父は1904年日露戦争の年に、母は1914年第1次世界大戦の年に、日本で生まれた。
父母は青春時代に移民の辛酸をなめ、貯めた資金で開拓の果実(コーヒー園)を得た。
父母が結婚とほぼ時を同じくして入植したロンドリーナ市は、市とは名ばかりで、まわりの密林を開拓する拠点の小さな町にすぎなかった。
サンパウロ州から見て奥地とよばれていたパラナ州は樹海の中に数十キロメートルごとに町が設けられ幹線道(馬車道兼車道)でつながっていた。
わたしが写真で想像する原初のそのころの町は、西部劇に出てくるような小さな町の光景をイメージさせる。
町の中心に教会、雨が降るとぬかるむ道の両側に市内で唯一の鍛冶屋、建材屋、雑貨屋、居酒屋が点在した。
郵便は雑貨屋か居酒屋が取り扱う。
織物店、医者の記憶はまだない。
1926年に始まった開拓の手順は次のとおりである。
まず英国系北パラナ開拓会社が密林を10エーカー(25ヘクタール)単位で区分けし分譲する。
入植者がもやって伐採し乾燥させ数区画を一気に焼き払う。
炎が天を焦がし黒煙が太陽をくまどる。
空から灰が降りしきる。
今でいう生物多様性が1日で失われる。
わたしはこの光景を1度遠くから見たことがある。
最後のヤマ焼きだったかもしれない。
わたしの居住地から遠くないところに1区画密林の名残があった。
「ガイジン」の親子の狩について行ったことがあった。
妨げになる樹や枝を切り払い茂みをかきわけて道を開けながら進む。
湿った落ち葉を踏む感触、蒸せるような朽ち葉の匂い、ひんやりした冷気、そして繁る青葉が放つ芳香ペトンチッド。
聞きなれない鳥の鳴き声。
サルのなき声も混じっていたかもしれない。
そしてなによりも神秘的な雰囲気がかもし出す安らぎ。
わたしは今なおジャングルの野生にいちばんあこがれる。
この体験がなかったら私の人生はまったく別物になっていただろう。
竹の子に似た椰子の若芽パルミットを食べ待伏せ小屋までつくって獲物を待ったが1羽の鳥も1匹のサルも獲れなかった。
銃を撃つこともなかった。
43年後人口50万の大都市になっていたロンドリーナ市を訪れた。
かの密林はブラジル有数の総合大学に変わっていた。
高さ30mの幹と樹冠だけの見事な巨木が数本往時を偲ばせるだけだった。
その地区は大学のシンボルツリー・ペロバの名をとってペロバウとよばれ市民に親しまれている。
市の中心部に建つ開拓碑には父母の名が刻まれている。
父の入植は1933年、母のそれは1935年、鉄道が開通した年である。