命とは何か
NHKテレビの不定期番組「人体」がこの間終了しましたね。IPS細胞の山中教授とタモリが進行する番組でしたが最後は「命とは何か」でした。山中教授の説明では命とは原初の単一の細胞だったのだそうですが、その単一の細胞の中には(生物では無い)無数の物質が有ってそれらが相互に作用しあい、そして細胞の働きを助けているそうで、それらの無数の物質の働き無しでは細胞は命として存続出来ないとの事でした。そして命とは何かを追及していると、分かれば分かる程分からない事がどんどん増えていくのだそうです。しかしこの単細胞の中の微細を追及するやり方は細胞(命)の究極の姿を探求する科学者達が神の領域を探しているかのようで、このアプローチでは結論に到らないように思いました。
私達は日頃、大宇宙と小宇宙と言う考えをしますね。宇宙全体の摂理を大宇宙(マクロコスモス)とし、一方で私達の体(人体)を小宇宙(ミクロコスモス)として人体の中には宇宙の摂理が全て入っていると言う考えです。ここに山中教授の微細な単一細胞の世界を持ち込みますと、宇宙全体の摂理(大宇宙、マクロコスモス)の下に人体(小宇宙、ミクロコスモス)が有り、そして人体(小宇宙、ミクロコスモス)の下に単一細胞(極小宇宙)が有る、つまり大宇宙→小宇宙→極小宇宙と進む、まるでマトリョーシカのような世界が展開します。すると極小宇宙の次には何が有るのだろうか。
物理学では世界を構成する極小の物質を追及した結果、それは物質では無く「振動」だったそうですね。
そうすると、さて、物質とは何か?命とは何か?
昔、仏教教典を数多く翻訳した中村元さんが「自己の探求」と言う本を出していたので読んでみました。中村元さんの事ですから宗教哲学的なアプローチをするのだろうと思って読みましたらなんと「生命の起源」へとお話が進んでしまい、がっかりしたものです。お話は自我→自己→息→生気論→機械論、そして生命の起源へと続いていました。中村元さんにして、なかなか難しい問題だったようです。
「命とは何か?(自己の探求)」には生物学的探求、物理学的探求、そして宗教哲学的探求が有りますね。そして私は宗教哲学的探求です。
「命とは何か?」、私が思いますのに、それは「経験」と「記憶」です。道端の石ころに命は有りませんが、経験はします。陽に当たったり雨に当たったり、しかしそれを記憶しません。一方で命は経験を記憶します。アメーバも植物も人間も経験を記憶し、その記憶によって良い道(方法?)を探し、そしてより快適な存続へと向かいます。
ヨガでは経験はカルマ、記憶はサムスカーラ、そして自我意識のアハンカーラが揃えばそこはヨガの世界ですね。
NHKテレビの不定期番組「人体」がこの間終了しましたね。IPS細胞の山中教授とタモリが進行する番組でしたが最後は「命とは何か」でした。山中教授の説明では命とは原初の単一の細胞だったのだそうですが、その単一の細胞の中には(生物では無い)無数の物質が有ってそれらが相互に作用しあい、そして細胞の働きを助けているそうで、それらの無数の物質の働き無しでは細胞は命として存続出来ないとの事でした。そして命とは何かを追及していると、分かれば分かる程分からない事がどんどん増えていくのだそうです。しかしこの単細胞の中の微細を追及するやり方は細胞(命)の究極の姿を探求する科学者達が神の領域を探しているかのようで、このアプローチでは結論に到らないように思いました。
私達は日頃、大宇宙と小宇宙と言う考えをしますね。宇宙全体の摂理を大宇宙(マクロコスモス)とし、一方で私達の体(人体)を小宇宙(ミクロコスモス)として人体の中には宇宙の摂理が全て入っていると言う考えです。ここに山中教授の微細な単一細胞の世界を持ち込みますと、宇宙全体の摂理(大宇宙、マクロコスモス)の下に人体(小宇宙、ミクロコスモス)が有り、そして人体(小宇宙、ミクロコスモス)の下に単一細胞(極小宇宙)が有る、つまり大宇宙→小宇宙→極小宇宙と進む、まるでマトリョーシカのような世界が展開します。すると極小宇宙の次には何が有るのだろうか。
物理学では世界を構成する極小の物質を追及した結果、それは物質では無く「振動」だったそうですね。
そうすると、さて、物質とは何か?命とは何か?
昔、仏教教典を数多く翻訳した中村元さんが「自己の探求」と言う本を出していたので読んでみました。中村元さんの事ですから宗教哲学的なアプローチをするのだろうと思って読みましたらなんと「生命の起源」へとお話が進んでしまい、がっかりしたものです。お話は自我→自己→息→生気論→機械論、そして生命の起源へと続いていました。中村元さんにして、なかなか難しい問題だったようです。
「命とは何か?(自己の探求)」には生物学的探求、物理学的探求、そして宗教哲学的探求が有りますね。そして私は宗教哲学的探求です。
「命とは何か?」、私が思いますのに、それは「経験」と「記憶」です。道端の石ころに命は有りませんが、経験はします。陽に当たったり雨に当たったり、しかしそれを記憶しません。一方で命は経験を記憶します。アメーバも植物も人間も経験を記憶し、その記憶によって良い道(方法?)を探し、そしてより快適な存続へと向かいます。
ヨガでは経験はカルマ、記憶はサムスカーラ、そして自我意識のアハンカーラが揃えばそこはヨガの世界ですね。