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ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

新しい思想との遭遇

2025年01月11日 | 日記
新しい思想との遭遇

 私は長い間古典を読んで来ましたが、その時には古典を読んでいるという認識でした。しかし最近、古典を初めて読む時にはそれが私には新しい思想との遭遇だったのだと改めて気づきました。新しい思想と遭遇しますとその著者と自分が対峙し、それに批判を加えてみたりなるほどと納得したりで決してそっくりそのまま受け入れた訳では有りませんでした。そして批判は批判として、受け入れたものは蓄積しますのでそれが今の私を形作っているようにも思います。

 新約聖書の中でイエスキリストの行いや言葉を記した「福音書」は何度も読み返しました。そしてそれをヨガの目で見ますとイエスキリストは卓越したヨギ(ヨガ行者)だったのだと思います(神の子かどうかは別にして)。

 「コーラン」も読みましたがこれはなかなか理解出来ない。理解するのが難しい為に何々師という人達がコーランの解釈をしながら次から次に新しい戒律を積み重ねてきて今に至ったのだろうと思います。コーランを読んでみますとムハンマドはそれほど戒律にうるさくは言っていませんね。死者が蘇って神の審判を受け、天国に行きますと美女のお酌で決して悪酔いしないお酒を飲めるとのほっこりする表現も有りましたよ。ムハンマドは決して女性蔑視では有りませんし孤児には優しくしなさいと言っていますし、あの時代に社会主義的な思想を主張しています。それを思えばアフガニスタンのタリバンはイスラムでは有りませんね。

 「ヨーガ・スートラ」や「サーンキヤ・カーリカー」、そして「バガヴァッド・ギーター」は初めて読んだ時には私に激しいパンチを加えてくれました。戦後のアメリカ風の教育を受けた私は俄(にわ)かにはインド思想を理解出来ませんでした。プルシャ?プラクリティ?またアートマンやブラフマンに相当する英語も見当たりませんね。プラクリティを英語ではネイチャーと翻訳するようですがちょっと違いますね。これは現象世界と翻訳するのが良いようです。読んだ本にはプルシャを精神原理、またプラクリティを物質原理と説明して有りましたが、私達は精神と言えば想念の事だと思いますよね。サーンキヤ哲学では想念、つまり心は体や環境世界とひとくくりでプラクリティの範疇に入りますので、プルシャは霊性、そしてプラクリティは現象世界と表現するのが良いようです。

 また「バガヴァッド・ギーター」は一般的にはカルマ・ヨガやバクティ・ヨガ、そしてジュニャーナ・ヨガの思想だとされているようですが、私はこれをサーンキヤ哲学とヴェーダーンタ思想の統合と理解しました。

 「般若心経」は若い頃からさっぱり分からない経典でしたが、佐保田鶴治さんの解説で本当に良く分かりました。空の思想を説く経典では有りますが、最後のマントラが大事なんですね。般若心経が密教(タントラ)の経典なのが良く分かります。「理趣経」も読みました。男女の交合が菩薩の位だと言う理趣経、空海が大切にする理趣経はまるまる密教(タントラ)の経典で有り、仏教がヒンドゥーイズムに統合される様は一読の価値ありです。

 「臨済録」や「碧巌録」、そして「無門関」も読みましたが、インド人が静かに解脱体験の構造を追及しますのに中国人はおしゃべりや詩的表現が好きなのでこれを理解するのは難しい、仏教は中国風では理解するのが難しく、むしろヨガから入るのが分かり易いようです。

 道元の「正法蔵眼」はヨガの目で見ますととても分かり易い内容でした。道元の時間論、空間論、そして生死論は見事です。時間と私達との間に隙間は無いとの表現、「山動く」では主観と対象の間に隙間は無いとの表現、そして「生も一時の位なり、死も一時の位なり」、見事です。しかし、永遠の魂などが有ると言うのは外道の了見であるとの指摘には驚きました。今にして思えば、まさに仏教の思想を表しています。

 親鸞について書かれた「歎異抄」は親鸞の人となりを良く表現していました。親鸞の話の内容は解脱体験をした人の表現であり、ヨガをやった経歴の見えない親鸞はどこでどうして解脱体験をしたのでしょうか。また、歎異抄を読みますと宗教と信仰の違いについて考えさせられます。私の理解では宗教とは自己の探求なのですが、すると信仰とは?信仰とは自己の探求を神様にお預けする事なんでしょうね。

 ここまで色々と古典について感想を述べて来ましたが、古典と対峙します時に、この人達は皆、私にとって大切なヨガ・フレンドなのだと思いますし、また夫々が新しい思想との遭遇で有ったと感慨もひとしおです。

 ついでに

 「法華経」は剥いても剥いても種が出て来ない玉ねぎのような経典でしたし、フロイトの精神分析は取るに足りない思想でした。また空海の「般若心経秘鍵」は仏教を単なる教養と見なす時の天皇や貴族に向けた解説書で、遠回しに遠回しに説明する空海の苦労が滲み出る内容でした。


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Facebook 友達への説明 臨済録

2025年01月04日 | 日記
Facebook 友達への説明 臨済録

 Facebook 友達の中のお2人からインド思想の説明をしてくれとのリクエストが有りましたので次のように書いてみました。

 臨済録の中で弟子が臨済に「仏の境地とはどんなものでしょうか?」と聞きますと臨済は「著衣喫飯屙屎送尿 ちゃくいきっぱんあしそうにょう(服を着、飯を食い、大小便をする事」と答えています。しかし、これは解脱体験の境地を指すものでは無く、解脱体験をしたあとの抜け感を指すのだと私は解釈しています。

