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ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

名は体を表す?

2009年07月10日 | 日記
名は体を表す?

 41才の男がパチンコ屋にガソリンを撒いて放火し、大勢の死傷者を出しました。放火殺人事件はテレビニュースにも時々出てきますが、出頭した犯人の名が「素直(すなお)」とはどうしたことか。性格のヒネクレた親が子供にはそうなって欲しくないと考えて「素直(すなお)」と名付けたのだけれど、名前の威力よりも遺伝の威力の方が勝ってしまってこんな結果になってしまったのでしょうか。シュールな話です。

 と言いますのも、私が会社で百貨店担当の部署に居たときの上司が、姓は伏せますが、名を「実(まこと)」といったのですが、性格が全然「実(まこと)」ではなかったのです。とにかくやることの一々が不実です。毎月の販売会議の内容は上司から部下への指示ではなく、部下から上司へのスクーリングという状態でした。

 また、ほとんど得意先に顔を出すこともないのですが、たまに担当者に声をかけて得意先同行訪問をすることがあると、本来ならば商売の相手であるバイヤーの所を訪問するのですが「実(まこと)」さんは違います。向かう先は外商部でした。外商部にしてみれば我社もお得意先となりますので、「これはこれはいらっしゃいませ、お茶でもいかがですか?」と先方の担当者に喫茶店へ誘われ、雑談をして得意先訪問は終了、といった按配です。

 ある時私の得意先で地下食品売場のリニューアルがあり、それを記念したオリジナルウイスキーを出そうということになって、我社とライバル社に打診がありました。ライバル社は即OKなのですが我社の場合は納期・受注数量の面等で色々と障害があってそのままでは受注できず、私は頭を抱えました。ライバル社に無抵抗で敗れるのも嫌なので、色々と工夫した結果を先方へプレゼンテーションしました。そして先方の役員会の結果、発注は我社へ来ることになりました。

 「実(まこと)」さんは私に、事の次第を社内用箋に書いてくれと言います。私が事の次第を社内用箋に書き、私の日付印を押して「実(まこと)」さんに渡しますと、「実(まこと)」さんはそれを近くのテーブルへ持って行き、新しい社内用箋に書き直して自分の日付印を押してそのまま支店長に報告に行きました。部下の手柄の横取りという訳です。「見えない所でやればいいのに」と私達はあきれてしまったものです。

 またある時はT社の商品本部長から、我社の限定商品を気に入ったのでT社のギフトカタログの特別枠に載せてやろうというお話が来ました。お話は有り難いのですが、なにしろ我社としては限定商品なので素直にOKのお返事が出来ないのです。どうしたものか・・・。

 私は、「申し訳ありません」と一旦お断りして商品本部長からは「無礼者」とお叱りを受け、その後で別の提案をして話の落としどころを探ろうと考えました。私は「実(まこと)」さんと同行して商品本部長に面会し、「誠に申し訳ありませんが、これこれこういう訳でお話をお受け出来ないのです」とお断りをしました。商品本部長は当然のように激怒します。

 するとどうしたことでしょう、「実(まこと)」さんは席を立つなり、いきなりエレベーターへ向かって走り出したのです。「実(まこと)」さんは学生時代に短距離の選手だったそうで、逃げ足の速いこと。これには私も驚きましたが、商品本部長も驚きました。私と商品本部長とで「実(まこと)」さんを追いかけたものです。

 「実(まこと)」さんはその後地方の支店の支店長を務めた後定年退職をしましたが、そこの支店でも内務の男性を悩ませていました。嫌がる得意先をゴルフに誘い、プレー代や飲食費は当然販売渉外費で落とすのですが、ゴルフ場へはマイカーで往復し、ほとんど空になったガソリンタンクを満タンにして会社で落とす。日曜日には家族とファミリーレストランで食事をして会社の販売渉外費で落とす。とにかくやる事がチンケなのです。

 私より10才年上の「実(まこと)」さんが誕生したとき、ご両親はどんな気持で息子の名を付けられたのだろうか。今回の事件でこんなことを思い出してしまいました。



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フィル・ティペット

2009年07月03日 | 日記
フィル・ティペット

 私が幼稚園に入るか入らないかの頃、私の故郷の熊本市には戦後の空気が色濃く漂っていました。熊本市内には米軍キャンプがありました。家の前を米軍の戦車が数台通ったことがあって、父はそのとき私達に言いました、「戦車と消防車には、はねられても文句は言えん」。そして父の指差す上空はるか遠くには星のように小さなB29が銀色に光って飛行していました。当時映画館では映画の本編の前にニュース映画がかかりました。当時は朝鮮動乱(朝鮮戦争とは呼ばず、こう言っていました)の最中で、機関銃を撃つ兵士のニュース映像とこちら地上での戦車や上空のB29とがリアルに合体していたものです。

