでやっている仕事、弱音を吐く訳には行かない。
今日は上の娘の話。ある意味私の黒歴史の一部。
孫が大学生になるので、自分は田舎に帰った上の娘。金曜日にLINEが来ていたのだが、
返事する余裕も無く放ったらかしだったので、今朝やっと返事を送る。
4月から又歯医者で働くらしい。この娘、色々あって・・・。
私がブログをやっていることは知っているが、どこに在るかまでは気にしていないだろう
から多分読まないだろうが、これから書くことは読んだら怒るかもの内容だ。
もう20年以上前の話。30年近く前になるか・・。
上の娘は数字に強く、数学や化学が得意だった。数字の暗記力は凄まじく、私の友だちの
誕生日や家電(固定電話)の№まで未だに覚えている。私だって忘れてるっちゅーに。
薬剤師だかレントゲン技師だかになりたいと言って受けた大学の入試に失敗し、予備校に
行くと。予備校のお金を払う時に、半期より1年分払った方が安い・お得だ と言うので、
私は1年分支払った。しかしだ・・・予備校に1週間足らず通った頃から様子がおかしくなり、
朝起きて来ない。予備校に行かずダラダラとパジャマのまま1日を過ごすこと1週間位。
勿論その間、私は仕事へ、下の娘は高校へ通学。
あまりのだらしなさに私は激怒。『半期分より全期分支払った方が安いと言うから1年分
振り込んだ。で、何でその予備校行かない?』
高校の頃に付き合ってた彼が、横浜だったか関東方面の大学に行き、離れ離れになった。
毎日毎晩、電話してたよ。それも気に入らなかったが、そのせいか何か、全くやる気を
無くし、鬱っぽくなってたのかな。仕事から帰ってもまだパジャマ姿の異常な姿の娘。
何とか立ち直らせようとすればするほど動かない。大ゲンカになって、いー加減にしーやと
脅しの為に私はそこにあった娘の身体鍛え用の小さなダンベルに手を掛けた。すると
『おかーさんが私をダンベルで殴ろうとした』と大騒ぎ。そんなことするはずないじゃん。
手で叩くことはあっても、絶対にモノなんかでは殴らない。誰かと違うんだから。
いくら怒ってても、そう言う時私は結構冷静だから。
で、翌日、私が仕事に行っている間に居なくなった。待てど暮らせど連絡もない。
探しようもない。別れた元夫のところにも確認したが居ない。出奔した。多分横浜だろうと
私は考えた。
そしてしばらくして(1週間経つか経たない頃)元夫から連絡があり、そちらへ戻ったと。
そりゃ私んとこには戻って来れないわね。
私には、このブログに書けない様な、自分の中で考える汚点と言うか黒歴史がある。
夫婦別れしてから、子どもたちと離れて暮らしていた時期がある。ずっと一緒にいた訳では
ない。詳しく説明すると1週間位掛かるのだが。
とにかく娘は元夫の方に身を寄せた。じーちゃんばーちゃんもおばちゃんたちも皆居るからね。
向こうからしたら内孫は2人だけで、おまけに上の娘は初孫だ。どれほどちやほやと皆から
甘やかされ可愛がられて大きくなったことだろう。めちゃワガママだ。
こっちは怒りが収まらない。予備校の1年分をドブに捨てた。誰が働いて稼いだお金やねん!
後ろ足で砂掛けて出て行った。下の娘も可哀想だ。ただ彼女は順調に高校生活を送ってくれて
いたみたいだから、まだ助かった。あの頃は素直で可愛かった。
それから約3年近く経って、上の娘から又大阪行きたいと連絡があった。やり直したい。
又学校行きたいと。逃げて出て行ってから父親のツテで地元の役所で働いていたらしいが、
高校時代の友は皆上の学校へ行ってキャリアを積み、頑張っている。それを見るにつけ、
羨ましかったり焦ったりがあったのだろう。
私はよくよく考えた。もう一度だけチャンスをあげても良いかなと思ったが、周りが
大反対だった。特に私の兄と下の娘、そして友だちも。
兄は『どんな風にして〇〇は出て行った?それを許すなんて、お前はどれだけ人がいいねん』
と言った。丁度、マンションを売って家を建てようとしていたので、自分の部屋が小さくなるのも
気に入らなかった下の娘は、自分がその間考えていたことなどもあり、猛烈に反対した。
しかし私は、ここで私が受け入れなかったら、上の娘のキャリアは終わってしまう。人間だもの
失敗はあるだろう。もう一度勉強したいと言うのだから認めてやっても良いのではないか・・と
受け入れる決心をした。
甘いと皆に言われたし、下の娘はそんな私の決断を快くは思ってないので、それ以降少し
隙間風がね・・・。
大阪に迎え入れて、その時も予備校行った。予備校代は又私。まあ小遣いはバイトしていたし、
小さくなって一応遠慮し、気は使っていたらしいが。最初のうちはね。
結局3年のブランクがあるので大学は諦めて歯科衛生士の学校に行き歯科衛生士になった。
同じ時期に娘2人分の授業料が私の肩にのしかかった。
それまで細々としていた貯金が、家の新築と子どもたちの授業料で、きれいさっぱり”0”に
なった。最後の授業料はもうお金が100万円ほど足りなくて、最後の一度だけ母に出して
もらった。
長くなるので一旦おしまい。続きは次に。