自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

祝福されない離伯/移民の一体感すでに無く

2011-02-14 | 家族>社会>国家
1949年、日伯の通商条約が再開されると日本から人や物が入ってきた。
フジヤマの飛魚の異名をとった古橋、橋爪がわが市にも来て社交クラブの大
プールで日系人を慰労した。
わたしは見ていないが、近くのパリヤーノ空港では勝組がやはり慰問使節団
は来たと気勢を上げたそうだ。
日系人の人心を安定させることを目的にした両国政府の計らいだったと想う。
人心の流れが永住に向かう中、父は流れに抗して、自費帰国を選んだ。
牛革の巨大鞄をいくつも注文製造して帰国に備えた。
エナメルペイントでアドレスを書き直す父の姿を見かけることが多くなった。
父にとって農場主のNさんは帰国請願運動の同志であった。
運動の熱から冷めて、父は帰国の道を貫きNさんは永住に舵を切った。
もはやブラジル中どこにも移民社会の一体感はなかった。
喜怒哀楽を分かち合い本音で語り合った「幸福な日々」は過去のものになって
しまった。
Nさんは送別会を催してくれたと思うがほとんど記憶にない。
変り身が速かった母方の一族は母の帰国を引きとめようとした。
Y叔父は私を指して「日本まで行って肥えタゴ担ぎをすることもなかろう」と言っ
て父を悔しがらせた。
日本に着いてすぐその意味を思い知らされた。
私自身そのころ都会と田舎の二重生活をしていたので遊び仲間を失っていた。
学び舎と働く場から離れるとひとは語り合える友達を失うものだ、と今になって
悟り、ホームレスに上辺だけでも同情を寄せている。
別れは永の別れを意味した。
親類だけは空港まで見送りに来てくれた。
遠方に住む父方の伯母と叔父も来てくれたにちがいない。
不遜にもわたしが一番悲しかったのは、親代わりをしてくれたY夫人とY家に
引きとってもらったリオン(シェパード)との別れだった。
主をなくしたリオンは若いのにその後元気がなくなり半年後に死んだ。



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