 親鸞は「阿弥陀仏は光である」と言っていますが、私達の本質は真っ白な光であり、またその光を見る者です。これをヨガではサット(在る事)チット(在る事を知る事)アーナンダ(在る事を知る事で湧き上がる歓び)と表現しています。
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Facebook 友達への説明 仏教

2024年12月28日 | 日記
Facebook 友達への説明 仏教

 Facebook 友達の中のお2人からインド思想の説明をしてくれとのリクエストが有りましたので次のように書いてみました。

 原始仏典の肝は縁起説法と無常説法です。縁起説法は「AによってBが起こり、BによってCが起こり、CによってDが起こり・・・」、つまりその結果から原因へと遡り、最後には苦を脱すると言う説ですが、それが発展して空の思想になります。現象世界は因(直接の原因)と縁(間接的な原因)とで編み上げられた仮の世界であり、その仮の世界の中には永遠の魂などは実在しないと言います。これは正法眼蔵の中で道元も「永遠の魂などが有ると言うのは外道の了見である」と述べています。

 つまり仏教は現象世界も霊性も実在しないと言うゼロ元論なのです。まあ、ブッダはそこまで考えなかったのでしょうが。

 ブッダが誕生した時に「天上天下唯我独尊」と言ったそうですが、これは仏教思想では無くヴェーダーンタ思想です。ただアートマン(魂、霊性)だけが光り輝いてるとの主張であり、魂、霊性を認めない仏教思想ではありません。

 インドの3大思想は二元論のサーンキヤ哲学と一元論のヴェーダーンタ思想とゼロ元論の仏教ですが、当時の人達はそれらの区別をあまり考えずに寛容だったようですね。
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Facebook 友達への説明 サーンキヤ哲学

2024年12月21日 | 日記
Facebook 友達への説明 サーンキヤ哲学

 Facebook 友達の中のお2人からインド思想の説明をしてくれとのリクエストが有りましたので次のように書いてみました。

 サーンキヤ哲学は一般にヨガの哲学と言われていますが、霊性(プルシャ)と現象世界(プラクリティ)の両方が実在するとする二元論です。当初プルシャ(霊性)は自分の事をプラクリティ(現象世界)であると誤解しますが、プラクリティはプルシャの前でダンスを踊って見せて「あなたはプラクリティでは無くてプルシャなのよ」と説明、そこでプルシャは自分は霊性であると理解して本来の姿に戻ります。ここでプルシャは男性名詞、プラクリティは女性名詞だそうです。

 プルシャはプラクリティの活動を見ているだけで何もしません。一方プラクリティは展開を始め、統覚→心→体→環境世界へと展開します。つまり心と体と環境世界は同根でひとくくり(プラクリティの展開)で、それとはまったく別に霊性(プルシャ)が実在します。

 サーンキヤ哲学は霊性(プルシャ)の実在と共に現象世界(プラクリティ)の実在を主張、ここが私は大好きです。ここで男性名詞のプルシャはシヴァ神、そして女性名詞のプラクリティはシヴァ神の妃のパールヴァティーに相当します。

 サーンキヤ哲学はのちに発展してタントラ化するのですが、タントラの主役であるシャクティ(別名クンダリニー、女性の性的なパワーを神格化したもの)はプラクリティに相当し、(体の基底部に居る)シャクティ=クンダリニーが上昇し(体の登頂に居る)シヴァと合体して恍惚世界に到るそのシヴァはプルシャに相当します。

 インド思想は細密な哲学の中に突然男女の神様が登場しまして、なんだか思想の熱帯雨林みたいですね。ともあれサーンキヤ哲学はヨガの哲学ナンバーワンです。

 補足:タントラとは何かを説明するのは大変難しいのですが、タントラには古典ヨガのヨーガスートラには無い特徴として①身体の働きを大切にするところ(体内の7つのチャクラ=輪や、3本のナーディ=脈管の存在や、数多くのアーサナ=ヨガのポーズ、バンダ=締め付け、ムドラー=印、等を説明)や②イマジネーションの羽を大きく広げて羽ばたかせるところが有ります。

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Facebook 友達への説明 ヴェーダーンタ思想

2024年12月14日 | 日記
Facebook 友達への説明 ヴェーダーンタ思想

 Facebook 友達の中のお2人からインド思想の説明をしてくれとのリクエストが有りましたので次のように書いてみました。

 ヴェーダーンタ思想とはヴェーダ時代の最後の思想と言う意味だそうでして、その思想の根幹は「霊性が心を作り心が世界を作る」と言うものです。霊性(ブラフマン=アートマン)だけが実在すると言う一元論でして、認識の表象は人が勝手に作り上げた幻(マーヤー)であるとして、現象世界(認識の表象)をマーヤー(幻)として退けます。この時に認識の表象だけで無く認識の対象も実在しないとして一緒に片づけます(ここがひっかかりますね)。

 ヴェーダーンタ思想はウパニシャッドとも言いますが、膨大なウパニシャッドはその内容がまだ一貫しておらず、またヨーガスートラのようなヨガの技法についても述べていません。サーンキヤ哲学のように(ヨガの技法を丁寧に説明する)ヨーガスートラや(ヨーガスートラを哲学の面で支える)サーンキヤ・カーリカーのような明確な経典はヴェーダーンタ思想には見当たりません。強いて言うならばヨーガ・ヴァーシシュタがそれにあたるでしょうか。

 しかしインド思想の根本はヨガであり、ヨガのサマーディ(解脱体験)をどう理解しどう説明するかで二元論のサーンキヤ哲学になったり一元論のヴェーダーンタ思想になったりゼロ元論の仏教になったりしますので、どれか好きなのを選べば良いでしょう。

 ヴェーダーンティスト(ヴェーダーンタ思想の人)はその思想を説明するのにサーンキヤ哲学の用語を多用しますし、インド思想は結構混然としていますね。

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