 家を出て20mも行くと大通りに出ます。交差点のむこう左角のアパートの2階にはオンリーさんが住んでいて、その軒先には悩ましい色の下着が干されていました。交差点を右に電車通りに向かって行くと、電車通りの手前右に米軍向けのダンスホールがありました。弟と2人でダンスホールの中を窓から覗いていると、中から出てきたアメリカさんが私達にチューインガムをくれました。

 あるとき父は米軍キャンプでアメリカの雑誌をもらってきました。全ページグラビアの、「ライフ」という名の月刊誌でした。ページをめくってみると、それこそアメリカンドリームの生活が溢れてきます。「ライフ」の中に、恐竜時代を想像して描かれた恐竜達のカラーの細密画が4~5ページにわたって載っていました。私と弟はこれに衝撃を受けました。感動したのです。私達は父に聞きました、「これは何て言う恐竜ね」。父は英語の解説を読みながら「ケラトザウルスよ」。「これは?」「トリケラトプスたい、ダイノザウルスもおるね」。

 これを機に私達は恐竜マニアの少年になっていくのです。「おたく」などという言葉はまだありませんでしたからね。「ゴジラは恐竜じゃなか。それに何ね、中生代の泥ん中から古生代の三葉虫が出てくるね」。こんな具合でした。

 数年前に知ったことですが、ちょうどこの頃アメリカで、おなじ「ライフ」の細密画を見て感動した幼い子がいました。名前をフィル・ティペットといいます。細密画に感動した彼は、「将来大きくなったら恐竜の映画を作ろう」と心に決めました。

 みなさんはフィル・ティペットといってもピンとこないと思います。「ロボコップ」の特撮を手がけた人だと言えば、ははん、と思われるでしょう。彼はアメリカ特撮映画の神様、レイ・ハリーハウゼンに師事します。ハリーハウゼンは、人形を少しずつ動かしながら1コマ1コマ撮影して人形が動いているように見せ、その人形と背景を2重露出で重ねる手法を確立しました。ハリーハウゼンは戦前の名作映画「キングコング」を作ったウィリス・オブライエンという人に師事しました。オブライエンは「キングコング」のほかにも「ロストワールド」という映画を作っています。私の父は戦前この映画を観て、大変感激したそうです。ハリーハウゼンはオブライエンに師事したあと、「宇宙戦争」という映画を作ったジョージ・パルという人を手伝い、その後独立します。

 さて、フィル・ティペットはスティーヴン・スピルバーグが「ジュラシック・パーク」という映画を作ると聞いて、恐竜の特撮は当然自分が手がけるのだと思い、ティラノザウルスが暴れるシーンのデモ・フィルムを作ってスピルバーグに持ち込みました。ところがスピルバーグは彼を使わないというのです。恐竜の場面はCGでつくるから、と言ったそうです。ティペットはそれから1ヶ月ほど寝込んでしまいました。すると今度はスピルバーグから、やはり手伝って欲しいと要請が来るのです。CGの技術者は恐竜がどんな風に動くのかが分からないからというのです。

 ティペットの先生ハリーハウゼンの傑作映画「原子怪獣現る」のなかで主役のレドザウルスは、アメリカの港町で暴れます。軍隊が出て砲撃をするのですが、レドザウルスは背中を軍隊に向けて、尻尾を振り回します。この動きは爬虫類を観察した者でしか分かりません。

 世界で初めて恐竜であると認定された恐竜はイグアノドンです。それまで、化石は発掘されていたのですが、大きな哺乳類だと思われていました。ところがイグアノドンのアゴの形は、爬虫類で現存するイグアナのアゴの形をしていたのです。すっかり恐竜マニアになっていた私は、いつかはイグアナを飼ってみたいと思っていました。そして私が40代のとき、やっとグリーン・イグアナの飼育を始めたのです。

 おなじ「ライフ」の細密画を見て感動した幼い2人、アメリカと日本、フィル・ティペットと私。一方は恐竜映画を作るという夢を実現し、もう1人はイグアナを飼育するおじさんになってしまいました。

 まあ、戦勝国と敗戦国の違いだと納得しましょう。



コメント (4)
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